第十章 雨
豊かは自分の店の厨房で、誰かと揉めていた。
豊、「兄貴、無茶言うなよ。
やっとこの店が軌道に乗り始めて来ているのに、
もう一軒店を出そうなんて無謀だろ」と、怒りを露に兄に反論した。
兄の和也はそんな豊かに平然とした態度で、「軌道に乗って来たから、
もう一軒出そうと言っているんだ」と、答えた。
豊、「借金はどうするんだ。
毎月家賃を入れて六十万も払っているんだ。
給料だって六人分合わせると、百二十万も払っている現状で、
二件も出してどうやって賄って行くんだ。
第一、二件目に置くシェフはどうするんだ」と、問いかけると、
和也は、「ここのシェフは三人で賄える。
ギャルソンとウェイトレスは、募集すればいくらでも来るだろ」と、言い返すと、
豊は呆れて、「幾ら軌道に乗り始めたからと言っても、
売り上げの殆どを経費に持って行かれている現状で、
貯蓄無しでどうやって、銀行に借り入れるつもりなんだ」と、激怒した。
和也、「銀行だって今の売り上げを見せれば、納得が行くはずだ」と、豪語すると、
豊は、「兄貴のギャンブルの借金まで追及されるぞ。
僅かながらの貯蓄だって、ギャンブルで食い尽くしている有様で、
銀行側が金を貸すとでも思っているのか」と、反論した。
今日はあいにくの雨模様。
外は薄暗く二人の気持ちをより一層闇が包んでいた。
その時、留美菜は会社で仕事をしていると、何気なく窓の外を見詰めた。
この雨模様に何となく気持ちが沈んでいた。
会社帰り傘を差しいつもの豊かの店の前を通ると、
雨ではあったが店内は賑わっていた。
そして何時もの様に、店の裏に回り傘を畳んで裏口から店内に入る。
するとシェフ達はあくせく料理を作っていた。
それを横目に厨房を通り抜けて、奥の控え室に行く留美菜であった。
営業が終わると、シェフ達と兄和也とで揉め事になっていた。
実は人脈があるのは豊の方で、
昔からホテルでの料理を賄っていた頃の豊の同僚が多く、
兄である和也の今後の経営方針に反対していた。
そのシェフの一人、河本 博が、「確かにバブル時代は、
高級指向の多角経営は成功したが、
今は早く安くで商売を営むか、我々みたいに質を上げて、
料金もそこそこの値段で経営して、
大人しく一軒で経営するかのどちらかが、
運営の決め手だ。
この御時世で、この一軒が成功しているだけでも奇跡に近い」と、悟った。
そして豊が、「兄貴バブル好景気とは、
経営の根本的な要素が違って来ているんだ。
我々の若い頃は料理人と言えば徒弟制度で、入りたての若い見習いは、
原則として下働きが主で給料も、スズメの涙程度で許されたが、
今は労働基準局もうるさい世の中で他に店を出して、
下仕事は見習いに遣らせても、最低二十万は給料を払わなければならない。
何故なら夜勤給与も、加算されるからだ」と、述べた。
それに対しシェフ達は、豊の意見に賛同した。
他のシェフの、三波 輝幸は、「今、高校の授業の一貫で、
料理を学ぶ学生も多いが調理師学校を卒業すると、
ホテルなどでは直ぐシェフとして厨房を任される。
何故ならホテルサイドは他で色を付けられたく無く、
ホテル独自の色を出したいからさ。
それに経験を積んだ 一流シェフ寄りも安く使えて、
まだ駆け出しならば何も解らないので、
ホテル側の言う事に忠実に従うから、扱いやすい。
今シェフを志す若い連中は下働きはしていない事が多く、
我々みたいな個人経営で尚且つ極めて来た俺達と、
料理の思考的にトラブルのは目に見えていないか」と、懸念した。
反対意見に圧倒されてイライラしている和也は、「何とかなるだろ」と、ふて腐れた。
それを遠くから佇んでじっと見ていた留美菜であった。
すると和也はそんな留美菜を見て、「豊、お前の彼女は、
ウェートレスして使えないのか」と、怒り交じりに尋ねると、
豊も、「ふざけるなよ兄貴、あの子を我々の事情に、
巻き込む事は許さないからな」と、激怒した。
そんな和也の傲慢な態度にいささかシェフ達は、
業を煮やしていたのであった。
