33話 相惚れ自惚れ片惚れ岡惚れ
相惚れ自惚れ片惚れ岡惚れ
人を好きになる時の形には、いろいろなものがあるということ。
相惚れ→相思相愛、両想い
自惚れ→相手の事を考えず、勝手に好きになる、ひとりよがりな恋
片惚れ→片方だけが恋しいと思う、一方的な想い
岡惚れ→密かに好きになる。相手に恋人がいたり、不倫とか。
【33話 相惚れ自惚れ片惚れ岡惚れ】
数日後、凛が見舞に来たいとルイから連絡を受けた隼が、学校帰りに駅で待ち合わせて一緒に帰宅することにした。
それを聞いた柳は、先に一人で帰ることにした。どうも、凛とは険悪なムードになりそうだったからだ。
待ち合わせ場所にいた凛は、またも男装で涼やかな顔で待っていた。あまりにもキレイな顔立ちで、ちらちらと女の子たちが振り返って噂をしていた。隼は直ぐに女性だと分かったが、ブーツを履いていることで背も高く、男物の制服のため初めて見る人の第一印象の多くは「美少年」そのものだった。
隼はいつもの爽やかな笑顔で凛に話しかける。
「今日は、そっちの恰好なんだ。この前の制服姿、ステキだったのに」
「悪いか。女の恰好で、男と歩いてたらデートみたいで気持ち悪い」
「信家さん、言葉使いも変わるんだ、面白いね」
「呼び捨てでいい。僕も扇って呼ぶから」
「・・・凛?」
凛は眉を寄せ、掌を伸ばして手刀で隼を打とうとするがあっさりと避けられる。
「名前を呼ぶな、名字だバカ!」
「ああ、分かったよ信家」
くつくつと笑う隼に、バカにされたような気がして凛は先に歩き出す。
「早く美玖のところに行くぞ、扇」
「ごめん、晩ご飯の買い出しを頼まれてるんだ。付き合ってくれる?」
「仕方ないな・・・まさか、扇が作るんじゃないよな?」
「どうかな・・・美玖ちゃんの体調が悪かったら僕がやるしかないかな・・・」
少し真面目な顔になった隼に、凛は一抹の不安を感じた。
「美玖、体調悪いの?」
「うん、少しね。外傷性頸部症候群いわゆるむち打ち症ってやつだね」
「よく、交通事故とかでなる?」
「そう。めまいとか頭痛とか肩こり・・・症状は様々だけどね。元気ないんだ」
「そう・・・」
「だから、信家が来てくれると助かるよ。君孝さんとルイねえはこのところ忙しそうだし、僕と柳だけじゃ心許ないんだ」
「だろうね、君たち腑抜けじゃ美玖の心の傷は癒せないよ」
ふふん、と得意そうにする凛がいてくれて、本当に良かったと思った。
帰宅すると、美玖が出迎えてくれた。少しやつれた顔が体調の悪さを窺わせた。心配した凛が、自分と隼が料理を作るから待ってて欲しいとお願いした。
その間、ダイニングで美玖は柳と勉強をすることにした。
「信家、料理作れるの?」
「作れる、バカにするな」
「・・・得意料理は?」
「サラダ」
やっぱり、と隼はため息が出た。どうして出来もしないのに、安請け合いするのかと文句を言いたくなった。隼自身も料理に自信が無かったので先行きが不安になった。
「信家、そんなに大きく切って・・・火が通らないよ」
「扇、君こそレシピばっか見て、ちっとも進まない。効率が悪い」
「慣れてないんだよ」
「言い訳するな。こんなものは、切って、煮て、味が付けば、それなりに食べれる!」
「うわー・・・ワイルド過ぎる・・・」
そうして出来た、隼と凛の作った「鍋料理」が完成した。
「わぁ~これ、何鍋なんですか?」
「そうだな、ファンタスティック鍋」
隼の忠告を一切無視して作られた、凛主導の鍋料理の前で柳は絶句した。あまりにも、協調性のない鍋の内容に恐ろしさすら感じた。ネギ・豆腐・白菜・シイタケこれら定番の食材に加え、いくつか珍しいものが入っていた。
