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ラムネット  作者: ラムネ
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35話 逢いたいが情見たいが病

逢いたいが情見たいが病


恋をして、相手を想う気持ちが強まり、逢いたい、一目見たいという気持ちが強まり、その激しい感情は非常に抑えがたいということ。


☆簡単人物紹介☆ 分かんなくなったら、確認したって


花立はなたて 美玖みく(中2) 引きこもり美少女。最近メンヘラ扱いです。

花立はなたて 君孝きみたか(35) 美玖の伯父。温和な画家。影が薄いのなんの。

おうぎ しゅん(高1) 花立家の下宿人。さわやか腹黒少年。

おうぎ りゅう(高1) 隼の従兄弟。同じく下宿人。俺さま純情少年。

ルイ(21) 最近影の薄い下宿人。ファッション学科に通う学生。

吾妻あがつま 月桂げっけい(34) ヤクザな住み込みお手伝いさん。


信家しんや りん(高2) モデル。外出時は男装がセオリー。猪突猛進です。


【35話 逢いたいが情見たいが病】



 雑音がすると思ったら、外はひどい雨だった。窓から外を眺めると、ぼやけた外の風景がまるで自分の心みたいだと思った。このまま、ずっと雨が降って、何もかも流されてしまえばいい。嫌なことも、期待してた自分の心も、思い出も何もかもどこかへ行ってしまえば、いっそ楽になれるのに。

 そんな風に考える自分は、不幸に浸っているダメな人間だと思う。


 美玖は部屋の隅で、一人座り膝を抱える。

 まだ、大丈夫と自分自身に言い聞かせていたが、もうとっくに限界だったのかもしれない。

 本当にどうしようもないくらい弱い自分は、強い凜や柳が羨ましくて、大好きだった。それなのに、今日は凜まで怒らせてしまった。

 凜の言ったことは、本当だと思った。自分の気持ちを、誰かに必死で伝えようと思っていなかったのかもしれない。周りの優しさに甘えて、何もしてこなかった自分の愚かさ。何もしなかったら、否定されることを恐れていたら、相手を知ろうとしなかったら、一歩も前へ出られるわけないのに・・・


 もうダメ、もう・・・どうしていいか分からない。

 水の中で必死にもがいても、どうせ息はできない。もがけばもがく程苦しくなる。

 誰か・・・助けて・・・


 静かな絶望に、誰が手を差し伸べてくれるのか。

 それを望むことすら、許されないのだろうか。


「お嬢さん」


 低く、あまり抑揚のないこの声で呼ばれるのが、なぜかとても落ち着いて大好きだった。

 ポトリと冷たい滴が腕に落ちた。

 ふわりと大きな手で髪を撫でられて、やっとそれが幻じゃないと気が付いた。


「・・・本・・・物?」

「偽物でもいましたか?」


 初めて会った時と同じように、雨に濡れて険しい目つきをした月桂がそこにいた。突然の再開に美玖はただ目をぱちくりとさせた。信じて、求めて、側にいて欲しくて・・・でも叶わないと思っていた人。


「遅くなり申し訳ありませんでした」

「・・・・・・月桂・・・さん」


 眼光炯々(がんこうけいけい)とした月桂は真っ直ぐに、自分を見つめる。どうして、連絡をくれなかったのか、何かあったのか聞きたいことは山ほどあったのに、何も言えなかった。

 ただ、目の前の月桂を離したくなくて、思い切り胸にしがみ付いた。ずっと我慢していた涙が、こらえ切れなくてぽたぽたと流れ落ちた。



 月桂は震えながら泣く美玖の頭を、軽く撫でた。抱きしめてやれば、美玖の辛さを少しでも満たしてやれると思ったがそれは出来なかった。予想してた以上に、自分に対して依存していたので罪悪感すら感じた。

 自分を純粋に慕い、求めてくる少女に対し、月桂自身もどこか安らぎや幸せを感じていた。だが、それは間違った愚かなことだと思っていた。自分にとっても美玖にとっても。

 美玖は、あまりにも自分のことを知らなすぎる。そして、知る必要もない。本来なら、関わり合うような人間ではない。だからこれ以上、自分に依存してもらったら困ると本気で心配するようになった。

