9: 間違っては
乾くのを待つ間、俺はカンバスの前にじっと座って、それを見つめ続ける。
死んだアトリエで一人、かつてここに満ちていたものを読み取るように、カンバスと向かいあい続ける。
***
そしてまた、俺は筆をとる。
一瞬を、積み上げていく。
一瞬を積み上げ、永遠に近づける。
色を重ねる度に、絵は深みを増し、そこに込められた情報が情感が大地に降る雪の如く、積もっていく。
***
「ねえ、兄さんは一体何をやってるの?」
啓司がアトリエを訪れて、カンバスと向き合う俺に訊ねる。
「せっかく零ちゃんが明るくなったと思ったら、次は兄さんの番?」
「…………」
「この前駅の近くで零ちゃんと偶然会ったんだけど、びっくりしたよ。最初、零ちゃんだって分からなかったもん」
「…………」
「前から綺麗だったけど、もっと綺麗になったよね。それに友達もたくさん出来たみたいだし」
「…………」
「でも気のせいかな、何だかちょっと痩せたような感じがする。……それに、なんていうのか、ちょっと手を伸ばしにくいっていうか、近づきがたいような、そんな感じがするんだよね」
「…………」
「まるで、零ちゃんの描いた絵みたいに」
***
筆を走らせる。
あの時の空気を、その分子の一つ一つまでを描き込んでいく。
一瞬を、積み重ねていく。
「また少し、あの子は痩せたよ」
絵の具を削れば、その分だけカンバスに堆積した時間が削られ、その下からこの一瞬に至るまでのあいつの時間が現れるように。
「でも、どうしてだろうか。痩せれば痩せるほど、あの子は美しくなっていく」
カンバスに新たな色が重なるたびに、自分の中から何かが抜け出て、そこに移っていく。
「しかし、どうしても私は、それが美しいと思えない。痛々しい。胸を抉られるような痛みを感じるんだよ」
目が、霞む。筆がぶれそうになって、ぎりぎりのところで堪える。
「……あの子はね、食事を終えると、必ずトイレに向かっていた」
目頭を強くおさえて、瞬きを何度か繰り返す。視界はもとに戻る。再び描き始める。
「――どうしてこうなってしまったんだろうなぁ」
今日もまた、新たな雪がカンバスの上に降り積もった。