29話 鹿を追う者は山を見ず
鹿を追う者は山を見ず
一つの事に夢中になっている者は、周りを顧みる余裕がないということ。また、利益を得ることに熱中している者が道理を見失うたとえ。
【29話 鹿を追う者は山を見ず】
桔梗は廊下を早足で進み、玄関に真っ直ぐ向かう。よく自分は、あの場で我慢できたと思うが、本当は美玖の前で言い争いをしたくなかったために、場所を移動したのだと分かっていた。
玄関の外には数十台の車と、スーツ姿の男達が出迎えの準備をしていた。その中から、あの忌々しい男を見つけ文句を言ってやらねば、到底気が済まなかった。何か言ったところで、気が休まるとも思えなかったが、自分の中のどす黒い感情を収めることは出来なった。
桔梗は、何食わぬ顔で出迎えをする月桂を見つけると、ゆっくりと歩み寄る。桔梗が歩くと、周りは頭を下げ道を空ける。あまり表には出るタイプの人間では無かったので、何かあったのかと周りはざわつく。
「お前、弁解があれば先に聞きますけど?」
「弁解? 何のことでしょう?」
桔梗は月桂を侮蔑と怒りを込めた眼で睨み据える。月桂は無表情のまま、動じず桔梗を見返す。
昴も刀我も気にかける男、吾妻月桂。この男の特別扱いが気に食わなかった。10代の頃はこの屋敷に住んでいた時期もあったが、昴を連れまわして悪事を働いたり、自分に対して全く敬意を払わなかったり、生意気な少年だった。そんなイメージが強く、今でも月桂に対して悪いイメージしかない。
大体、美玖と知り合いで、さらに仲睦まじい様子にかなり苛立ちを感じた。
「分かってるでしょう? わたくしの娘に手を出したことよ!」
明らかに怒気のこもった桔梗の声にシンと一帯の空気が凍りつく。
周りにいた吾妻会の部下たちは、ビクリと体を硬直させ、月桂を恐る恐る見ると、無表情のまま桔梗を見て憮然としていた。
「娘? 誰のことでしょう?」
「お前がさっき抱いていた娘のことよ。わたくし、組のことについて口を出すつもりはありません。ですけど、娘のことは黙ってるわけにはいきません」
「姐さんには関係のないことです」
月桂には、桔梗の言う娘が美玖のことだとすぐ分かった。だが、美玖を「わたくしの娘」と呼ぶ神経が理解できなかった。桔梗は紛れもない他人で、実際月桂と美玖がどんな関係であれ桔梗には関係がないのだ。それを、さも実の娘であるように偉そうに問い詰める桔梗の浅ましさに、相変わらず醜悪な女だと月桂は不快感を持つ。
「関係ない? お前は本当に忌まわしい男だわ。結構よ、ただし二度と娘には近づかないこと!」
「・・・何のつもりですか? 失礼ですが、姐さんに口出しされるいわれはありません」
桔梗の口ぶりから、東京で一緒に住んでいること、それを命令したのは他でもない刀我だという事実を知らないのだと月桂には分かった。もちろんこれは、個人的な取引の結果であり少数の者しか知らない話なので当然だった。しかし、それを自分の口から言おうとは思わなかった。言ったところで、更に激怒し東京での仕事を辞めさせようと刀我に詰め寄るのが鮮明に想像できたからだ。刀我に迷惑をかける訳にはいかない。
だからと言って、「はい分かりました」と頭を下げれるほど物分かりのいい性格でもなかった。
「姐さん、何かうちのもんが粗相でもしましたか?」
会合が終わり、吾妻会の会長である海部が戻ると、険悪な雰囲気の桔梗と月桂に顔をしかめ声をかけた。
月桂や部下が、海部に気付き「お疲れ様でした」と頭を下げる。桔梗は、怒りを露わに月桂を睨み据えたままだった。周りの部下から、軽く事情を聞かされ海部は驚愕する。
「な・・・どういうことや、月桂!? ほんまに娘さんに手え出したんか?」
「事実無根です」
「にやけ面で、わたくしの美玖を抱きしめていたのは、どこの誰かしら?」
「はぁ? どうなんや、月桂」
確かに、寄り添って髪を撫でていた。それが見方によっては抱きしめていたと思われても仕方ないだろう。だが、「わたくしの美玖」というセリフに月桂は吐き気がした。どうしたら、そんな自分勝手な物言いができるのか理解不能だった。
落ち着いた口調で、しかし皮肉を込めて辛辣な物言いをした。
「お嬢さんと何があろうと姐さんには関係ありません」
「関係あるわ。わたくしの娘ですもの。お前こそ、身の程をわきまえたらどうなの?」
「娘? 何の冗談ですか。誇大妄想も大概にして頂きたい」
「おい、月桂っ! お前なんちゅう口のきき方しとるんやっ!?」