 あまりにも薄幸でもろい美玖に頼られれば、月桂はそれに応じて全てから守って対応してしまう。強い依存は、自主性の放棄につながる。しかしそれすらも、美玖の人生をダメにするのが解りきっていても、なお自分は容認してしまうだろう。

 その感情は、責任感、使命感、それとも愛情なのかそんなことはどうでもよかった。

 柄にもなくそんなことを考える自分こそ、依存しそうで恐ろしかった。


「月桂さんの・・・うそつき・・・」

「弁解の余地もありません。指切りまでして頂いたのに、ずい分遅れました」


 月桂は以前電話で約束した時の話を思い出した。

 美玖は月桂にしがみ付いたまま、顔だけ少し上げると上目づかいで見つめてきた。


「そうじゃなくて・・・独りにしない、私が必要とする限り側に居てくれるって、言ったのに・・・ずっと側に居て欲しかったのに・・・」

「は・・・」


 以前、美玖が月桂をかばい手をケガをしたことがあった。その時、償いをさせてほしいと言い、成り行き上そう答えてしまったことを月桂は思い出した。自分の迂闊うかつな発言一つを、こうもあっさりと信じ、盲信する悪意のない純粋さはあまりにも危険な思想だと思った。

 月桂は黙って、美玖の顔を見返した。縋るような、求めるような、そんな愛らしい目で見つめないでくれと言いたかった。


 しばらくすると泣き疲れた美玖が、ひどく虚ろだったのでベッドに連れて行くと少し安心したような顔で眠りについた。





「本当にそんなこと言ったわけ?」


 部屋の入り口で、一部始終を見ていた隼が呆れたように声をかける。同様に覗いていた柳とルイもなかば茫然ぼうぜんと成り行きを見ていた。

 月桂は後ろから痛い視線を投げかけられ、少し眉をひそめた。


「・・・・・・確かに言いました」

「そう・・・知らなかったな。月桂が・・・ね。まぁいいや、とりあえず下に行って話を聞こうか」


 美玖の部屋を出ると、一同は一階のリビングに向かいゆっくりとソファーに腰をかける。

 月桂は一人立ったまま、隼に向かい頭を下げる。

 

 突然帰ってきた月桂に、隼も柳もルイも驚いた。確かに、凛は早く帰って来いと言ったがまさか当日のうちに帰ってくるとは思わなかったので少し釈然としなかった。しかも、明らかに月桂の様子が異様だった。にもかかわらず、隼は美玖に先に会うよう促した。


「昼間の電話でも言ったけど、月桂が組織の人間だってことは理解してる。向こうにいる間、月桂が何をしていたか何て聞くつもりないし、口を挟むつもりはない。だけど、帰れないかもしれないくせに、美玖ちゃんに約束なんてするなよ」


 隼が冷やかに言う。

 ルイは月桂の顔を見てすぐに顔を背ける。以前会った時には無かった、額から頬にまで至る大きな生々しい切り傷。ただでさえ恐い顔に、一層恐ろしいデコレーションが増えた。ルイは月桂がどういう人間なのか甘く考えていたと思った。

 それでも、月桂が帰ってきてくれてすっかり安心した美玖を見て、ルイもホッとした。


「軽率でした。以後、気を付けます」

「まったくだね。側にいるだなんて・・・月桂がどんなつもりで言ったのか知らないけど、美玖ちゃんはきっと誤解してるよ」

「でもそんなの吾妻さんに限ったことじゃないわー。男って平気でうそぶくのよ。君だけだよ、一生愛してる、ずっと一緒にいたい、とか真顔で言うくせに裏で浮気とかすんのよ。あー誰にでも言うのね、リップサービスってやつか、って今ならあたしも分かるけど、それを14歳の純粋無垢な女の子に言うってどーなのかしらー?」


 隼に続いて、ルイも月桂に向かって苦言をもらす。しかし、ルイの場合かなりの私情がこもっていた。


「そんなことは言ってません」

「一緒、一緒ぉ、ちっとも分かってないわね。美玖ちゃんず~っと吾妻さんのこと待ってたんだからね! それって期待してるってことじゃない。まったく、どうして吾妻さんなのよ! 美玖ちゃんをこれ以上泣かすような真似したら、昴さんに言いつけるわよ!」