店で豊は兄とトラブった後、留美菜と二人で一つの傘を差して、二人で歩いていた。
留美菜は自分に気を引いてくれないと、気を引かせる為に、
豊にちょっかいを出す。
今日の豊は兄和也とのいざこざで気分が悪かったので、
黙っていたのだが、それが気に食わない留美菜であった。
豊の煮え切らない眼差しに留美菜は自慢げに、「私の勝ちね。
私に心底惚れたのね」と、自慢げに答えた。
その時、豊は何も答えずただ重苦しい表情を浮かべていた。
そんな豊を横目で見る留美菜は、「悔しいの」と、問い掛けると、
豊は何も言わなかった。
いささか返事が無い豊に怒れた留美菜は、「ねえ、言い訳出来ない程悔しいのは解るけど、
負け側の意見を言いなさいよ」と、追求した。
そして豊かは、その重苦しい眼差しで口を開いた。
豊、「ああ悔しいさ。
留美菜を自分の私利私欲の出汁に使おうなんて、
思っている態度がな」と、激怒した。
その時、留美菜は自分に対する豊かの思いは、
本気である事を確信して、自制心に駆られた。
豊、「君の言う通りだよ、我の強い同士は強い同士しか解り合えない事がある。
俺の負けだよ俺が先に君に落ちた」と、認めた。
その言葉に留美菜は心が熱くなったが、それを素直に表現出来ない、
照れくささと意地が入り混じり、急に顔が強張り、「ば~かば~か、
そうやってあの時コンビニで素直に私に、
サンドイッチを譲れば良かったのよ」と、言い放った。
言って後悔する留美菜は急に顔が切なくなった。
それを見た豊は、「根に持つタイプだね君は。
幾ら償ってもあの悔しさが忘れられない様だ」と、呆れた。
その時、留美菜は俯いて、「この性格が直らないの」と、呟いた。
それを耳にした豊は笑いながら、「喧嘩した方がいいのかな、
その方が俺らしくて」と、問い掛けると、
留美菜は、「今みたいに優しい方が好き」と、呟いた。
そんな彼女の肩を抱き寄せた豊は、彼女の体が震えている事に気づいた。
豊は震えている事で今の彼女の思いを察した。
そう留美菜は照れ臭いだけでは無く、
昔の彼との間に出来てしまった子供を、下ろした事で恋愛には、
恐怖を覚えてしまったのだった。
豊に身も心も全て預けてしまう事を、怖がっていた証拠である。
だが豊はそれを察知して、穏やかに留美菜の今の心境を司った。
豊、「悟られるのが怖いのか、
恋愛に臆病に成っている事が」と、語ると、
留美菜は急に態度を変えて、抱き寄せられてる手を退かして、
豊の前に立ちはだかった。
そして急に泣き出し、「あんたなんかに何が解るのよ。
解った振りして、私の心を奪おうなんて甘いわよ。
そう易々とあんたなんかに、心を許してると思ったら大間違いよ」そう言って、
急に一人で駆け出した。
豊も傘を捨てて留美菜を追いかけた。
どの位二人は走ったのだろうかたどり着くとそこは、久里浜の浜辺であった。
立ち止まる二人は息が荒く、
泣きながら走って来た留美菜は、
追いかけて来た豊に、「なんで追いかけて来るのよ、
私は今一人になりたいのよ」と、叫んだ。
豊かも息を荒げながら、「今ここで君を放したら、本当に俺の思いは嘘になる。
俺は君の事が心底好きなんだ。
言ったろ我の強い奴は我の強い奴しか、理解出来ない事が有るんだ。
君の元彼はどうだったんだ。
俺とは違っていたはずだ。
俺寄りももっと君に言い寄り、言葉巧みに君の心を奪った。
時には甘く時には君を煽てた。
だが君を抱きたい時にだけ、甘い言葉を浴びせて、
抱き終えれば冷たい素振りだった」。
すると先程寄りも、更に怒りが増した留美菜は、「解った様な事を言うな。
このペテン師野郎。
そうやって慰めて、私を心底好きにさせ様なんて思うなよ」と、
豊に感情をぶつけた。
豊、「君の悪い所はそこだろ。
だから悟られるんだ。
激怒してる癖に泣き散らして、今言った事は裏腹だと悟られてしまう。
単純なんだよだから悪い男に心を見透かされて、いい様にされてしまう」。
その時、留美菜は殺意をいだいたか、急に豊に襲い掛かって来た。
そして留美菜は、「殺してやる」と、言って豊の首を絞めようとした。