「おいおい・・・百歩譲って、かぼちゃやベーコン、レンコンは許すけど・・・この辺はおかしいだろ! これ、この白いの何だよ!」
「チーズ。そっちはマグロ。確かに、もずくやキュウリ、銀杏は新感覚だよね・・・」
柳の質問に、苦笑いしながら隼は答える。美玖は配膳の手伝いをしながら興味深そうに話を聞いていた。
「創作料理ってやつですね、わぁ~楽しみです」
「適当に、冷蔵庫の物を突っ込んだ闇鍋じゃねーの?」
「君、失礼だな。僕と扇で作った渾身の作だぞ」
隼は、これを渾身の作と言われ残念そうな顔をした。それを見て柳は、もっと不安になった。
意外なことに、出汁のおかげで通常の具材は難なく食べられた。しかし、問題の食材たちは、やはり強烈なインパクトを残していった。凛が、嫌がらせのように小鉢に具をよそってくれるのでランダムに危険な食材たちを食べる羽目になったが、律儀に柳も隼も美玖も残さず食べた。
食後、すっかり疲労困憊した柳と隼は同じことを思った。
「早く月桂、帰ってきてくれないかな・・・」
「おお、俺も今、月桂さんの有難みを噛みしめてたところだ。まさか羊羹まで入ってるとは・・・嫌がらせか!」
当たり前に食べていた月桂の料理は、いつも和食だがヘルシーで繊細で健康的だった。それが今はとても懐かしく感じる。美玖の体調が悪い時は、次からは外食か出前にしようと心に決めた。
凛と美玖は談笑しながら、後片付けをしていた。凛は美玖と話をしている時は優しい表情になり、美玖もそれを自然に受け止めていた。
「知らない内に、凛さんと隼くんは仲良しになったんですね」
「扇と? 別に、普通だけど・・・そうだな、少し興味はあるかな」
「へぇ、どんな風に?」
後ろから隼が声をかける。凛の肩に手を置くと、凛はちらりと足元を見、思い切り隼の足の甲を踏む。
「いっ・・・」
「こんな風にっ!」
怯んだ隙に、肩に置いた隼の右手首を左手でがっしり捕まえる。そのまま右腕を隼の右腕から下へ滑り込ませると同時に右手で左手首を掴む。左足を軽く浮かせ右回転しつつ掴んでいる腕を上に上げると、隼の後ろに回り込む。
取った!と思った瞬間、ふわりと凛の視界が回転し、床に抑えつけられていた。いつの間にか形勢逆転し凛は驚いた。
美玖は横でポカンとしていた。
「おかしいな、あとは一度引いて反動をつけた後に相手の顔面か腹部に右ひざ蹴りで終わりだったのに・・・やっぱり扇、武道やってるだろ?」
凛の拘束を解くと、呆れたように隼はため息をつく。
「そうだけど・・・素直にそう聞けばいいのに、実践してこないでよ。驚くじゃないか。信家はこんなの、どこで習ったんだよ」
「護身術。ストーカー対策で。扇みたいなやつには、やっぱり効かないか・・・要練習だな」
「ああ、護身術ね。最初の足の甲を踏むのは効いたけど、回転肘固めは上級者向けだよもっと簡単なのがいい。そのまま前に上体を折りながら沈めて反動をつけ、上体を反らせて後方にいる相手の顔面に後方頭突き。そのまま後方に右ひじ打ちが無難かな」
「なるほど、勉強になるな。先日の僕の締め方も改善点はあるか?」
護身術・・・と聞いて美玖は少しホッとした。いきなり凛が隼を攻撃したのかと思ったからだ。それにしても、二人は本当に仲が良さそうだな、と後片付けを終えた美玖は少し嬉しく思った。家が賑やかなのはどこか救われる気がした。
「あるも何も、護身術じゃないでしょ、裸締めなんて。護身術は、安全に逃げるための手段として使うんだから。さっきと同じだけど、相手が反動をつけ、後方頭突きされて怯んだ隙に腰を沈めて両ひじを上げて羽交い絞めを外したらそのまま反撃されてお終いだよ。柳だって出来たけど、信家が女の子だって分かったから乱暴なことしなかったんだよ?」