「・・・分かってます」


 相変わらず無表情だが、返事をしただけマシだな、とルイは少し安心した。


「そんなところで許してやってよ、ルイねえ。それでも、月桂が美玖ちゃんの心配をしてこうして帰ってきてくれたっていうのは素直に評価するよ。ありがとう。月桂の方は大丈夫? あんまり無茶しないでよ。僕だって心配してたんだから」

「自分の方は問題ありません。キッチリ片を付けてきました」

「そうじゃなくて、ケガの心配してるんだけど? 顔の切り傷、拳も痛めてるね、あとはどこかケガしてるの?」

「肩とアバラを少し。それより、お嬢さんのケガは?」


 ちっとも、大丈夫そうじゃないと思ったが、隼は美玖のケガについて説明する。それから、ここ最近の様子も伝えた。

 月桂は相変わらずの、表情が読めない顔でじっと話を聞いていた。


 一通り話を終えると、ルイは凛のことを思い出し少し困ったような顔をした。


「あとで凛ちゃんにメールしておかないと。あたしも・・・ちょっとひどいこと言っちゃったし」

「ルイねえも怒らせるのか、あいつ本当に短気だよなー」


 凜の名前を聞いて、柳は昼間の強引な態度を思い出した。だが、電話の一件で月桂が帰ってきたのかも知れないと思うと複雑な気持ちになった。


「凛ちゃんがね、悪気ないっていうのは分かるのよ。ただ、そうね・・・少し自己主張が激しいのよね。でも、だからこそ美玖ちゃんとは上手くいってるのかも」

「そうかぁ? 俺、あいつに頭ピーマンとか言われたんだぜ? 悪影響で言葉遣い悪くなったら困るだろ」

「えー美玖ちゃんがぁ? ないない。だって、凛ちゃん女の子の前だと優しいもん。それに、言葉遣い悪いのは柳だって一緒じゃない。よくそんなこと言えるわねぇ」

「む・・・」


 柳が言葉に詰まるので、隼はくすりと笑う。


「何、笑ってんだよ。隼だって、腑抜け野郎とか色々言われて腹立たねえのかよ」

「そういえば言われたね。でもそんなの全然苛立たないよ。柳で慣れてるし」

「お前もそう言うのかよ。あいつたまにチンピラみたいじゃねーか」

「違うよー。虚勢を張るという意味では・・・そうかもしれないけど。信家は割と真面目だよ。仕事だってキッチリしてるし、優先順位もハッキリしてる。言葉だって、使い分けてるよ。わざとああいう言う方したと思うんだけど」

「まじかよ? 打算的だな、あいつ・・・」


 柳はムッとしたような顔をして、髪をかき上げる。相変わらず、柳と凛の相性はあまりよくないが、月桂と凛が合った場合どんな反応になるのか少し隼は心配に思った。

 月桂も凛もお互いの存在を知っていても、実際どんな人物かなんていうのは会ってみるまで分からない。互いに誤解されやすい性格なので変な誤解が起こらなければいいのだけど、と心配事が増えてしまった。





 目が覚めると、いつの間にかベッドで寝ていた。薄暗い部屋の中に独りでいると、まるでこの世に居るのは自分一人きりのような恐ろしい錯覚に陥る。美玖は恐ろしさのあまり飛び起き、明かりを付けると時計を見る。2時だった。


「・・・・・・夢?」


 頭がぼんやりとしている。月桂に会った気がする。でも、夢だと言われたらそんな気もする。いつ寝たのかも記憶に無かった。

 薬を飲んだせいか、喉が渇いてひりひりしていた。どうも最近、寝起きの意識がはっきりしないので、水分を補給するとシャワーを浴びた。

 段々と意識が覚醒していっても、どうも記憶が曖昧だった。疲れていて夢を見ていたのだろうか、と不安になった。

 シャワーを浴び終えてダイニングに戻ると、さっきは気付かなかったがキッチン脇に黒いケースがあった。60cm程の大きさだったが厚みはあまりなく見覚えのないケースだった。何だろうと思いそっと触れると、ロックが掛かっていた。


