28話 杯中の蛇影
杯中の蛇影
何でもないことでも、疑いはじめると、神経を悩まし苦しむことのたとえ。
【28話 杯中の蛇影】
数日後、刀我が代表を務める鳳組の会合で屋敷には最高幹部が一同に集まった。そこにはもちろん、最高幹部である会長の付き添いで月桂も来ていた。
屋敷の内外は、付き人も含めると相当の数になるため活気と喧噪に満ちていた。
月桂はこの数日、自分の所属する吾妻会に帰り挨拶周りや組の近況報告を受けていた。月桂の立場は、吾妻会の実質ナンバー2である若頭。吾妻会のトップ・会長である海部と、月桂らは緊張した面持ちで鳳組総本部へと向かっていた。
鳳組の二次団体である吾妻会は、月桂の父親が立ち上げたものだった。先代は有名な武闘派で若くして地区長に上り詰め、現鳳組組長である扇刀我の右腕と言われていた。抗争で命を落としはしたが、海部が跡を継ぎ、紆余曲折を経て月桂も海部から盃を受け加入している。
先代と刀我の関係は非常に深く、刀我自身も月桂が吾妻会に入る際、後見人になると宣言している。そのため月桂は異例ともいえる出世をし今の地位にいる。
月桂自信は、極道らしい極道で、組の信頼も厚かったしそれなりの実績を残してきた。
海部は、今年の5月に刀我から月桂の貸し出しを受けた。海部としては、上の命令であるため逆らう事はできなかったがどこか釈然としない思いがあった。刀我が月桂を特別扱いしているのは知っていたし、息子の昴に至っては自分の部下に欲しいと公言していた。
東京で、秘密裏に動く仕事のため詳細はまったく知らされなかった。だが、その裏に昴が絡んでいるのは明白だった。昴が東京でいくつか会社を買収したり、外国人を使って何やらしているという噂を聞くと、底の知れない昴に薄気味悪さを感じるとともに放っておいたら本当に月桂を奪われるような気がした。
海部には海部の事情があり、月桂を跡目にしようと考えていたのでそれは我慢ならないことだった。大体、刀我の実子といえど盃を受けたわけでもないよそ者の昴に自分のところの若頭を「貸し出す」義理はないのだ。自分はあくまでも、刀我の命令で月桂を貸し出している。その苛立ちをぶつける相手がいなくて、海部は機嫌が悪かった。
これから、鳳組総本部へ行く。組長である刀我はもちろん、昴に合うかもしれないと思うと気が重かった。昴が自分に対し深い恨みを持っているのを知っているからだ。若造が、と思う一方その若造に苛立たせられる自分にも腹が立つ。
ピリピリとした車内で、他の部下は生きた心地がしなかった。
屋敷の大広間には幹部達が詰めかけ騒がしかったが、離れの客室では関係なく静かな時間が流れていた。
「今日は、皆さんお忙しそうですね」
「うん、父さんの会社の集まりがあるからね。母さんも婦人会で出てるし。僕たちは逆に静かに過ごせそうだね」
美玖と隼はにこりと笑う。
美玖は、昴にもらった水墨画セットに心踊らせすぐに使いたくてうずうずしていた。早速、水墨画用箋を下敷きの上に置き文鎮を乗せる。硯に墨、筆を並べるとそれだけで美玖は嬉しかった。
「しっかりとした道具で絵を描くの久しぶりなんです。道具とか、全部前の家に置いてきちゃって。でも、やっぱり楽しいです」
「そう、良かった。兄さんもたまにはいいことするね。これでこの前の虫のプレゼントは許してあげてくれる?」
「虫・・・あ、えと、はい。大丈夫です。今とってもやる気なので」
隼の言葉に、以前昴が美玖に「プレゼント」と称した置き土産の黒い虫の気持ち悪さを一瞬思い出したが、目の前の光景を見るとそんなことどうでもよい気分になった。
美玖は、筆をとるとゆっくりと描き始めた。水墨画の本も昴に借りたので手本に困る事はなかった。
隼も腕が鈍るからと、三味線の練習を隣で始めた。「邪魔だったら言ってね」と言われたが、とても力強く心地よい演奏だったので美玖はますます隼のことを尊敬してしまった。
一時間程、それぞれ自分の趣味に熱中していたが、隼はふと美玖を見た。真面目な顔で姿勢正しく机に向かっていた。
同じ部屋にいながら、特に意識することなく静かに時間が流れて行く。でも確実に共有している空気。とても穏やかな雰囲気にこういうのも悪くないな、と隼は微笑んだ。そして、こういう時間を美玖に与えてあげようと思ったのが連れてきた理由だったと思いだし苦笑する。自分がすっかり癒されてるじゃないか。
美玖の描く絵は、鳥・うさぎ・花・山など優しいタッチが墨の濃淡で描かれていた。もちろんプロの君孝に比べれば技術や表現力は及ばなかったが、それでも好きだというだけあり見事なものだった。
「上手だね・・・やっぱり君孝さんみたいに、絵の仕事に進みたいの?」
「ありがとです。でも、ただの趣味です、まだ・・・そんな先のことは考えられなくて」
「そう、そうだよね」
「隼くんもとっても上手でした。何だか隼くんって何でも出来るんですね」
「何でもは出来ないよ。柳だってピアノやヴァイオリン弾けるよ。想像つかないでしょ?」
「そうなんですか・・・ちょっと意外です」
そう言って二人で笑う。あまりにもほのぼのと平和な時間に、この屋敷でも人によってはこんな穏やかな生活ができるんだ、と隼はおかしく思った。
美玖がいるだけで、桔梗もいつもの刺々しい雰囲気はなく、刀我ですら張りつめた空気を出さない。昴と隼はいつもと同じ振る舞いをしている風だったが、やはり少女の前だと物騒な話は一切しなかった。