「黙っとり!!」
桔梗が海部の顔めがけて扇子をビタリと突き付ける。かっとして目を吊り上げる海部を見て周りの部下は青ざめた。
「わたくしがその気になったら、誇大妄想も現実になるわ。どんな手を使っても、ね」
「・・・もういいですか? 会長をお待たせする訳には行きませんので」
「破門、絶縁、除名、除籍・・・今なら選ばせてあげるわ」
さらりと言った桔梗の一言に、部下たちは一層顔を青くし、海部はいきり立った。
「扇の親父が言うならまだしも、姐さんにそないな権限はおまへん!! 月桂は親父に恩義を感じとる、何よりも義理を重視するコイツが無暗に手ぇ出すなんてことあらへん!!」
「勘違いしないでくださる? わたくしの力は、『鳳組』ではなく『扇』の力よ。まぁいいわ、海部会長がそう仰るなら二言はないわね?」
「ない。月桂は親父に対して不義理な真似なんかせん。事情は知りまへんが、今日のところはこれで勘弁してもらえまっしゃろか」
海部は月桂に目配せすると、桔梗に向かって頭を下げる。不愉快だが、海部だけに頭を下げさせる訳にはいかないので唇を噛みしめ月桂も頭を下げる。
桔梗は勝ち誇ったように、フンと鼻で笑う。それがたまらなく屈辱的に思え、月桂は拳を握りしめる。
「結構よ。わたくしの言いたいこと分かるでしょ? あの子にお前のような悪逆非道な男は必要ないのよ。愚かな自惚れで干渉するのは迷惑なの。それじゃあ、さようなら」
去り際に見た桔梗の蔑むように見下す目は、自分の忌み嫌った母親の目を彷彿とさせた。拭いきれない胸の苛立ちを抑え、月桂は海部に頭を下げて心から詫びる。自分の下らない対抗意識のせいで海部に頭を下げさせてしまい、面目が立たなかった。
車に乗り込むと、他の部下達も何も言わず緊張した面持ちで乗り込む。
「お前らしくないな、月桂。扇の姐さんなんか、相手にするだけ無駄や。適当に話なんか受け流せばええだけやろ。それを変に食ってかかって。おい、火」
海部は煙草を口に咥えた。月桂はすかさずライターを取り出すため手を広げると、握りしめた拳から血がポタリと流れた。
「お前っ・・・このドアホがっ! 加減ってもん知らんのか! しゃーないやっちゃな・・・そない、許せんかったか?」
「・・・すみません」
海部も桔梗の物言いに苛立ちを感じていたので、月桂の気も少し理解できた。しかし、月桂の静かに憤った表情に何か違和感を感じた。
「なぁ、扇の親父に娘なんかおったか?」
「いません」
「だよな・・・じゃあ誰の話してたんや?」
「・・・扇組長の息子さんの知りあいです」
月桂はなるべく抽象的な言い方をした。そのせいで、海部は勝手に解釈をはじめた。
組長である刀我の息子と言われ真っ先に「昴」を思い浮かべた。月桂と親交も深いので、昴の知り合いであれば月桂も見知っていても何の不思議もない。さらに、昴はいい歳で、桔梗はわたしの娘と言っていた、つまり・・・
「ちゅうことは、息子の女、ないし嫁ってことか。それは、手ぇ出されたら怒るわな。でも、あの人の勘違いなんやろ?」
月桂は返答に困った。桔梗は本当にただの他人を娘と言い張り、騒いでると言っても真実味が無かった。隼が美玖と今後恋人同士にならないという保証もなかったし、勘違いされるような行動をとったのも自分の失態だった。どれも反論や説明する気になれず黙っていた。
「おい、何で黙ってるんや・・・姐さんの前で啖呵切った手前、やっぱり手ぇ出してました、すんまへんじゃ済まんぞ!!」
「・・・違います」
「何が違うんや。説明せえ」
「・・・お嬢さんは、あの女とは無関係です」
「またそれか。その娘さんとのこと探られたないちゅう訳や? お前・・・惚れとんのか?」
「・・・まさか」
月桂は呟いて、屋敷での美玖のことを思い出した。自分に向けられた笑顔、小さくて白い手の感触、甘える仕草、それが心地よかったのは確かだった。だが、惚れてるのかと言われたら違うと心の中で否定する。そんなハズはない、子ども相手にどうかしてると自分を諌める。
額に手をあて、堅く目を閉じる月桂を見て海部はため息をつく。昴の持ち込んだ面倒事だと思いこんだ海部は、またいいようにかき乱された感覚に苛立ちを覚えた。
行きよりもピリピリとした車内の雰囲気に、部下達は一言も声をかけられず死んだように青ざめたままだった。
会合が終わり一息つこうと書斎に向かう途中、刀我は廊下に座り込みじっと襖に目をやる美玖と会った。美玖とは廊下でよく会う。いつも珍しそうに欄間や障子、柱を見て嬉しそうに眺めていた。
