第十五章 言い訳
次の日の朝の出来事である。
留美菜の会社は朝から、納品書類に追われていた。
水産会社では、季節に応じて水揚げ量での取引価格は、
取れ高で大幅に左右されるので、
業者とのやり取りで四苦八苦であった。
男性社員は、朝から受話器片手に折り合いを付けていた。
そんな中、一人の女性の態度がおかしい。
それに気づいたのは古川で、その女性は美奈代であった。
持ち場のデスクに座り、仕事に手を付けず俯いていた。
古川、「加藤さん、どうしたの具合悪いの」と、心配そうに問い掛けると、
美奈代は何も言わず、急に書類に目を通し始めた。
そして昼休み、留美菜がトイレから出てくると、
美奈代が廊下に佇んでいた。
気にせず留美菜は、美奈代の前を通り過ぎると、
美奈代が、「あんた、下ろした子供どうしたの」と、不意に尋ねられた。
留美菜は顔が強張り、「はあ」と、聞き返した。
美奈代、「だから下ろした子供は、供養してるの」と、聞いて来た。
留美菜は大声で、「供養してるわよ、私の田舎の水子の墓で」と、激怒した。
すると驚いて美奈代は、その場から立ち去ってしまった。
いささか頭に来た留美菜は、「それに対して文句があるなら言いなさいよ。
豊の悪口意外なら、この場で受け付けるわよ」と、やはり怒鳴った。
その声で、会社の同僚は廊下に出て来て大田が、「何だよ神崎、
せっかく素直になったのに、またいがみ合っているのか」と、咎めた。
留美菜は顔を強張らせながら、「美奈代は私の下ろした子供の事で、
何か文句が有るみたいだけど、皆が居る前で話して上げるわよ。
中絶手術から話して上げ様か」と、美奈代に激怒した。
すると美奈代は顔面蒼白で、「怖いの」と、聞いて来た。
そこで社員全員察しが付いた。
恐る恐るちずるが、「あんたどう言う経緯で、妊娠したのよ」と、聞くと、
芽衣子は、「あんたは現在、付き合ってる男が居たの」と、問い掛けた。
古川、「まさか会社の誰かなんて、言わないでくれよ頼むから」と、焦りだした。
すると美奈代は、眼が虚ろに成り、「数ヶ月前に都内のバーで、
意気投合した男と寝たのよ。
まさか妊娠するなんて、思わなかったから」と、言い訳を口にした瞬間、
社員全員言葉を無くしてしまった。
美奈代は急に、留美菜の顔を睨み、「なによあんた、
同類が出来た様な目で見ないでよ」と、
表情一つ変えない留美菜に当り散らした。
無論留美菜は、「何も思ってないわよ。
良いとも悪いとも思ってないわ。
自分の辛さを他人と分かち合おうなんて、
これっぽっちも思わないわよ」と、訴えた。
大田、「止めろよ加藤、神崎に当たっても、気は楽には成らないだろ」と、咎めた。
芽衣子、「それで確信は有るの」と、聞くと、
俯きながら美奈代は、「妊娠検査薬」と、呟いたのであった。
会社を終えた留美菜は、
いつもの様に、豊の店に行こうと歩いていると、
急に美奈代が背後から擦り寄って来た。
すると留美菜の腕を持ち、「ちょっと待ってよ」と、声を掛けて来た。
留美菜はやはり、顔を強張らせながら、「何よもう、
今から豊の店に行くんだから、
何の用なのよ」と、持たれた腕を振り払おうとした。
美奈代は必死に腕を握り締め、「ねえお願いだから相談に乗ってよ」と、せがんだ。
留美菜、「何をアドバイスするのよ。
後は自分の気持ち次第でしょ」と、捕まれている腕を無理矢理振り解いた。
美奈代は急に泣き出し、「どうしたらいいのよ」と、頼ると、
留美菜は立ち止まり、「どうしろと言われても、出来たものは産むか、
下ろすかしか手立てが無いのよ」と、激怒した。
美奈代、「あんたは下ろした時、どう言う心境だったのよ」と、聞かれ、
返答に困ってしまったが、留美菜は落ち着いて、「愛した男の子供を下ろした気持ちは、
下ろした者しか解らない。
増してや裏切られた男の子供だと思えば、尚更辛いわよ。