「すみません、お邪魔でしたか」


 急に声をかけられ、パッと手を離す。二階から月桂が降りてきて、美玖の横に立つ。


「あ・・・えと・・・ごめんなさい。何かと思って・・・」

「包丁ケースです」


 そう言うと、月桂はロックを外しケースの中を見せてくれた。月桂が愛用している包丁が整然と八本並んでいた。


「わぁ・・・キレイですね。こっちのは?」

「メンテナンス用の砥石といしと包丁用の油です」

「とっても、大事にされてるんですね・・・」


 話ながら、美玖はずっと胸が高鳴っていた。帰ってきたのは夢だったのかと不安に思っていたので、こうして話が出来てすごくホッとした。

 月桂は、ケースの蓋を元通り閉めた。大事にしているという自覚は無かったが、月桂にとって商売道具であった包丁は自然と丁寧に扱うべきものであった。


「ところで、こんな夜中にどうかされましたか?」

「え・・・いえ・・・目が覚めてしまって・・・いつ眠ったのかも、あんまり覚えてないんですけど・・・」

「お疲れだったのでしょう、きっと」


 学校に行かないで、家で引きこもっているだけの自分が疲れてるなんて、怠けてるようで恥ずかしかった。それでも、月桂に優しく頭を撫でられると無条件で嬉しい気分になり、頬が紅潮した。


「まえ・・・隼くんの実家で会って以来ですね・・・」

「ええ」

「あの時も、頭を撫でてくれて、ぎゅうってしてくれて・・・とっても・・・何て言うか・・・えと・・・ほわぁって幸せ気分になったんです。月桂さんは覚えて・・・ますか?」


 忘れようが無かった。隼とすばるがいたことすらも忘れて、美玖に夢中になっていたことなど。思い出す度に、込み上げる感情は自分でもどうかしてると思っていた。

 月桂は思わず手を離し、ダイニングのイスに座る。自分こそ疲れているのだろうか、子ども相手に心を乱されてどうするのだと言い聞かせた。


 月桂が、まるで拒絶するかのように無言で手を離すので美玖はハッとした。


「あの・・・ごめんなさい。変なこと言って・・・」

「いえ。もう遅いので、どうぞ部屋に戻ってください」


 月桂は軽く目を閉じ方手で顔の傷を押さえた。美玖が何を望んでいるのか、薄々気づきながら拒むのは辛かった。きっと傷ついたであろう美玖の顔を見ることが出来なかった。

 静寂の中、こつこつと時計の音がリズムを刻んでいた。


 ―― ねぇ、誰かに気持ちを伝えるって悪いこと?言わないとね、分からないわよ。どう受け止めるかは相手次第。


 美玖は、凛に言われたことを思い出した。そうだ・・・自分は何も気持ちを伝えていない。相手に期待するのではなく、自分で行動して伝えればいい。


「私・・・やっぱり月桂さんのことが好きです」

「・・・また・・・その話ですか。前にも言いましたが、あまり軽々しくそういうことは言わない方がいいです」


 私情を挟まず、突き放した冷淡な態度で返答した。どんなに傷付けたとしても、これ以上の干渉や依存は避けたかった。


「えと・・・迷惑ですか?」

「・・・お嬢さんは、私のことをあまりに知らない」

「じゃあ・・・教えてください」


 美玖は自分でも不思議なほど、ハッキリと伝えることが出来た。迷惑だろうな、と思ったがどうしても自分の気持ちを伝えたかったので、これで良かったのだと思った。今伝えないと、また目の前の人はどこかに行ってしまうかもしれない。


「嫌です。何を言ってるんですか。お嬢さんは、自分にどうして欲しいのですか?」


 月桂は少し苛立ちながら、初めて「嫌です」とハッキリと拒否の言葉を伝えた。睨むように美玖を見据えたが、なぜかにこりと微笑まれ、それから少し照れたようにしながら予想外の一言を言われた。


「えっと、前みたいにぎゅうってして欲しいです」

「・・・・・・は?」

「これも嫌・・・ですか?」


 小首を少しかしげると、美玖の黒髪がさらりと肩に流れる。真っ直ぐに見つめる子猫のような丸い瞳に、若々しい濡れた唇、困ったような、誘うような表情にあざといな、と思った。


