全てが過去になったあとで
夏になると、決まって思い浮かぶ光景がある。
野球部やサッカー部のかけ声。金属バットに硬球が当たった高い音。他には誰もいない美術室。クリーム色のカーテン越しに背後から差し込む強い日差し。制服を着て並んで座る俺と、そして――あいつ。
イーゼルに掛けられたカンバスに向かって、一心に何かを描いている。油絵の具の匂い。木炭で黒くなった指先。パンくずの柔らかく、それでいて硬い不思議な感触。
その時、不意に窓の外から強い風が流れ込み、カーテンがはためく。驚いて、小さくあいつが声を上げる。俺はそれを見る。揺れるカーテンの向こう。どこまでも青く広がっていく空。差し込む日差し。風に靡く、黒くつややかな長い髪の毛を手でおさえ、何かとても恐ろしいものから逃げるように、目をぎゅっと瞑っている。
風がおさまった後、あいつは恐る恐る、ゆっくりと瞼を開く。
太陽の光に照らされ、その白さを際だたせる肌の中で、髪の色と同じ、ハッとするほど澄んだ黒い瞳が現れ、俺を捉える。
目が合う。眼差しが交感する。俺は、まるでその瞳に呪縛されてしまったかのように、身動きがとれなくなる。そしてすぐに気付く。それが感動なのだということを。
そこにあったのは、それまで俺が見てきたどんな絵画より、美術より、俺の心を震わせる何かだった。
雷に打たれたような衝撃の中、俺は確かにその時、そこに世界を感じていた。
その時、確かに、そこには、
――世界の全てがあったのだ。
「先生、今回の個展も好評でしたね。僕の生徒なんて、『こんな凄い絵を見たのは初めてだ』って、顔を真っ赤にして興奮していましたよ」
撤退準備が始まり、俄に慌ただしさの増した中で立ち尽くす俺に、そう声を掛けてきたのは、優男風のひょろりとした眼鏡だった。それまで見上げていた一枚の油絵から目を離し、眼鏡――藤堂に向ける。処世術でありながら、既にそれが常態となってしまったニコニコとした笑みを顔にはり付けて、藤堂は戯けたように手を広げていた。
「お前の生徒って、小学生じゃねえかよ」
「小学生だって、本物は分かりますよ」
藤堂は俺の教え子の一人で、何年か前に二度の留年を経て卒業した男だった。その後は親のコネで公立の小学校の図工の教師になったのだが、それが芸大のすぐ傍にあったため、縁が切れずに、今でもこうして付き合いがある。今回は俺の展覧会に、生徒を連れてやってきていた。
「はっ、本物ね。どうせあれだろ、そのガキが感動したってなぁ、これなんだろうが」
目の前にある絵をくいっと顎で示してやると、藤堂は「たはは」と苦笑した。
「俺の絵じゃねえじゃねえか。お前は何だ、わざわざ俺に嫌味でも言いにきたのか? そういやお前は在学してた時も、何かっつーと俺の粗を見つけては――」
「ちょ、ちょっと止めてくださいよ。昔のことじゃないですか。あの頃はですね、僕もトンガっていたというか、世間というものを分かっていなかったというか、ですね……」
「ふん、それこそお前が教えてるのと同レベルの小生意気なガキだったよな」
「……まったくもう、先生は相変わらずですね」
「俺ぁ、変わらねぇよ。変われねぇ」
けっと悪態を吐いて、俺を件の絵を、もう一度見上げる。
「で、お前はこいつを描いたのが誰なのか聞きたいと、そういうわけなんだろ?」
都内にあるテナントビルの地下部分を貸し切って催した今回の個展。その片隅に、ぽつんと、一枚だけ俺のものじゃない絵が掛かっている。名前はない。ただ、タイトルだけがあった。
『ここではない何処かへ』。
「……果たしてこの人は、そこに辿り着けたのでしょうか」
「んなもん、見りゃ分かるだろうが。一目瞭然ってやつさ」
それは特に際だった技巧が用いられているわけでもない、技術的に言えば平凡な油絵だった。だが、ありきたりの技術によって描かれたその絵からは、異様と言っていいほどの気配が発せられていた。
――黒い背景。微妙に異なる色合いの黒が何層にも渡って塗りたくられたそれは、絵の上部を中心にして波紋のようにグラデーションを為している。その黒の中心――即ち上部には、一本の右手が描かれている。透き通るような白い肌を持った美しい腕。その腕をオーラのように淡く優しい光の色が包んでいる。