だが豊はその手を振り払い、一発留美菜の頬を張り倒した。
きゃー と言う悲鳴と共に張り倒された頬に手を当てた。
豊、「直せよ、俺も君と同じ性格なんだ。
俺は直す努力をする。
短気は損気と言うがその通りだと思う。
短気であったが為に、どれだけ周りに迷惑を掛けて来たか、
俺は反省するつもりなんだ。
料理だってもっと優しい気持ちで作れば、
暖かい味わいが出るはずだ。
亡くした妻が食卓で出す事が出来た味は、俺にはどうしても出せなかった。
今気づいたんだ君を見てね」。
その時、留美菜は放心状態であったが我に返り、「あたなは最高のシェフでも有るけど、
私にとってもカリスマよ」と、語ると、
豊は、「カリスマって」と、聞き返した。
留美菜は、「どうしようもない馬鹿な女をなだめて、
こうして私の心を落ち着かせてくれる、
素材が悪い私の心を料理するシェフ」と、語ったのであった。
すると豊は黙って留美菜の手を引いて、この場から立ち去ったのであった。
びしょ濡れの二人は海辺を後に、夜道に消えて行ったのである。
その後二人は留美菜のコーポに居た。
びしょ濡れなので勝手に豊はバスルームから、
タオルを借りて来て、留美菜の濡れた頭を拭こうとしたが、
留美菜は拒んで、「やめて、優しくしないで」と、
まだ先程の意地が納まらない様子であった。
仕方なく自分の頭を拭く豊だった。
留美菜は子供を下ろしてからそのショックで、
少し精神障害を起こしていた。
なので過去を触れられると、
異常なまでに興奮状態に陥るのである。
子供を下ろしたショックと、それに通じる恋愛に臆病に成り、
豊にその感情をぶつけてしまうのであった。
しかし豊は留美菜の体調を心配して、「なあ、悪い意味で捉えないでくれよ、
風呂入れて温まらないか、俺達このままだと風邪を引くと思うから」と、尋ねると、
やはり留美菜は、「早く風呂に入って来い、
今からお前を抱くからって言いたいの」と、嫌味気に答えた。
いささか呆れた豊かは、「帰るよ今日は」と、立ち上がった。
すると咄嗟に豊かの腕を持って、「嘘よ、私の性格知っている癖に」と、泣き付いた。
留美菜は非常にめんどくさい性格である事は、言うまでも無かった。
つまり我がままで駄々っ子である事は、言うまでも無かったが、
それを補う豊だった。
それも含めて豊にとっては、可愛い所でも有るからであった。
そして豊はゆっくりと床に腰を据えて、「なあ、頼むから直そうと努力しろよ。
責める気は無いが、先程言った事が聞けてないだろ」と、
咎めると彼女は大人しくなった。
空かさず豊が頭を拭いていたタオルで、留美菜の頭を拭いて上げた。
もうこうなると豊に何をされても、文句を言わなくなる留美菜は、
早速衣服を脱がされて下着も外され、留美菜のタンスから、
新しい下着を出して来て着けて上げ、
更に普段着である、スウェット姿にさせられた留美菜であった。
その場で黙り込んでいる留美菜を尻目に、
バスルームにお湯を溜めに行く豊かであった。
豊は冷蔵庫から食材を出して来て台所で、暖かなスープを作り出していた。
実は留美菜は今まで生きて来た中で、彼氏に料理を作って貰った事が無く、
豊が彼氏に成ってから家に来ると必ずこうして、料理を作ってくれる事が、
何よりの幸せであった。
意地っ張りでもあったが、それを心の底からまだ感謝出来ない事と、
先程自分が藪から棒に述べた行動とは、
まったく違う豊の行動に、謝る事が出来ない留美菜は、
単なる甘えん坊でもあった。
自分に悔しい気持ちと、豊に対して有り難い気持ちが入り混じり、
更に台所から暖かな家庭料理の香りが漂うと、その場で座りながら、
ただ単に泣くしか無かった留美菜。
子供の様にわんわんと、声を出して泣く留美菜を伺いに来た豊かは、「やれやれ」と、
呆れるだけで対処のし様が無かったのであった。
結局ぐずった挙句留美菜は豊と一緒に風呂に入り、
冷えた体を二人で温めていた。
風呂を拒んだ割には留美菜はバスタブで、豊に抱かれて甘えていた。