「いいえ」


 月桂は一呼吸した後、美玖の腰を引き寄せ自分の太ももの上に座らせる。伸長差が40センチ以上あるので、こうして座らせた方が抱きやすいと思った。

 そのままの状態で、じっと美玖を眺めていたら、緊張しているのか目が合うとすぐに逸らし恥ずかしそうに俯く。初々しいというか、まだまだ子どもだな、と改めて実感した。

 全体的に小柄だが、こうして近くで見ると、想像以上に小さいし、腕も首も腰も細い。こんなに細いとすぐに骨なんて折れるだろうな、と物騒なことを考えた。

 手を絡めるたび、髪をかき上げるたび、目があうたびに、美玖が過剰に反応するので月桂は堪らない愉悦に浸っていた。


「あっ・・・あの・・・」

「嫌ですか?」

「・・・いえ・・・嫌じゃないです・・・」


 さっきと同じ質問を、逆に月桂にされて美玖は何も言えなくなった。構ってもらえるのは嬉しいが、じっと見られたりいきなり触られると驚いてしまうし、何より恥ずかしくなる。嫌だとは少しも思わなかったが、あまりの緊張状態でパニックになりそうだった。


「は・・・早くしてください・・・」

「何をですか?」

「あの・・・だから・・・ぎゅうって・・・」

「擬音語の説明は分かりかねます」

「え・・・と、抱きしめてほしい・・・です」


 普段、人に甘えたり頼ったりすることが少ない美玖に、ハッキリと口に出して「お願い」をさせる行為は、達成感に似たものがあった。大したことじゃないが、月桂にはそれが少し快感に感じた。

 包み込むように、優しくぎゅうと抱きしめた。


 結局、抗えきれなかった。

 美玖の望んでいることを叶えれば、ますます依存が高くなる。一度許してしまったら、次を拒否するのは難しい。分かっていても、どこかこの状況を楽しんでいる自分がいるから困る。


「月桂さん・・・おかえりなさい」

「はい」


 おかえりなさい、が言えて美玖は本当に月桂が帰ってきたのだと実感した。

 月桂の腕に顔をうずめて、美玖はゆっくりと息を吸う。薄いバニラのようで、どこか苦い煙草の匂いがする。一度も煙草を吸ったところを見たことは無かったが、月桂が煙草を吸っているところを容易に想像できた。

 今まで知らなかった月桂の一面を垣間見えたのもあり、なぜか心地よく、少し痺れるような気分に美玖はなった。

 やっぱり大好き。


「さあ、満足しましたか?」


 正直、この状況を他の住人に見られたら、今度は誤解どころじゃ済まないだろうなと月桂は思った。

 美玖は小さく頷くと、少し名残惜しそうに顔を向けた。月桂は美玖の耳から頬に指をすべらせ、唇にそっと触れる。

 唇に触れられ、思わずビクリと体を反らすと月桂は口の端だけでニヤリと笑う。


「あっ・・・あの、おやすみなさいっ」


 美玖はぴょんと子ウサギのように、月桂の元から降りると顔を真っ赤にしながら部屋に戻って行った。それを眺めながら月桂はくつくつと低く笑う。

 自分はずいぶんと滑稽で、頭がおかしいんじゃないかと自嘲めいたことを思った。





 もうすぐ大学祭があるため、ルイはこのところ忙しかった。やることは山のようにあるのに、作業は一向に進まない。それでも、月桂が帰ってきたので美玖についてはとりあえず大丈夫かな、と安堵していた。

 朝家を出る時、門前に停まっていた車の横に20代後半くらいの男が居た。こちらに気付き軽く会釈をされたので、ルイも誰だろうと思いながらも軽く会釈を返した。

 車は普通の国産のワゴン車で、男も普通の会社員風の男だったので特に気にも留めなかった。ただ、眼鏡をかけた横顔が少し好みだなと思った。


 その日の昼ごろ、またその男に会った。駅近くの携帯ショップの前で何やら連れの男と揉めていた。何かな、と軽い好奇心で見ていると連れの男がルイに気付き「ああっ!」と大声を上げた。