真っ暗闇の世界に天から差し伸ばされた救いの手。
そこには圧倒的な救いがあった。絶望の淵にいる何か、或いは誰かに向かって伸ばされる救いの御手。暗闇の中の一筋の光が、見る者に強烈なまでの希望――救われたという気持ちを、与えることだろう。
――もしも、その絵が、そのままの状態であったらば、の話だが。
「……ええ、そうなんでしょうね。この絵を見ているだけで、僕は無性に悲しくなります。いえ、そうじゃない。正直に言えば、死にたくなる。捨て去ったはずの、遠い昔の青臭い自分に戻ってしまいそうになるんです」
魅入られたようにその絵から目を離さず、藤堂は言った。
その絵――『ここではない何処かへ』。そこに連れていってくれるはずだった救いの御手の、その手の甲に深く穿たれた現実の釘。
何の変哲もない一本の釘が、圧倒的な存在感をもって、その絵の本来持っていたであろう希望/救いを否定していた。
これを描いた人間の、強烈な悲嘆。訴え。答え。
――ここではない何処かなど、何処にもありはしない。
「これを見て感動したってガキは、あれか。問題児か?」
「……ええ。どうしてか僕には懐いてくれているんですけどね、リストカットの常習犯ですよ」
「はっ、だろうよ。この絵に引き込まれる奴らは、みんなそうだろうよ。……ったく、どいつもこいつも弱々しすぎて、泣けてくらぁな」
「先生が、強すぎるんですよ。どうしてそこまでちゃんと生きられるのか、どうしてそこまで揺らがずに居られるのか。――妬む余り、うっかり憎んでしまいそうになるほど、ね」
藤堂は下げられつつある他の絵――俺の描いた作品を見回し、目を細める。
「……けれど、それでもその光に向かって飛ばずには居られない。例えその光が炎で、自分の身を滅ぼすのだと知っていても。今なら、はっきり言えますけどね、僕は先生の絵がとても好きですよ。力強くて――本当に力強くて、どうしてこんな絵が描けるんだろうって……こんな風に世界を見れるんだろうって、こんな風に生きられるんだろうって」
まるで届かないものを見ているかのように、その目に、奇妙な哀切の光が過ぎる。
「罪な人ですよね、あなたも」
「ふん、知るかボケが。俺に言わせりゃ、自業自得って奴だな。弱者が無理に強く在ろうとするから、齟齬が起きて破綻しちまうんだよ。弱者は弱者らしく、弱者として弱々しく生きていればいい。求めるから、裏切られるんだ。初めから求めることそのものを諦めていれば、弱者は弱者として生きていけるってのによ」
藤堂は苦笑する。
「……それを聞いたのが今で良かったですよ。もし学生時代に聞いていたら、先生を殺してしまっていたかもしれませんよ」
「お前らに俺が殺せるかよ。その時は返り討ちにしてやってたぜ。つまりお前がまだ生きているのは、この俺に刃向かわなかったという、そのお陰だ」
「かも、しれませんね」
やれやれと肩を竦めて、藤堂は俺から視線を外し、また絵を見上げた。
「この絵を描いた人は、どうだったんでしょうね。この人も、先生という炎に焼かれにやってきた人間の一人だったのでしょうか」
「あいつが? あいつが俺みたいなチンケな人間に惹かれてやってきたって? 馬鹿をいうんじゃねえよ。あいつは俺のことなんざ歯牙にもかけていなかった。他人を歯牙に掛けられるほどの強さを持っていなかった。――自分のことだけで手一杯の弱さの塊、弱さの権化、弱っちすぎて圧倒的だった」
吐き捨てるように言った俺に、藤堂は曰く言い難い目を向ける。
「先生にとって、その人は……とても、重要だったんですね」
「重要? ……ああ、そうかもな。そう、確かに、あいつは重要だったさ。何が重要だったかって? そんなもんは聞くな。俺にもわからねえよ」
「その人は、何という名前だったんですか?」
その藤堂の問いに、俺は一瞬だけ口を噤み、
「上木田零子。この絵を描いたやつは、俺の幼馴染みだった」
そう、答えた。