第六章
〜ココルのお願い〜
神殿区を後にしたシグは憩いの広場にいた。もちろん、巫女たちは修行の時間であるため、広場にはシグしかいない。
今日は風があまり吹いていない。ほてった顔を冷ますにはちょうどよいかと主ってここに来たのだが、完全に当てが外れた。
(いじわるなものだな)
シグはおもむろに空を見上げた。
今日も快晴。変わることのない青空が広がっている。
この数週間でいろんなことがあった。
昔、自分が助けた精霊との出会い。そして、その幼なじみとの出会い。アリルとの出会い、ノアとの出会い、そして、ルミネとの出会い……
ルミネは自分の代わりにシグを軍に連れ戻そうと彼を探して旅をしていた。しかし、意見の相違からルミネとの対立。
アリルのささやかな疑惑。
いろんなことが折り重なっていた。そして、その中央にいるのはいずれもシグ本人だった。
(アリルのことはまだしも、ルミネたちのほうは若干厄介かもしれない。だけど、僕は絶対に軍には戻りたくない。あんな生活を強いられるのはもうごめんだ)
シグの脳裏に先ほどのファナの姿が浮かぶ。
(彼女にだけはああなってほしくない。あんな惨めな日々を送ることになるくらいならいっそのこと…)
しかし、シグにはそんなことをする勇気はなかった。それでも彼女は笑っていたから。それも自分のように作り笑顔じゃない。皆の期待に答えるために、皆と一緒に過ごすために彼女は笑っていた。
(あの頃、僕はどうしていた?)
駄目だ、シグは首を横に振った。今度は自分が自虐的になってしまう。これではファナに申し訳が立たない。
(気にするのはよそう。まだ始まったばかりなんだ。これから考えていけばいい)
「あれ、シグさん?」
うっすら閉じられていた瞳に光をさえぎる黒い影。
「……マリス?」
シグはぼんやりとした意識で影の名を呼んだ。
「どうしたの、こんなところで」
「マリルこそ修行は?」
「アハ、さぼっちゃった」
マリルは照れくさそうに笑った。
「だって、どうしても作りたいものがみつかっちゃったんだもの。そうなるといてもたってもいられなくて」
「今度は何を作ろうとしているんだ?」
「アミュレットって、シグさんは知ってる?」
「ああ、聖なる力に守られたお守りのことだろ」
「そうそう。それの作り方が載っている本を見つけてね。材料を探していたんだけど、フランジェっていう木の実だけが見つからなくて…」
「木の実?」
「そ。これから採りに行くところなんだけど、シグさんも来る?わたしの工房の地下を伝っていくんだけど、そんなに遠くないし」
「おもしろそうだね」
「じゃあ、決まり!」
マリスは両手を合わせて喜んだ。
二人は早速、憩いの広場の北側の林を抜けて工房に向かった。その間にマリスはいつもの自分のことや、寺院での失敗談を明るく話し続けた。
「それでね……って、なんか私一人で喋っているね」
「全然かまわないよ。君とはゼル・リアに行くときくらいしか話したことないからマリスのことが知れて嬉しいよ」
「そう?なんか改まってそう言われると恥ずかしいな」
マリスはほんの少しだけ顔を背けた。その横顔はほんのり赤みを帯びている。
「なんなら、工房に遊びに来てよ。ファナもよく仕事を抜け出しては工房に遊びに来てるんだよ」
「邪魔じゃないなら行かせてもらおうかな」
「うん。じゃんじゃん来てね」
今日のマリルはいつもとどこか違う気がした。どことなく女の子っぽい仕草に少し意識が浮き足立ちそうになる。
「あれ?」
そんなシグの意識を醒ますかのように横を歩くマリスが声をあげた。林を抜けた先の工房の前には小さな女の子が一人佇んでいた。
「あ…」
女の子も二人に気づいたのか、可愛らしい声を漏らした。
「ココルちゃんじゃない。どうしたの?」
「マリルお姉ちゃん、シグお兄ちゃん、助けて」
ココルの声はいつも以上にか細かった。両目からあふれ出る涙がココルの身に起こった事態の重さを感じさせていた。何とか落ち着かせて話を聞くところによると、どうやら友達の女の子が重い風邪をひいてしまって、もう五日も寝込んでいるのだそうだ。
「それで、どうしてマリスの工房に?」
「前に、マリルお姉ちゃんの本を読んだの。フランジェの実は効果の高い解熱剤だって…」
「そっか。それで私のところに来たんだね」
ココルは小さく頷く。
「ちょうどよかった。私たちもこれからフランジェの実を採りにいくところだったんだ。一緒においで」
「え?でも、どこにあるかわからないよ…」
「だーいじょうぶ。お姉ちゃんに任せて」
マリルは満面の笑顔で胸を叩いた。
ココルを加えた三人で工房に隠された地下通路を歩き、三人が出てきた場所は広い草原だった。そして、その中央にポツンと生えている一本の木。
「これがフランジェの木だよ」
フランジェの木は幹は細いが、近づいてみるとそれなりに大きい木だ。
「でも、実がなってないようだね」
シグの一言にココルの顔が不安に歪む。