「そうか・・・そうだな。僕の考えが甘かった」
「どうしたの、今日はやけに素直だね。まぁいいや、美玖ちゃん畳の客間使ってもいい?」
「・・・はい、大丈夫ですよ」
普段使わない一階の客間は、唯一の畳の部屋でそこで四人は座った。
ストーカー対策と聞けば、放っておく訳にはいかなかった。自分が実践的な護身術を教えてあげなければ、となぜか隼は思い立った。凛が真面目に話を聞いてくれるので、余計気になったのも確かだった。
「さっきの裸締めだけど、おすすめなんかまったくしないけど、僕だったらこうするね。絞めた後、両脚を胴体にフックした形で極めるとなかなか脱出できない。足を絡めるなんて、総合格闘技の技だから、バックチョークだねこれは」
説明しながら、隼は柳の首に右腕を回し左手で後頭部を押さえつつ、両足を絡める。それを凛は興味深そうに眺めていた。
「俺だったら、トライアングル・スリーパー・ホールドかけるな」
「柔道でいう三角締めのことだね」
柳は態勢を入れ替え、隼の右手を引きこみながら、仰向けになった状態で両足を使い、隼の首と肩をロックした。柳も隼も手慣れた様子で技をキレイに極める。
「そんな複雑そうな技、実践で使えるか。扇、もっと使えそうなのないか?」
「アハハ、そうだね。突込締なんてどう? 単純で仕掛けやすい」
「両手で相手の前襟を握り、片方で押し、もう片方で引いて、襟を巻くように絞める。前に出す手の拳に襟を巻いて頸部を圧迫し、もう片方の手で相手の前襟を強く握り、引くようにして絞める! 拳で直接絞めると、月桂さんみたいだな!」
柳は説明しながら、態勢を変え突込締の状態にもっていく。
美玖の前でなんてこと言うのかと、隼は一瞬戸惑ったが美玖はよく分からなそうな顔をしていたので少し安心した。
「無防備なまま馬乗りになってるから、相手が上級者の場合は、関節をとられる恐れがある・・・本当に危険だったら絞め落とすしかないね。でも、こういう状況に持ってくまでが大変だと思うな」
「そうだな。以前襲われた時は、いきなり押し倒されたからな。そこから脱出するまでが大変だった。実際は、緊張するし、電気が点いてるとも限らないし、何より動転してるから、頭が動かない・・・困った時に助けを呼んでも、どうにもならない事を実感したんだ」
凛はさらりと、告白をした。それを聞いて隼は納得した。自分に危機が迫ったからこそ、こうして真面目に護身術を学ぼうとしている。そして、男に対して嫌悪感を抱いている。ストーカー対策のために男の恰好をしているのかもしれない。
柳も美玖も凛の告白に何と言えばいいか分からなかった。それを見すかしたように、凛は淡々と話す。
「・・・だから、僕は強くなりたいんだ。自分を守れないやつに他人なんか守れないだろう? いざっていう時に何も出来ない臆病なやつになりたくない」
「・・・分かったよ。僕で良かったら教えてあげる、実践的なやつね」
「本当か? 助かる。道場とかボクシングジムに通おうかと思ったんだが、事務所がダメだと言うから困ってたんだ。友人に教えてもらうなら、事務所も口は出せないからな」
「ああ、モデルの事務所? そうか、ケガとかしたら仕事に支障きたすもんね」
「そうだ。顔に腫れを作った時なんか、社長にぐちぐちと怒られたからな」
以前柳に殴られた時のことだと、一同気がついた。柳は憮然とした顔で凛を見た。
「あの時は悪かった・・・いきなり殴ったりして」
