第一章
〜新たな地〜
険しい山脈を越え、一人の青年は今、新たな地に足をつけようとしていた。
「ここがモルグナード地方か」
青年は子供のようにはしゃぎながら辺りを見回してみるが、彼のいる周囲はどこもかしこも青々と茂る草ばかりである。
「キュ〜」
不意に彼の膝下辺りから可愛らしい鳴き声が聞こえた。青年の親友であり相棒であるオストリザードのテイルが鳴いていたのだ。
「テイルにもわかるのか?ここが今までとは違う土地だってこと」
青年の問いにテイルは「キュ」と短く鳴く。青年は頷くと、そのまま手綱を引っ張りテイルを走らせた。太陽もだいぶ西に傾いているので今から宿泊できるような村を見つけるのは難しいと思われる。
(今まで一週間も険しい山越えだったからな。今日くらいは水の近くで野営をしたいところだ)
既に青年もテイルも山脈の土ぼこりや魔物との戦闘で体はだいぶ傷ついている。今日くらいはその傷を癒せるような場所に野営をしたかった。幸いにも今の青年達に最適な場所は比較的早くに見つかった。
青年はテイルから降りると手綱を引っ張り川辺に近づけた。そして、まずは自分がその水を飲んでみる。
「綺麗な水だ。テイル、お前も飲んでごらん」
「キュ〜」
テイルはまるで「やったぁ」と言わんばかりに主人の許可が出ると勢いよく水を飲みだした。一週間、青年を乗せて山を走り、水は皮袋の飲み水や山水ですごしてきたテイルにとってこの川の水はまさに天の恵みとも言えた。青年はそんな親友の様子を満足そうに見届けていた。
一段落した後、青年は手早くテントを組み立て、水を汲み、かまどを作った。そして、干し肉でも焼こうかと皮袋の中に手を伸ばすが――
「キュ、キュ〜?」
ふいにテイルが青年に疑問を投げかけるように鳴く。
「どうした、テイル?」
青年はまだ気づいていないようだった。テイルは無言で火のついていないかまどに首を向ける。
「あ、薪を集めてなかったっけ。疲れてうっかりしていたな。ありがとう、テイル」
青年が微笑しながら礼を言うと、テイルはやれやれと言わんばかりに一声鳴いた。
青年はテイルにテントのある場所で待つように指示をすると、薪を集めるために辺りの散策に出かけた。あたり一面の草地のため、薪用の枝を見つけるのには少々骨が折れた。
(向こうのほうに森が見えるな。あそこになら木の枝くらいいっぱいあるだろう)
青年は草原の向こうに見える森のほうへと進路を変えて歩き出した。
鮮やかな黄緑色の草地を抜けた先にある森は夕日を浴びて黄金色に染まっていた。きっと朝に来たならば緑鮮やかな森へと変身することだろう。そして、青年の目的としてものも森の中にはたっぷりと落ちていた。
(綺麗な水に綺麗な森か。モルグナード地方は緑豊かな土地が多いって聞いていたけどこれは感動ものだな)
青年はある程度の薪を集め、ふと空高く伸びている木々を見上げて考えてみた。ここにある木々はいったいいつからこの地方を守っているのだろうと。きっと、この森にはモルグナードを語るに足りる歴史が刻まれているのだろうと。
サァっと青年の周りを柔らかい風が吹いた。
「おっと、そろそろ帰らなきゃ。テイルを待たせたままにしてあるし」
青年は名残惜しそうにもう一度辺りを見回した。
「また、明日来てみるか」
青年はよほどこの森が気に入ったらしかった。旅をするということはいつも危険と隣りあわせで生きることと同じである。そこに、安心できる空間などというものはもちろんない。そのせいか、青年はこの緑豊かな森に心を奪われていた。しかし、忘れてはならない。この森とて立派な危険だということを。
ウォ〜ン。
狼の遠吠えが聞こえた。
ウォーン。
今度は今さっき聞こえた方向とは真逆の方向から遠吠えが聞こえた。いずれもかなり距離が近い。
青年は嫌な汗を掻いた。もしかすると、これはもしかするかもしれない。
できるだけ避けたかったが、青年はそう思いながら念のために持ってきていた槍に手をかける。
ガサ!
青年の正面の茂みが揺れ、ものすごいスピードで彼の横を駆け抜けていった。
「な、何だ!?」
青年は一瞬の出来事に目を奪われたが、すぐにそれを忘れた。青年に向かって一匹の狼が鋭い牙をむき出して噛み付いてきたのだ。青年は慌てず、槍で狼を口の中から引き裂いた。狼の血が周囲に飛び散る。その異臭は青年の鼻を大きく刺激したが、そんなことにかまっている暇はなかった。狼の群れが周囲の茂みから次々と青年に襲い掛かってきたのである。
「うわぁ!」
青年は狼達の攻撃を避けるので精一杯だった。しかし、避け続けていくにつれ、わかったことが一つあった。どうも狼は青年のほかにもう一人か二人を攻撃対象にしているようだった。狼の目がたまに青年とは違う方向に向いているのがそのいい証拠だ。
青年だってこんなところで死にたくはない。その隙をつき、狼達を槍で次々と引き裂いていった。そして、最後の一匹を血祭りに上げた後、青年はへなへなと腰をぬかしてしまった。周囲の惨状は狼達の肉の欠片と血の匂いで充満していて青年は吐き気を抑えるのに必死だった。
カサカサ。
「!!」
まだいたか!?