「大丈夫。ちょっと待ってて。木に登って確かめてくるから。葉っぱに絡まっているときもあるから」
マリルはそう言って木の幹に足をかける。
「ちょっと待った!」
登ろうとするマリルをシグが止める。
「木に登るのは僕がやるよ」
「へ?大丈夫だよ、木登りは昔から得意だから」
そう言って微笑むマリスにシグは「そうじゃなくて…」と言いづらそうにマリスの下半身を指差した。マリルもすぐにそれを察したのかスカートの前を押さえた。
「てへへ、ごめんね。ありがと」
マリルは頬を染めながらフランジェの木から離れた。シグが代わりに木に登り、必死に実を探すが、見つかったのは一個だけでそれ以上は見つからなかった。
「これ以上はないみたいだね」
シグは木から飛び降りると、マリスに一個だけ採れたフランジェの実を渡した。
採取したフランジェの実を持ち帰り、マリスは意図も簡単に解熱剤を作ってしまった。
「はい、ココルちゃん。これをお友達に水と一緒に飲ませてあげて」
「ありがとうお姉ちゃん」
ココルは大事そうに薬の入った小瓶を両手でしっかりと持って工房を去っていった。
「よかったの?」
林の中に入るまで、ずっと振り返ってはシグたちに手を振っていたココルを見送り
ながらシグはマリスに向かってつぶやいた。
「いいんだよ」
マリスは小さくつぶやいた。
「フランジェの木の成長は早いからね。一週間もすればまた実をつけるよ」
「一週間!?」
信じられない周期だ、シグはそんな顔をしていた。ゼル・リアでは果物はその季節にしか実らないし、貴重なもので値段もそれなりなのだ。
「ラ・ジェラーデの季節はね、季節神になった巫女の属性で決まるってシグさん知ってた?」
「いや、初耳だよ」
なんという世界だろう。つまり、今は春の巫女だったファナが精霊神を務めているから季節は――
「年中春なの?」
「そういうこと。季節神の属性によって、この世界は少しずつ変化しているんだよ」
つまり、ここに来てからずっとシグが感じていた暖かいほのぼのとした風はファナの力の一部だったのだ。
「ここに来て第一に思ったんだ。ラ・ジェラーデってとても住みやすいところだなって」
だとしたらファナちゃんのおかげだね、とマリスは自分のことのように無邪気に喜んだ。ふと、シグの頭に今朝のファナのことが頭に浮かんだ。
「マリスは季節神がする仕事について何か知っているかい?」
マリスは、う〜んと首を捻らせた。
「あんまりよく知らない。でも、私が修行をサボっているからじゃないよ。皆にだって知らされていないんだよ、季節神の仕事って」
「そうなの?」
マリスは小さく頷き、続きを話す。
「基本的に下の世界の四季のコントロールは私たち寺院にいる巫女が行っているからね。神殿にはいる巫女たちは私たちのお目付け役といった感じかな。でも、視察はそんなにあるわけじゃないし、寺院にも各季節の精霊ごとにリーダーが決められているし」
「へぇ。じゃあ、この間のユーグさんって巫女が?」
「秋の精霊巫女たちのリーダーよ。でもすっかり、サボリ常習犯の私のお目付け役みたいになっちゃってるね」
マリスは恥ずかしそうに笑う。
「ねぇ、この間の断片的な話によればシグさんはもともと騎士だったんでしょ?訓練とか私みたいにサボったりしてた?」
「え?いや、サボってはいなかったよ。武器を扱う仕事に就くのは僕の夢だったし、憧れている人もいたし…」
「へぇ、どんな人だったの?」
「それは…」
先ほどまで興味一身にマリルの話を聞いていたシグの表情に陰りが見えた。マリスはすぐにその人物がシグが騎士を辞めるにあたった理由に違いないと察した。
「ごめんなさい。嫌なことを聞いちゃって…」
敢えてそう言ってみる。本当は彼のいきさつについて聞きたい事だらけだったが、多分彼ははぐらかしてしまうだろう。シグは「気にしないでくれ」と愛想笑いのような笑みを見せた。しばらく二人の間に重い沈黙が流れる。それは、はるか上空を流れる雲よりも遅いスピードだった。
「ファナ……」
シグがぼそっとつぶやいた。
「え?」
よく聞き取れず、マリスは思わず聞き返してしまう。
「あの娘にだけは、僕と同じ目には遭わせたくない…」
「同じ目?」
「そうだ。あの娘は絶対に耐えられない」
「どういうこと?」
「後から来る無言の圧力に……功績を収めれば収めるほど、あの若僧はと罵られる。周りからのプレッシャーが大きくなる。板ばさみになる!」
「シグさん、落ち着いて!」
「マリス!」
大声を出したシグに、マリスは思わず肩を震わせた。そんな彼女にシグは一言「帰る」と落ち着いて、というよりはどこか蔑んだような表情で告げるとそれ以上何も言わずに工房を去っていった。
(一体なんなの?)
マリスはわけがわからず、一人工房内の椅子に座っていた。
なぜか、彼の後を追うことを躊躇した。心の中の自分が追いかけないほうがいいと言っていた。
(どうしてだろう…)
マリスはシグが出て行った工房の扉をじっと見つめていた。