「月桂んとこのおねえちゃんっ!! せやな? おい、風間くんっ!」

「大きい声出さないで下さい、先生」


 逃げ出すのも、何となく気が引けたのでルイは苦笑いを返した。連れの男は、年齢不詳のヒゲ男で、白衣を着ている割に清潔感がまるで無く、怪しさ全開の男だった。


「えー・・・と、吾妻さんのお知り合いですか?」

「見たら分かるやん、主治医やて。こっちは部下の風間くん。おねえちゃん名前は?」

「ルイです・・・けど」


 まあ、先生って呼ばれていたし、よれよれだけど白衣も着てるから、医者なんだろうけど・・・

 変なテンションの中年に絡まれた気がして、ルイはぞっと寒気を感じた。あからさまに引いてるルイを見て、風間は口を挟んだ。


「あの、すみません。この人変なので無視してください」

「ええ、見れば分かります」

「変て・・・そんなことあらすか! どう見ても立派なお医者様やん! ほら、風間くんはちゃっちゃと月桂の携帯契約してこんかい」

「先生が横からうるさいから・・・黙っていてください」


 ため息をついて、風間は携帯選びに戻った。イラつきながらも熱心に携帯を選ぶ風間がルイには少し気になった。逆に医者という男のウザさと胡散臭さは異常だった。


「やっぱ吾妻さんの携帯壊れてたの? 紛失?」

「壊れたので、新しいの契約するよう言われたんですよ。連絡とれないと不便ですから」

「自分で行けばいいのにー案外人使い荒いのねー」

「いえ、仕事のうちですから」


 それ仕事なのか?と疑問に思いつつ、真面目に携帯選びをする風間にますます興味をもった。月桂の部下という割には、どう見ても普通の会社員風で月桂のような、強面でもなく近づきがたい恐ろしい雰囲気も持ち合わせていない。

 それでも、彼は月桂と「同じ職業」なのかと思うと不思議な気分になる。


「おい、これでええわ。色はピンクにしよか」


 白衣の男は、キャラクターコラボの可愛らしい携帯を持ってニヤニヤとしていた。それを使ってる月桂を思い浮かべ、ついルイは吹き出してしまった。あまりにも似合わない。


「あはははっ。やだー女の子の携帯じゃない。よし、それでオケー!」

「うはーおねえちゃん、話分かるやん。じゃ、これで決定な」


 白衣の男とルイは爆笑しながら、携帯を眺めた。風間はバカバカしいと頭を振る。


「何バカなこと言うんですか。殺されますよ・・・」

「うひひ、だって月桂何でもいいって言っとったやん」

「言ってませんよ、種類は任せるって言われただけです」

「同じだわ。すんませーん、これ機種変したいんやけどー」

「まじで邪魔なので、大人しくしててください」


 風間が断固反対して、結局最新の携帯を契約することにした。色は無難な黒色にした。白衣の男は残念そうにしたが、すぐに忘れて道行く女の子たちを観測していた。


「悪乗りしないでください、怒られるのは俺なんですから」

「あはは、ごめんね。吾妻さんって部下に厳しいの?」

「見たとおり自分にも部下にも厳しいですよ。携帯一つでも機嫌損ねたら殴られ・・・あ、いえ忘れてください」

「あーはいはい。聞いてませんよ。っていうか、あの顔の傷恐すぎるんだけど・・・」

「・・・そうですよね」

「ねえ、どうして吾妻さん急に帰ってきたか知ってる?」

「・・・こっちが聞きたいくらいです。絶対安静の状態だったのに、隼さんと電話した後急に帰るって言って・・・本当に帰ったんですよ。何か、こっちで何か問題があったんでしょうね。理由なんか、俺に聞く権利無いんですよ。命令に従うだけです」

「そうなんだ・・・あたしも一緒。隼に聞いても、分からないって言うし、吾妻さんだって何にも言わないし」


 お互い似たようなものね、とルイはくすりと笑った。風間は同じ仕事、ルイは同じ家に住んでいるのに秘密事項が多いので不安になることがある。


「あ、風間くんこれ月桂の携帯。治療室に転がっとったやつ、持ってきたったわ」


 いきなり横から現れた白衣の男が、まるで警察の証拠品のように透明のビニール袋に血だらけのまま入っている携帯電話を机にゴトンと置いた。それを見た携帯ショップの店員が「ひっ」と小さく声を上げる。

 液晶部分は割れ、すでに固まった血痕が赤黒く不気味だった。ルイも顔を引きつらせた


「先生、持ってるなら早く教えて下さいよ。こっちは必死で探してたんですよ。まあ、どっちにしろこれじゃ使えないですけど。店員さんすみません、データ抽出できたらお願いします」