青年はへっぴり腰のまま槍を構えるが、狼の次の手は来なかった。
カサカサカサ。
今度も茂みが揺れる音だけで狼達が襲ってくることはなかった。しかし、警戒をしておくに越したことはない。青年はゆっくりと揺れる茂みとの距離を縮めて近づいていった。
茂みを左右に掻き分けてみると、そこに隠れていたのは狼でもまた、狼の子供でもなかった。
「子供?」
青年は目を疑った。どうしてこんなところに子供がいるのだろう。見た感じでは大きく見積もっても七歳程度で、その顔は恐怖に歪んでいた。
(僕のことを怖がっているのか?)
青年はすぐにそう判断すると、顔の筋肉を緩めてそっと少女に手を差し伸べた。
「驚かせてすまなかった。もう狼はいないから安心して」
青年がそう言っても少女の顔が恐怖から開放されることはなかった。そこで、次に感じたことが周囲のこの匂いだった。確かにこんな悪臭の中でのうのうと話などできないだろう。青年は少女についておいでとだけ言うと、先を歩いた。置いていかれると思ったのか、少女は小さな二本の足で懸命に青年を追ってきた。戦闘のため、あたりに散らばった木の枝を拾いなおした青年はその足でテイルの待っているテントへと戻った。
「すまん、テイル。遅くなって」
青年はすぐに薪をくべてかまどに火をともした。
「すぐにできるからね」
青年はそう言ってにっこりと微笑むと、夕食の準備に取り掛かった。今日の夕飯は、干し肉をあぶったものと、野菜のスープである。
「はい」
青年はカップに注いだスープを少女に手渡した。
「熱いから気をつけて飲みなさい」
青年の言うとおり、よく冷ましてからスープに口をつけた少女だったが、やはりまだ熱かったらしくすぐに口を離してしまう。それから二人と一匹は簡単な食事を済ませた。
「お腹いっぱいになったかい?」
青年の問いに少女は小さく頷く。「それはよかった」と青年も嬉しそうに微笑む。
「君にはいろんなことを聞きたいんだけど、まず一つ目。君はどうして一人であんなところにいたの?」
「………」
少女は青年の問いにビクっと肩を震わせると、怯えるように黙ってしまった。
「じゃあ、おうちはどこかな?今日はもう無理だけど明日になったら送って上げられるから」
「………」
少女はやはり何も答えなかった。こんな調子であと一つ二つ質問を繰り返した青年だったが、何も答えてもらえないと判断すると、深いため息をついてつぶやくように言った。
「自己紹介をしておこう。僕の名前はシグだ。君は?」
「………」
自己紹介をしても少女は結局口を開くことはなかった。そんな少女に対してシグは怒りをあらわにすることはなかった。きっと、狼に襲われた経験が彼女の口を閉ざしてしまっているに違いない。まずはこの子の恐怖を取り除くことから始めなければならない。
この子の家がある町についてはなにもわからないが、少なくともモルグナード地方の住人であることは確かなのだから、地方を回ればきっとこの子の家が見つかるだろうと確信していた。
夜が明け、シグたちは昨晩の野菜スープ一杯とパンの朝食をとると、早速旅の続きに出発した。
「………」
「どうしたの?」
テントも片付けていざ出発しようというときになって、少女が急にその場から動かなくなった。テイルの手綱を持ったままシグが少女に近づくと、それに合わせて少女も一歩、また一歩と後ろに下がっていく。
「もしかして、テイルのことが怖いのかな?」
シグの問いに少女は黙ったままだったが、しかし目線は明らかにシグではなくテイルのほうに向けられていた。
(そのようだな)
シグはテイルの手綱を放して、少女の前にしゃがんだ。
「怖がらなくていいよ。彼は僕の一番のお友達なんだ。名前はテイルっていうんだよ」
シグのやり取りにテイルもようやくどうして少女がこんな反応を見せるのか気づいたようだった。シグの紹介に乗っかるような形で優しく鳴いてみせる。
「ほら、テイルも君のことを気に入ってくれているみたいだよ」
「………」
「怖くないから、おいで」
シグはそう言って少女に向かって優しく右手を差し出した。少女はシグとその後ろに立っているオストリザードを交互に見やった。
「おいで」
シグはもう一度優しく、ささやきかけるように言った。少女はおずおずと手を差し出すと、シグに連れられてテイルの背中に乗せられた。
「よし、いくぞ、テイル」
「キュ!」
テイルはやる気満々と言わんばかりに鳴くと、そのしなやかな足を使って草の生い茂る草原を駆けていった。
旅は軽快に進んでいき、太陽が南に昇る頃にはすっかり草原を抜けて風の薫る丘を二人を乗せたテイルは走っていた。