「分かった、許す」
「わぁ、良かった。これで仲直りですねっ」
美玖は嬉しそうに柳と凛を眺めた。やっぱり凛はすごいな、と尊敬した。自分とは違って、強い・・・心が。
「あの・・・私も・・・教えてほしいです」
思わぬ美玖の一言に、柳も凛も「え?」と驚いた声を出す。
「いや、美玖ちゃんはケガしたばっかりだし・・・それに、教えてもいいけど・・・多分、難しいと思う・・・」
「あっ・・・あの、頑張ります・・・私も・・・強くなりたいんです」
「いいじゃないか、扇。僕に教えるついでに美玖にも教えてあげればいい」
「お前、勝手なこと言うなよ・・・月桂さんが知ったら睨まれるのは俺たちなんだぞっ!」
「ええっ・・・隼くん、月桂さん怒りますか?」
そういう理由で、隼は反対した訳では無かった。だが、確かに月桂は嫌な顔をするだろうなと容易に想像できた。
「まぁ・・・月桂のことは置いといて。一度やってみようか? 多分僕の言った意味が分かると思うよ」
「じゃあ僕、やっぱり裸締めを完璧にしたい。それから、逆に絞められた時の対処法を教えて欲しい」
「うん、分かったよ」
そう言うと、隼は柳に相手になってもらい凛に絞め方のポイントと、絞められた時の対処法を的確にアドバイスした。凛は真面目にそれを聞き、練習をした。
「ああ、そう。金的潰しで相手は手を緩めると思うから、相手と接近したまま相手の腹部に後方左ひじ打ち。あとは逃げる」
「うわー恐いんだけど・・・何で俺が相手役なんだよ・・・」
「だって、僕が相手したら正しく出来てるか判断できないじゃないか。寸止めするし、大丈夫だよ、ねぇ信家」
「もちろんだ」
「いや、こいつ目が恐いんだよ、容赦なさそうだから・・・」
「柳、いいから」
仕方なく、練習に付き合ったが、いくら寸止めとはいえ急所を狙われるのは恐怖を感じた。何事もなく凛の練習が終わると、隼が美玖を呼びやるかどうか聞いていた。美玖は真面目な顔で「やります」と言う。身長差があるので座っている柳の背後からスッと手を伸ばした。
「うわっ・・・」
思わず柳が声をあげる。白くて細い美玖の手が首にまとわりつき、左肩のすぐ上に美玖の吐息を感じた。凛の時にはまったく気にならなかったが、すごく密着した状態となり恥ずかしくなってきた。
「組んだ両手をしっかりと自分の胸に引き付けて相手に密着させて、自分の頬やあごをあてて頸部を圧迫して絞める力を強める。もっと、力を入れる・・・思いっきり・・・えーっと・・・」
隼は思わず言葉に詰まる。凛の時と同じことをやっているのに、まるで技が決まらない。まるで、子どもが父親に向かってじゃれているようにしか見えなかった。凛も同じことを思ったらしく何も言わず見ていた。
「ちょ・・・もういいだろっ! 無理無理、お前には無理っ! 大体、お前が絞め技覚える必要ないだろ。絞められた時の対処法の方が重要だろっ!」
隼が困ったように眺めていたので、その間柳はずっと美玖に後ろから抱き締められるような格好になっており、いろいろと限界だった。耐えきれず、美玖の手を振りほどくと息が少し上がって、動悸もしていた。何で自分がこんな目に・・・と柳はため息をつく。
美玖は柳にハッキリ無理といわれ、少ししょんぼりしていた。
「あー・・・うん、そうだね。じゃあ、柳さっきと同じ要領でよろしく」
「なっ・・・何で俺ばっかり! さすがに無理だ、勘弁してくれ!」
「何いきなり慌ててるのさ・・・信家の時と同じだって。美玖ちゃんだったら嫌なの?」
「嫌に決まってるだろ!」