あんたは遊んだ男との間に出来た子供なら、
差ほど辛くはないでしょ」と、あしらった。
美奈代は俯いて、「痛いの」と、聞いて来た。
留美菜、「全身麻酔ならば、眠っている間に済んでしまう。
私は全身麻酔で行ったけど、安い医者だと下半身麻酔や、
ブロック麻酔で行うと、強烈な痛みを伴う場合もある。
お金次第ね。
なるべく恥を捨てて、大きい病院で行わないと、
街の闇医院で中絶手術を行うと、麻酔もろくに掛けずに、
器具を入れられるから、辛いはずよ」と、忠告した。
それを聞いて、心細くなる美奈代は、「ねえ、幾ら掛かるのよ」と、聞いて来た。
留美菜、「言って置くけど、お金は貸さないからね」と、念を押して、
足早に美奈代から放れた。
美奈代は必死で留美菜を追いかけ、
走りながら、「ねえお願い、
金額だけでも教えてよ」と、わらをも掴む様な思いで問い掛けた。
すると留美菜は立ち止まり、「都会と田舎では値段に格差が有るから、
分からないわよ」と、応えた。
すると美奈代は、急に体が震えだし、「私、そんな体験した事無いから、
どうして良いか解らないのよ」と、叫んでその場にしゃがみ込み、
両手を顔に宛がい、声を上げて泣き出した。
その姿を晒した美奈代に留美菜は、「あんたはもう二十五歳でしょ。
私が子供を下ろしたのは二十歳の時よ。
行きずりの男との間に、出来た子供を下ろすならば私に比べたら楽よ。
事故に遭って治療すると思えば、いいでしょ」と、訴えた。
美奈代は泣き続けながら、「産むにしても、行きずりの男との間に出来た子供なんて、
育てる自信なんてない」と、その場で泣き崩れた。
繕い用が無い言い訳をする美奈代に、
留美菜は呆れて、「私も今まであんたに大して、いがみ合っていた事を、
悪く感じてるけど、私と言い合いに成った時、かなりあんたは強気に出て来たけど、
今ここで、その敵を取ろうなんて、
思って無い事を承知して貰った上で言うけど、
お腹に出来たものは、育ってても育て無くても、
病院に行って出して貰うしか方法が無いのよ。
自力で生む事は出来ても、自力で中絶は出来ないのよ。
恥ずかしいだの痛いだの、言っても埒が明かないのよ」と、告げた。
すると美奈代は、急に泣き止んで立ち上がり、
べそを掻きながら、「当分会社休むから」と、言い残して、
とぼとぼ歩いて来た道を、戻るのであった。
遣る瀬無い思いの留美菜は、自分が中絶した時の事を、
思い返してしまうのであった。
同時に豊との間に、万が一 子供が出来たら、
もう一度あの辛い体験をするのでは無いかと、
不安に駆られてしまうのであった。
その夜、豊も仕事が終わり、二人は留美菜のコーポに居た。
何気なくベッドに腰掛けている留美菜は、思いに更けていた。
それを見た豊は、「どうした、今日も会社で何か遭ったのか」と尋ねると、
覚束ない眼差しの留美菜は、首を振った。
その表情を見て、会社でトラブッたと感じた豊ではあったが、
それ以上追求すると、感情的に成ると思いそっとしておいた。
何気なく留美菜の腰掛けている、ベッドの横に座り、
肩を抱き寄せると拒んだ留美菜。
それを察した豊は、「何となく解ったよ、言わないけど」と、呟いた。
留美菜は豊の顔を見詰めて、「豊のその優しさが堪らないの。
前の彼氏なら、拒んだ私を無理矢理押し倒した。
豊は私が拒めば、そっとして置いてくれるから」と、告げた。
豊はその時、留美菜のお腹をさすり、「安心しろ、そんな卑怯な真似はしない。
しばらく営むのは止めよう、体が許していても心が拒んでる。
中絶した事をいがみ合って来た、女性社員に言われたのだろ」と、勘繰ると、
留美菜は急に感情的になり、「やめて、私の一番弱い所を触らないで」と、立ち上がった。
急に我に返り俯いて、「ごめんめんなさい、今日はそこをなでて貰うと、
あの悪夢が蘇るの」と、呟いた。