「そろそろ休憩しようか。ずっと乗ってて疲れただろ?」
シグの問いに少女はやはり黙っていたが、もう慣れた反応だったのでシグは少女の答えなくして、テイルに休憩を申し入れた。
小さな丘にたつ一本の木の下で、二人と一匹は休憩と昼食を取っていた。
「う〜ん、風が気持ちいいなぁ」
シグはテイルから降りて、大きく伸びをした。ゆったりとした風が伸びをしているシグの周りで舞を舞っていた。
「こっちはもう春なんだなぁ」
「キュ〜」
シグに同意するかのようにテイルも気持ちよさそうにその身に風を受けていた。
「春……かぁ」
シグの目に遠い国の影が映った。
「………」
「……だいじょうぶ?」
「え?」
シグはつぶっていた目をハッと開いた。どうやら少し寝かけていたようだ。
「だいじょうぶ?」
少女の震えるような声がもう一度そう言った。
「あ、うん。大丈夫だよ」
シグは優しく微笑んだ。初めて少女から話しかけてきてくれたことが少し嬉しかった。よく見てみると目の中の恐怖も昨日に比べたらもうずいぶんマシになっている。
「風が気持ちよくてつい、寝そうになっていたよ」
シグが笑いかけると、少女もフッと口元を緩めた。今、この瞬間だけシグは自分が旅人であることを忘れていた。世界にはこんな景色もあるのだということを初めて体感した感動をもう少し味わっていたかったからだ。
「こうやって目を閉じると、とても気持ちいいよ」
シグはそう言って目を閉じると、隣に座る少女にも「やってごらん」と働きかけてみた。少女もシグがやっているように目を閉じて両手を組んで枕にして横になってみた。
「気持ちいい……」
シグは薄れつつある意識の中で少女が心から気持ちよさそうに言うのを聞いていた。
「キュ?キュ、キュ〜!」
そんな安らぎも束の間。突然、一緒に寝ていたテイルが大声で鳴いた。
「どうした、テイル!?」
相棒の突然の悲鳴にシグは慌てて飛び起きた。
「キュ!」
テイルは向こうを見てみろと言わんばかりに首を動かしている。シグは向こうに何かあるのだということにすぐに気がつき、丘の上から平原に続く道を見渡してみる。
「な、なんだあれは!?」
シグはしばらく、それがある一点を凝視していた。辺りがそうであるようにそこもどう見たって普通の平原だ。その普通の平原である場所に立つ一本の光の柱。
「さっきまで、あんなのなかったよな…?」
少なくとも彼らがここで休憩を取っていた最中にあんなものは存在していなかった。
「何かの入り口と考えるのが妥当だな。もしや、古の空中庭園につながる門か?いや、詮索するのは後回しだな。いくぞ、テイル!」
「キュ!」
シグは期待に胸を膨らませてテイルに飛び乗った。そして乗った後で突然の出来事に困惑している少女がいるのに気づく。シグは一度テイルから降りると、少女の前にしゃがんだ。
「少しあの光っているところまで行ってくるけど、すぐ戻るからここで大人しく待っていてくれないか?」
しかし、少女は大きく首を横に振り、シグのズボンをしっかりと掴んで離さなかった。
(しょうがないな……)
シグは小さなため息をつくと、少女をテイルに乗せた。
「ゴー!テイル!」
シグは勢いよく手綱を引っ張った。テイルは一声鳴き、一路丘のふもとの光の柱に向かって走り出した。
ふもとにたどり着いたシグは改めて光の柱を見上げた。
「間近で見ると相当大きな門だな」
シグはとりあえず柱の周囲を調べてみたが、それらしい入り口はどこにも見当たらなかった。
「このまま、入るのかな?」
「………」
シグがあごに手を当てて考えている横を少女がすっと通り過ぎていった。
「キュッ!」
テイルが短く叫ぶ。
「あ、こら!」
シグが我に返ったときには少女は既に光の柱の中へと入っていた。光の柱の中に入った少女はやがて、その場に存在しなかったかのように虚空へと消えた。
「消えた!?くそ!」
気がつくと、シグも少女を追って光の柱の中に入っていた。どこへ通じるかもわからないのにこのまま放っておくことなどできるわけがなかった。
光の柱に入ると、吸い込まれるように上へと引き上げられる間隔が訪れた。
「テイル、お前はさっきの木の下で待っていろ!すぐに戻る!もしあの子が帰ってきたら……」
シグの言葉はそこで途切れ、やがて彼の姿は光の柱から消えていた。テイルは自分も後を追おうと考えたが、シグが虚空に消えてからすぐに光の柱も消滅してしまった。
「キュ〜……」
テイルは先ほどまで光っていた場所に向かって一声鳴くと、主人の言いつけ守り、丘の木の下へと移動を始めた。