 交通事故でもあったような、不吉な携帯電話に触りたくないのかおろおろした店員が、上司らしき人を呼びしぶしぶ携帯に手を触れ内部の確認をした。

 ビニール袋を開けると、血の何とも言えない匂いがして店員たちは顔を青くした。基盤を確認したが、血が固まってうまく開けられなかった。やっとのことで、こじ開けるがやはり内部も血が染みていてお手上げだった。


「お客様・・・申し訳ありませんが・・・無理です。勘弁してください・・・」


 店員の悲痛な懇願にも、特に動じず「分かりました」と淡々と風間は受け答えた。普通に見えて、やっぱり少し感覚がずれているのだとルイは思った。

 携帯ショップを後にすると、白衣の男が「腹減った」と騒ぐので仕方なく風間は昼食にすることにした。帰ろうとするルイに、白衣の男が強引に誘い、結局ルイも付き合うことになった。




 近くのファミレスに入ると、風間は月桂の買ったばかりの携帯にパソコンを使いアドレス登録を行っていた。まさに、サラリーマンだった。

 その横で、白衣の男はがつがつと食べていた。食べながらも、ルイに学生なのか、など聞いてきてルイはうっとうしかったので適当に受け答えをした。


「先生、あまり詮索しないで下さい。本当だったら、家人との接触も禁止されてるんですから」

「俺、組の人間じゃねーし、関係にゃー」

「先生がどうしてもって言うから、わざわざ連れて来たんですよ。お荷物以外の何物でもないんですから、大人しく従ってください。携帯渡して現状報告、先生の往診が終わったらすぐ帰りますからね」

「えーせっかく東京来たのに~? マニアックな風俗巡り行こま~い!」

「勝手に一人で行ってください。最初に言っておきますが、トラブルがあってもうちの名前は絶対に出さないでくださいよ。こっちは力関係が微妙なんですから」

「月桂に奢ってもらおー! SM系もいいが、ごっくん、即尺、顔射の王道でもええの。会員制の高級店でよろしく!」


 白衣の男は興奮したのか声も大きめで、周りの視線がビシバシと痛かった。ルイは自分がなぜここに来てしまったのか、ひどく後悔した。飲み会ならまだしも、昼間のファミレスでこのテンションはありえない。ため息交じりにタバコに火を付けると、ぼんやり窓の外を眺めた。

 相変わらず白衣の男は風俗の話で一人盛り上がり、風間はパソコンの作業に没頭していた。


「っていうか、吾妻さん風俗とか行くの?」

「え、そら好きやて。オスだからな!」

「そう・・・よねぇ~・・・まぁ、それならそれで構わないし・・・うん、正常じゃないの。ロリコンじゃなくて良かった」

「・・・あ?」


 ジュースを飲んでいた白衣の男が思わず中味を吹き出すので、風間が慌ててパソコンを避難させる。するとゴツンと威勢よく白衣の男にあたり店中に聞こえる程の大声で「痛いわっ!」と叫んだ。


「ロリコンはないわー月桂の女はいつも長身・美人・フェロモン系だからな。いてて、風間くん気ぃつけんと」

「先生こそ汚いです。パソコンにコーラなんか掛かったら温和な俺でも怒りますよ」

「怒ってみーお前みたいな若造こわないわ、ボケ」

「そうですか、じゃあうち系列の水商売系出禁でいいですね」

「申し訳ありません、二度としません、許してください、わたくしめが愚かでした。ああ、風間さまお召し物にコーラが・・・ふきふき」

 

 なんだ、このコントは・・・とルイは思いながら二人を見ていた。店員がふきんでこぼれたジュースをふき取ると、風間は礼を言い机にパソコンを戻した。白衣の男が新しい飲み物を取りに立つと、小さくため息をつき風間はルイをチラと見た。


「どうしてそんなこと聞くんですか?」

「え、いやぁ・・・その・・・いいのよ、ちょっと確認したかっただけ。あはは、そうよね恋人もいるし大丈夫よね。吾妻さんがあんまり仲が良いから・・・ああ、違うの。もちろん、仲が良いっていうのは家族的な意味で・・・うぅん、忘れてください」