しまった、と思って美玖を見たらひどく困惑した悲しそうな顔をしていた。凛からは冷たい視線が飛んでくるし、隼からは「早くやれ」と無言の催促を受けた気がした。
「違う、そうじゃなくて・・・分かったよ、やりゃいいんだろ! ただしお前、もっと真面目にやれよ」
「あっ・・・ありがとです。もっと真面目にやります」
美玖が真面目にやっていることなど分かっていた。ただ、いくら練習と言っても凛のときのような緊張感のようなものがまるで感じられなかった。
今度は立ったまま美玖の後ろから、そっと首に腕を回す。細い首すじは、すぐにも折れてしまいそうな気がして、罪悪感すら感じた。
「えーっと、まず・・・急所を・・・手で探して、握るっていうか、潰すんだけど・・・言ってる意味分かる?」
隼の質問に美玖は首を振る。凛は以前護身術を教えてもらったので、金的蹴りで説明は済んだが予備知識の無い美玖の場合一から説明しなければならなかった。
「扇、言いにくいなら僕が言ってあげよう。つまり股間を狙うんだ。男の最大の急所は金的だからな。蹴りやすい場所にあるし、いざとなったら下から蹴り上げればいい。水平じゃなくて、真下から上だ。後ろからの場合は、蹴れないから手で潰すしかないんだ。この時注意するのは、棒じゃなくて玉を狙うんだ。だから、玉攻め。分かる、美玖?」
「玉攻め・・・ですか・・・」
美玖は困惑したように、考え込む。
柳は凛の聞いただけでゾッとする説明に顔をしかめた。
「おい、信家・・・変な単語教えるなよ・・・」
「いや、柳・・・古武道ではそう言うんだよ。金的蹴りが一般的だけどね。衝撃を受けた場合、局部は激しい鋭痛、腹部には鈍痛を感じ、さらに吐き気と呼吸困難をもたらす場合もある、人の感じる最大の痛みって言われる位だから。まぁ、知識として一応覚えておいて。さすがに、柳で試してあげることも出来ないから、他の方法にしようか」
「あっ・・・当たり前だろ・・・隼っ!!」
ニコリと隼は、別の方法を教えた。後ろ上に手を回して相手の髪を掴んで、そのまま離さず手前に引っ張る。顔が見えたらすかさず目を突くというものだった。
「この時点で、相手の腕が緩むと思うんだ、その隙に・・・こんな感じで四本指は相手の頭部で残りの親指を相手の目に水平に当てる。思いっきりね。だいたい一秒以内にやらないといけないよ。美玖ちゃんに出来るとは・・・あまり思えないけど」
相手に同情なんかもっての他だから、非情じゃなきゃ出来ない。だが、自分がそんな状況でも相手のことを考えて躊躇してしまいそうな美玖に隼は不安を覚えた。だから、難しいだろうと思ったのだ。
「目つぶしって、そうするのか・・・勉強になるな」
「うん、他にもカギとか持ってたら指の間に挟んで、顔面強打に使える。ペンだってフォークだって、いざという時は武器になる。過剰防衛と言われようが、容赦なんかしない、それが大事だと思うね」
美玖を見ると、やはり困惑したようにただ立っていた。もういいだろう、と柳は手を離すが美玖はぎゅっと柳の袖を握ったままだった。
「信家は、きっとその気になれば目突きでも、殴打でも出来るかもしれない。覚悟と度胸がある。だけど、今の美玖ちゃんには到底出来ると思えないな」
「隼、言い過ぎだろ・・・別に・・・ゆっくり覚えればいい」
「いや、僕も美玖には向いてないと思った。これは僕の超個人的意見だが、美玖は守ってあげたいタイプだ! 目潰しとか玉攻めとか教えるものじゃない。扇の言っていたことが分かった。何か、嫌なんだ。ごめん、美玖。本当に勝手な意見だけど、美玖は・・・俗世間に触れさせたくないな・・・」