留美菜は豊にお腹をなでて貰うと、安心感が沸くが、
今日は美奈代の事で、自分が中絶した事を思い出し無性に拒んだ。
豊、「そんなに酷く中傷されたのか」と、尋ねると、
留美菜は豊の横にまた腰掛けて、自ら豊に抱き付いた。
留美菜、「勝手な事ばかり言ってごめんなさい、
いつもの様にお腹をなでて」と、せがんだ。
豊はそれに対して文句も言わず、留美菜のお腹をもう一度なでた。
すると留美菜、「会社で私といがみ合っていた、
この前、豊の店に私が連れて来た、加藤 美奈子と言う私の同じ年が居るの。
その子が行きずりの男と、一夜を明かして妊娠したの。
今日その事で、私に相談されたの。
私、それに答えていたら昔を思い出して、
豊の事が怖くなってしまったの」と、告げると、
豊は優しく、「だから今言っただろ。
そんな事だろうと思ったから、
安心しろ、そんな卑怯な真似はしないと言ったんだ」と、念を押した。
留美菜、「解るのね、私の表情で豊は何を拒んでいるかが」と、語った。
豊、「留美菜と俺は同じ性格だから、
恐れている時や、拒んでいても甘えたい時や、何か会社でトラブった時でも、
伝わってしまうんだよ」と、悟った。
留美菜、「そうだったね、
私達最初は埒が明かない喧嘩で、知り合ったね」と、思い返した。
豊、「そうだよ 一つしか無い、コンビニのサンドイッチを巡って、
口論と成って俺が奪い取って、
今度は割烹料理屋の下駄箱の、靴べらの権限で言い争った」。
留美菜は顔が綻んで、「あのサンドイッチも、
靴べらも私が先に掴んだの」と、主張した。
豊も微笑んで、「そう言う事にして置くよ」と、告げると、
留美菜は笑いながら、「そう言う事って何よ。
あれは完全に私の方が早かった」と、留美菜も権利を主張した。
豊は、「はいはい」と、答えた。
すると留美菜は、「愛したのは豊が先だった」と、告げると、
豊は、「それは違うとは言えないな」と、認めた。
留美菜、「そうよ豊が私に落ちたのよ」と、誇らしげに答えた。
豊、「俺の料理に落ちたのは、留美菜の負けだな」と、答えると、
留美菜は、「まあまあって言ったでしょ、あの時は」と、反論した。
そして二人は笑ったのであった。
二人は自然と一つに成ろうとしていた。
豊は留美菜にキスをすると、留美菜はその身を豊に任せて行った。
すると豊は、「今日はやっぱり怖がっているな」と、留美菜に告げると、
留美菜は、「そんな事ない」と、呟いた。
豊は、「それは言い訳だな、解るんだ留美菜の挙動で、
でもここで終わりにはしないよ」と、優しく告げると、
豊はそっと、留美菜の瞼にキスをした。
豊は留美菜の体の力が、抜けて行くのを感じていた。
いつもよりそのペースは遅いが、慌てたりはしなかった。
豊はいつも自分の欲望寄りも、まず留美菜の心を優先する。
留美菜はキスをされている瞼が、熱く成るのを感じると、
「あ」っと、声を出した。
次第に全身の力が抜けて行くのを感じて、豊は留美菜をベッドに寝かせた。
豊は、「まだ俺に体を許さなくていい、少しずつ少しずつ、
心を開いて行けばいい、慌てないで少しずつ少しずつ」と、語ると、
留美菜は安心感が増して行く。
豊は優しく留美菜の唇にキスをすると、
留美菜が体を許して行くと同時に、「愛して欲しいの、
私の蟠りが消えるまで」と、呟いた。
それは留美菜の心を、豊に預けたと言うサインであった。
そして二人は、過去の蟠りを拭い去るが如く、
激しい愛の世界へと、その身を委ねて行った。
この時、留美菜は、「豊なら、その子を産んでみたい」と、呟いた。
豊はその時、亡くした妻との間に、子供が出来なかった事を思い出すと、
彼女に達成出来なかった夢を、委ね様と思うのであった。
この時二人は失くした夢をもう一度、育もうと夢をいだいたのであった。
同時に、二人の悪夢もお互いの力で、拭い去ろうとしていたのだった。