「・・・もしかして吾妻さんの言う【お嬢さん】のことですか?」

「・・・吾妻さんに言わないでよ。睨まれるんだから・・・ってゆうか、美玖ちゃんのこと知ってるの?」

「以前、手をケガされた時少しお会いしたことあります。それから、隼さんと一緒にお盆の時期帰省されましたね?」

「ああうん・・・詳しいんだ」

「いえ、車の手配は俺の仕事なので。扇の関係者なんですから吾妻さんが彼女を気にかけるのは当然でしょう。ルイさんはそんなことで、うちの上司をロリコン呼ばわりするんですか?」


 ルイはもちろん、美玖の方が一方的に頼っていると分かっていた。美玖が月桂を心の支えにするのはいいが、それ以上の関係になるなんて考えられなかった。勝手な憶測で人を否定するなんて、最低だなとルイは思った。


「違うのよ、気を悪くしたならごめんなさい。つまり義務感とか仕事で動いてるのよね。オーケーよ、誰かにそう言って欲しかったの」

「義理の部分も大きいでしょう。彼女にケガをさせて珍しく動揺してましたから。いえ・・・初めて見ましたね、あんな吾妻さんは・・・そう思うと特別な人なのでしょうけど」

「そうね、義理・・・よね」

「分かって頂けたらこの話は二度としないで下さい。吾妻さんのことロリコンだ何だと侮辱されたら俺だって不愉快です」


 バタンとパソコンを閉じる。ルイに説明しながら、風間はうんざりとした。以前、桔梗ききょうが月桂に「娘に手を出すな」と忠告して騒ぎたてたのを思い出した。たとえ事実無根であろうと、桔梗が騒げば会長の海部かいふも気にせざるを得ない。そのせいで海部と月桂は数日機嫌が悪く、部下達はそのあおりを食う結果となった。

 おおとり組組長の娘と思い込んでいるため、特別扱いするのは当然だと思った。しかも月桂を庇ってケガまでさせている経緯もある。それで気にかけて、月桂が手を出したや、ロリコンなど言われて風間は気分が悪かった。

 しばらくの沈黙の後、風間は席を立つ。


「・・・ルイさん、ドリンク何がいいですか?」

「あ・・・じゃあコーヒー」


 ―― 不愉快と言った割に、ドリンクを取ってきてくれるんだ。小さな気遣いの出来る男は嫌いじゃないわ。

 ルイは風間の後ろ姿を見ながら、微笑んだ。

 しばらくコーヒーを飲み、煙草を吸いながらぼうっとしていたが、あまりにも白衣の男が来ないので段々と不審に思えてきた。


「遅いわね・・・」

「そうですね・・・」


 風間とルイは同時に時計を見て、そろそろ仕事と学校に戻る時間だと思った。白衣の男はどこかに行ってしまったので、仕方なく会計を済ませて店を出た。風間はすぐに、白衣の男に電話をかけた。


「もしもし、先生どこに居るんですか? 困ります、勝手な行動されたら。えっ! 勝手に家に向かったんですか!? 待てなかったって・・・あんたが腹減ったっていうから食事にしたんですよ。それに、お金も払わず勝手に出てって。財布持ってないだって!? いい加減にしろよ、このヤブ医者。いいですか、絶対に家に入らないでくださいよ。診療や話がしたかったら、車の中でって話したじゃなですか。診療代!? そんなのは俺に言ってくださいよ。あーもう、とにかく大人しく待っててくださいよ、すぐ向かうので」


 ―― わお、たまに言葉遣いが悪くなってる。ん、家ってまさか・・・

 ルイは、ぎょっとして風間に問い詰めた。


「まままっ・・・まさかあの先生、うちに向かったの!? いやーーだめだめ! 美玖ちゃんも家にいるのよー!? あんな不審人物合せないでよっ!? 万が一、吾妻さんが留守だったら・・・うぎゃぁぁ」

「分かってますよ。だから、こうやってあのウザイ中年を監視しながら、行動してたんですよ。とりあえず家に向かいます」

「あ、あたしもーっ」


 車を呼んで、風間とルイは家に急いで戻った。10分もかからない距離だったが、恐ろしく長い時間に感じて生きた心地がしなかった。

 あの異常に下品で胡散臭い男に、美玖ちゃんをけがさせてたまるか! とルイは拳を握りしめた。

 隣の風間は、月桂の凍てつくような視線を思い出し、条件反射で歯を食いしばった。先生頼むから余計なことはしないでくれと心の中で叫んだ。


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