唐突に真面目な顔で凛は、言い放つ。もちろん、言いたい事は分かる。深窓の令嬢のように大事に守りとおしたい存在だと思っていた。だが、本人が覚えたいというのを否定するのも、勝手な思い込みだと隼は躊躇っていた。
あまりにも、正直に言う凛がある意味羨ましいな、と隼はくすりと笑った。
しかし、柳は凛を見て、こいつこそ危ない思考の持ち主じゃないかと顔が引きつった。
「な・・・何言い出すんだ、この変態!」
「ああ、もう限界だ。べたべたと男ばっかり触って、死にそうだ。美玖、充電させてくれ」
「ひゃあ・・・」
凛は美玖に抱きつき、幸せそうな顔をしている。慌てて柳が止めに入るが、凛がひょいと軽々と持ち上げるとそのまま思う存分抱きしめ頬ずりをした。
「おい、お前・・・離せよっ」
「うるさい。君はいいだろ、もうさっきから好き勝手に抱きしめられたり、抱いたりしたんだから。僕だって我慢して見てたんだ、君も黙っていろ」
「何、勝手なことぬかしてんだっ・・・あ、あれはっ・・・仕方なくやっただけだろ! お前みたいな不純な動機じゃねーよ」
「ほう、あんな間抜け面でよくそんな事言えるな。後ろから美玖に抱きしめられた時の君のニヤケ面を見せてやりたかったな。違う意味で昇天するかと思った」
「お前っ・・・どーしよーもねーな!」
「なんだ、図星のため反論できないか。それにしても美玖、本当に可愛いな、軽いっ! 僕の子猫ちゃんっ!」
「おい、いきなりオーバーヒートし過ぎだろ、お前の脳みそっ!」
さっきまでの真面目な凛が、急に豹変し美玖はあわあわと落ちないように必死で抱きついた。それを引きはがすように、柳は美玖を引っ張ると凛も負けじと抱きしめる。
「触るな、男のくせに」
「男とか関係ないだろ、いい加減にしろ、このど変態が!」
「ふん、君こそ。今丁度いい具合に、柔らかい感触を楽しんでるんだ」
「だから困るんだろっ!」
「何だ、君も気づいてたのか・・・」
「当たり前だろ、こっちは背中に押し付けられて・・・って何言わすんだ!」
「それで欲情してないって言いきれるのか? これだから男は困る。すぐに陰茎の硬直化に結び付ける」
「してないだろーっ!」
今日は、いい雰囲気だと思ったのにまたこんな展開になってしまったと隼はがっくりした。仕方なく二人を落ち着かせると、今日は遅いからもう帰るよう、凛を促した。
美玖は何が何だか分からず、ぽかんとしていた。
「じゃあ、美玖またな。今度は美味しいケーキを持って遊びに来るよ」
「はい・・・今日はありがとうございました。えと・・・次はいつ?」
「そうだな。週末は仕事があるから、来週の火曜か水曜かな。都合の悪い日ある?」
「いいえ、私ずっと家にいるので。あの、もうすぐ月桂さんが帰ってくるので次来てくれた時、紹介しますね・・・また一緒にご飯食べてください」
「分かった。例のお手伝いさんだな? 僕も挨拶しておきたかったんだ、楽しみにしてるよ」
「はい。それじゃあ、おやすみなさい」
「うん、おやすみ」
凛は美玖の頬に軽くキスすると、ニコリとほほ笑む。隼は、駅まで送って行くと言い一緒に出て行った。
やっと行ったか、と柳はうんざりとしたが、美玖がいつもより元気そうにしていたので、まぁいいかと思った。階段から落ちた後の数日は、学校にも行かず具合が悪そうに寝込んでいたばかりだったから少し安心した。
隼が送っていくと言うと、凛は嫌な顔をしたが、隼のにこやかな笑顔に断りづらく仕方なく了承した。
二人で暗くなった秋の夜道を並んで歩いた。
「別に、送ってもらわなくてよかったんだ。むしろ、家に美玖とあの男を二人っきりにする方が危ない」
「あはは、僕は信頼してくれてるんだ?」