甘えながら留美菜は、「お兄さん豊に私を、『ウェートレスにさせろ』って、
言ってたけど昔から人を軽く見るの」と、尋ねると、
豊は、「軽く使えそうな奴は顎で使う悪い奴さ。
それでどれだけ多くの人材を失ったか数知れない。
時にはお袋をこき使い、過重労働させて疲労で入院させて置いて、
見舞いにも行かない有様で、その事で俺と殴り合いの喧嘩でな」と、呆れた。
留美菜、「そんなお兄さんと、何で今一緒に仕事をしているの」と、疑問に思った。
豊、「結局兄貴は親父が営んでバクチの付けの代償で、
不動産に売り払った店が買い手が付かない有様で、
兄貴が一時、買い戻して継いだが、親父と同じ性質の兄貴は、
またバクチの借金のカタに店を取られてそうになり、お袋も路頭に迷った挙句、
俺が見かねてその借金を、俺の貯金から下ろして宛がった。
兄貴は親父と違って、一緒に働いていた従業員を疎かにして、
給料を払えなくなり、二ヶ月も給料未払いで働かせた挙句に、
全て使っていた従業員は店から消えた。
兄貴も昔から洋食の料理人ではあったが、
特別ビストロやフランス料理人と言う訳でも無く、
昭和も懐かしい頃からの、カレーライスや、ナポリタン、オムライスと言った、
定番の洋食屋を営んでいた。
俺はそれに対して決して馬鹿にした事は無かった。
むしろそのスタンダードな味を極める事は、
俺が営んで来たイタリアン寄りも、誇り高い事だと兄貴には告げていた。
だがそれに対し劣等感をいだいたのは、兄貴の方だった。
その劣等感はやがて、俺を利用する価値観に替わって行った。
すると俺に対し兄貴は、『郊外に店を出して、
一緒にイタリアンレストランを、営まないか』と、話を持ち掛けて来た。
俺は反対したが兄貴は親父の店でもう一度、仕事をこなすとしても、
付いて来るのは最終的にはお袋だけだろうし、
売り上げも結局バクチで消えるだろうから、
俺が兄貴を扱う側にして、あそこにイタリアンレストランを出した。
俺は兄貴のバクチの借金を宛がったので、レストランを出す資金が無かったが、
兄貴はつてが有り、財産が有る知り合いに保証人成って貰うと、
銀行から金を借りる事が出来た。
しかし俺が兄貴に肩代わりした、借金の額の方が多い。
だが今では兄貴の方が、店では大威張りで、
あたかも店の支配人の様な態度で居るのが有様だが、
実は俺があそこの支配人なんだ」と、語った。
留美菜、「豊が支配人で無ければ、
売上金全てバクチにつぎ込むねきっと」と、悟った。
豊、「その通りさ、既に今でも給料の大半を競馬に注ぎ込み、
俺の知らぬ間に店の売り上げの貯蓄を、銀行から下ろして注ぎ込み、
それがこの間シェフ達にばれて、危うくシェフ達が愛想を付かして、
辞めて行きそうになる所を、
俺がなだめて難を逃れた訳なんだ」と、業を煮やした。
そんな豊の生い立ちに、慰める言葉が浮かばない留美菜であった。
そして風呂から上がると豊は、先程着ていたびしょ濡れの服を、
洗濯機に入れて留美菜の着ていた衣服と一緒に洗い出した。
留美菜は先程のスウェット姿になり、
豊はいつも留美菜の家に泊まる時の為に、
置いてあるパジャマに着替えた。
夜食に先程豊が作ったスープを二人は飲んで、
洗濯を終えた衣類を部屋に干して、
二人は一緒にベッドに寝ていた。
まだ雨は止まず留美菜は豊の腕に縋り付いていた。
余分な事を言わない方が良いのだか、
変に突っ張りたい留美菜は、「別にエッチしたい訳では無いからね。
勘違いしないでよ」と、念を押した。
その言葉に豊は、「ああ、今日は泣き疲れたろ。
早く眠りに着こう」と、目を瞑った。
ここで我がままな留美菜は、豊の腕に顔を摺り寄せた。
それを感じた豊は、「なあ、前の彼氏とは俺は違うと感じてるから、
そうやって甘えて来るのだろ」と、呟くと、
その時、留美菜は、「いつも言ってるでしょ。
エッチしたい訳じゃないの運動したいだけ」と、告げると、
豊は笑いながら、「その方が嫌らしく聞こえるけどな」と、呆れたのであった。
へそ曲がりな留美菜は、変な負けず嫌いである。