刀我には、若い子がこんなものに興味を示すのが不思議だった。しかも、実に嬉しそうに眺めている。
隼が客人を連れてくるのは、従兄弟の柳以外覚えが無かった。だからこそ、刀我も珍しいと思った。
「襖がそんなに珍しいかい?」
「あ・・・いえ、襖の引手を見てました。これ、七宝焼きですよね?」
目の前の襖には、美しい桜の模様が入った取っ手がついていた。ああ、これかと刀我は思った。特に気にしたことは無かったが、確かにキレイな焼き物のような色だった。近くにいるだろうと、使用人頭の三春を呼ぶとすぐに駆け付けた。
「三春、これは七宝か?」
「ええ、確かに。古い七宝の引手です。これが、何か?」
「あの・・・痛みがあるので直しに出した方がいいかもしれません」
「直し・・・ですか?」
言われてみれば、確かに黒ずんだ汚れのような跡があった。意外な指摘に三春は少し驚いた。
「あっ・・・えと、七宝は痛むと修理が大変なので、早めの修理が大切だと聞いたので・・・あの・・・ごめんなさい、余計なこと言って・・・」
「いえ、気がつきませんでした。そう言われれば長らく引き手の修理はしてませんでした。お嬢様はよく勉強されてますね」
「いえ・・・好きなだけなんです。このお屋敷、すっごく素敵なので・・・一生の思い出になりました」
「それはそれは。そう言って頂ければ屋敷を愛した大旦那様もきっと喜ばれます」
先程までの会合で神経も身体も疲れていたが、なぜか心休まるような気分にさせてくれる美玖にニコリと優しい笑みを三春は浮かべた。
襖の前で、腰を屈めて引手を見つめる刀我を見て、美玖はくすりとほほ笑む。
「おじさま、お髭にクリームみたいのが付いてますよ」
そう言って、美玖はハンカチで刀我の髭についたクリームを拭った。人見知りのくせに、美玖はたまに驚くような行動をとる。
「そうか、さっき食べたシュークリームか。これは、恥ずかしいところを見られたな。フフフ」
驚きながらもどこか嬉しそうな刀我を、珍しいものを見たと静かに立ち去りながら三春は思った。
刀我は、鳳組の組長で大親分だ。その恐れられている刀我が、14歳の少女にクリームを拭われてニコニコしている姿など、他の者にはとても見せられないなと同時に三春は思った。
「おじさまは甘党なんですね」
嬉しそうにほほ笑む美玖に、思わず刀我もほほ笑む。おじさまと呼ばれて悪い気はしなかった。悪意も企ても、利害でもなく、金のためでもない純粋で優しい対応に刀我もまた癒された。桔梗が娘にほしいと騒いだ時はどうかしてると思ったが、美玖自身が望むなら断る理由は何もないな、とふと思った。
あっという間に屋敷での滞在は過ぎ、美玖たちは東京に戻る日になった。三春をはじめ屋敷の使用人たちがわざわざ送り迎えに来てくれたので、美玖は丁寧にお礼を言った。この屋敷に似つかわしくない可憐な少女の滞在を惜しむように、使用人たちは照れ笑いをした。
「お前ら、何へらへらしてますの、気持ち悪い。美玖ちゃん、本当に帰るの? もう少しゆっくりしていっても良いのよ?」
桔梗は、一緒に帰る実の息子の隼には目もくれず、美玖の手をぎゅうと握って悲しそうに見つめる。
「桔梗さん、良くして頂いてありがとうございました。浴衣も頂いてしまって・・・何かお礼ができたら良かったんですけど」
「いいのよ、一緒に過ごせただけで、わたくしとっても幸せ。また遊びに来てちょうだい?」
「お正月に帰るから美玖ちゃんが暇だったら、その時一緒に連れて来るよ」
隼の一言に、うなだれたように桔梗は肩を落とす。
「お正月・・・気が遠くなるわね・・・もちろん美玖ちゃん一人で来てもいいのよ。いつだっていいのよ。嫌なことがあったら、すぐに連絡するのよ。困ったことがあったら一人で悩んじゃだめよ。わたくし、何があっても美玖ちゃんの味方よ。必ず会いに来てね。約束よ?」
「えと・・・ありがとうございます。また遊びに来ますね」
美玖はニコリと極上の微笑みで桔梗を見返す。桔梗は幸せな気分に浸りつつ、渋々手を離し送りだす。美玖が車に乗り込んだのを確認すると、桔梗は隼の肩に手をかけ、真面目な顔で小さく呟いた。
「いいこと? 美玖ちゃんを他の男に取られたら、隼ちゃんといえど許しませんからね」
「・・・覚えておくよ」
冗談ではなく、ギラリと目の据わった母親の姿に隼はやれやれと生返事をした。
こうしてそれぞれの思惑の中、美玖と隼は屋敷を後にした。