「扇は・・・そうだな、まぁ少し、少しだぞ! あいつよりマシなだけ。なんか、男っぽくないから・・・かな。背も低いし」
「信家が高いんだよ。やっぱり・・・男は嫌い?」
「嫌いだな・・・基本的に。男っぽいやつは特に・・・苦手だ」
だったら、月桂なんてただでさえ恐い顔で背も高いし苦手な部類だろうな、と隼は思った。しかも美玖と仲が良いなんて知ったらどんな顔をするだろう、と心配事が一つ増えた。
二人は駅に着くまでの15分程、談笑しながらだったのであっという間だった。
「今日はありがとう。扇のおかげで勉強になった。美玖のこと・・・よろしく頼む。僕はたまにしか来れないから、あまり力になれないけど」
「そんなことないよ、今日はとても元気そうだった。信家のおかげだ」
「ああ、僕はとても女の子に好かれるからな」
「あはは、本当にそうだね、さっきから女の子がちらちらと振り返るんだよ。でも、女の子の恰好したら今度は男が振り返るだろうね」
「扇・・・当たり前のこと言うな。僕は華がある。その上、美しくなる努力も怠らない。そんな人間が、目立たないわけないだろう?」
あまりに自信満々な凛に、隼はニコリと「そうだね」とほほ笑む。驕りでない本当の自信が凛にはあった。清々しいほどの凛の態度に隼も魅かれていた。
「それじゃ」と凛が真面目な顔で別れの言葉を言い歩き出す。
「僕には、別れのキスはないの?」
「なんだ扇・・・僕が男なんて相手にすると思うのか?」
少し不機嫌そうな凛に近づき、頬に軽くキスをする。手刀か蹴りが飛んでくるかと思ったが凛は特に何も反応を示さなかった。
「自分だけは特別だと思ってる」
「とんだ自惚れ屋だな、扇。じゃあな」
周りのぎょっとした様子を気にすることもなく、凛は颯爽と改札に向かった。同時に、クラスメートの向井と友人の凍りついた顔が隼の視界に写った。
「ああ、言い忘れた。信家、家に帰ったら僕に連絡してよ」
「・・・どうしてだ?」
「心配だから」
「扇、図に乗るな・・・僕が心配だと? 上から目線も大概にしろ、不愉快だ」
凛はキッと睨むと、今度こそ改札を通り去って行った。それをニコリと見送ると、凍りついたままの向井に声をかける。
「向井たち、こんな遅くに何で駅にいるの?」
「え・・・ああ、塾の帰り・・・お前こそ・・・」
「見たとおり、友人を駅まで送ってきたんだよ」
「友人・・・だよなー、友人・・・かぁ?」
男同士で、大胆にキスまでしといてその言い訳はないんじゃないか、と向井たちは理解に苦しんだ。当の隼はいつもの爽やかな顔で自分達を見ていた。
「俺は別に構わないけど・・・あんまり堂々としてると他の奴らに見られるぞ。ただでさえ、隼たち目立つんだから。噂とかされたら厄介だろ・・・」
「あははっ・・・構わないよ、ただの友人なんだから」
「隼・・・いや、無理あるだろ・・・まぁ、まーいいや。分かった、友人な。そういう事にしとこう。うんうん。俺は理解ある友人だからな」
「そう、感謝するよ。それじゃあ、また明日」
くつくつ笑いながら、隼は向井たちに別れを告げた。男同士と勘違いしてるのは分かっていたが、あえてそのまま弁解もしなかった。割と冷静な友人が、慌てて狼狽しながらも自分のために気を使ってくれているのが少し嬉しかった。
万一誰かに見られて、噂を流されても、それはそれで楽しいじゃないかと思う自分は、どこか偏屈なのだろうと隼は思った。
凛は去り際に、隼を罵ったが、あっさり帰宅後にメールをしてきた。
「帰宅した」と四文字だけの簡素なメールだったが、隼は凛のそんなところが益々好きになった。