それなのに、どうして美玖自身は前の家にいられなくなったのだろうと不思議に思った。詳しいことは聞いていないので推測の域を出ないが学校や家庭で何かあったのは明白だった。
こんなにも、美玖自身は純粋で優しい。それでけで生きていける程、世間は優しい存在じゃなかった。だからだろうか、世間が彼女を拒絶して排除しようとした。でも、それだけの理由で、とは考えにくかった。
自分は違う、美玖のことを理解してやれる、とどこか傲慢な思いがあったのかもしれないと隼は思う。だから、こうして実家にまで連れてきて喜ばせようとしている。とんだ自己満足だと分かっている。それの何が悪いんだ、と自分の中の誰かが問う。
「この絵は、やなぎだね」
「そうです。えと・・・柳くんの、柳です。少し会ってないだけで、どうしてるかなって考えちゃいますね」
「そうだね。柳も美玖ちゃんがどうしてるか心配してると思うな」
「・・・柳くん、優しいから・・・」
美玖は手元の絵に視線を移すと、少し寂しそうな表情になった。
優しいのは、相手が美玖だからだと、隼は教えてあげたかったがやめた。柳が自分で言わないことには信じないだろうと思ったからだ。だが隼には、どうしても確かめたいことがあった。
「美玖ちゃん。ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
「・・・はい」
「対人恐怖症、なんだよね」
美玖はピクリと手を止めると、顔を俯けた。
「話したく無かったら無理に聞かない。でも、話してほしいんだ」
「・・・よく、分からないんです。うつ病や統合失調症だっていう先生もいて・・・被害妄想があるから。でも、多分対人恐怖症なんだと思います」
隼には確信めいたものがあった。気になって調べてみたが、対人恐怖症の症状と美玖の行動は明らかに一致していた。
「自分はダメだ」と思いこみ何かトラブルが起こると全て自分のせいにする。人前に出ると緊張し自分が嫌われてると思う。マイナス思考なことが多く良い事が起きてもそれを素直に受け止めれず、悪い方向へ考える。
今もきっと、病気のことを知られて嫌われるんじゃないかと思っているのだろうと隼は、微かに震える美玖を見ながら思う。
「うん、ありがとう、話してくれて。僕は美玖ちゃんの力になりたいんだ」
「・・・でも・・・迷惑に・・・」
「迷惑じゃない。僕がそうしたいんだ。でも一方的に僕が思うだけじゃどうにもならないんだ。美玖ちゃんにも受け入れてほしい。わがままかな?」
「えと・・・いえ・・・」
突然の隼の申し出に、どう答えて良いか分からず美玖はあたふたと視線を泳がす。チラと隼を見ると真っ直ぐに自分を見つめていたので、直視できずにすぐに視線をそらしてしまった。
「私・・・受け入れてませんか?」
「僕は欲張りだから、もっと受け入れてほしいね。それから、自分にもっと自信を持って欲しい」
「自信・・・ですか?」
「対人恐怖症の症例の中に、相手の心理を勝手に推測して事実とは全く異なる結論を出すってあって。例えば美玖ちゃんも勝手に僕から嫌われてるかもって思って・・・それですれ違うと悲しいんだ」
ハッとした顔で美玖は顔を上げる。それは常日頃考えて恐れていたことだった。
「確かに・・・そうかもしれません。一人の時とかに・・・考えるんです。またあんな風に全て変わってしまうんじゃないかって・・・」
「またって?」
「あ・・・えと・・・前住んでいたところで・・・いろいろあって。すごく辛かったんです。誰も助けられなくて、誰も救えなかった・・・すごく無力なんです。ただ悲しくて・・・もうあんな思いはしたくないって。でも、相変わらず私何も出来ない気がして・・・だから自信がないのかも・・・」
「よく分からないけど、責任を感じてる?」
「責任・・・というより、後悔してます。だから、もっと強くなりたいんです。周りに迷惑はかけたくないんです・・・」
美玖が無理して弱々しく笑ってみせた。隼は小さくため息をつき美玖の横に座るとニコリと微笑む。
「それは無理だね」
「・・・え・・・えと」
「強くありたいと思うのはいいけど、周りに迷惑をかけない人なんていないよ。生きてる限り誰かに迷惑なんてかかる。誰かに好かれたら、誰かに嫌われる、疎ましく思われる、妬まれる、それが普通でしょ。だいたい美玖ちゃんは、気弱なのかと思ったらすごく頑固だったりする。自分の中の理想が高すぎるんじゃないかな」
「・・・そうなんでしょうか?」
「きっとね。・・・ごめん、こんな偉そうなこと言いたい訳じゃないんだけど・・・つまり端的に言うと、もっと頼ってほしいんだよ。僕達のこと」
「僕・・・たち?」
「僕と、柳のこと。きっとルイねえも一緒だよ。特に柳なんて、ああいう我の強い性格だから美玖ちゃんがこういう風に考えてるの知らないと思うんだ。だから、どうしても二人きりの時に伝えておこうと思って」
美玖は黙って手元を眺めていた。隼と目を合わすのがなぜか恐かった。
「違うな、本当は・・・悔しかったんだ」
「・・・え?」
隼は庭に目を向けながら、少し照れたように笑う。
風になびき風鈴の音がチリリンと鳴る。それを眺めていた。
「一緒に暮らしてて、何か力になりたいって思うのに、相手はちっとも頼ってくれない。そのくせ、途中で現れた堅苦しい怖い顔のお手伝いさんにはやたらなつく」
「そ・・・そうでしょうか・・・」
「そうだよ。普通逆だと思うんだけどなぁ。あんな無愛想な男より、年も近くて思いやりのある好意的な青年の方が仲良くなれると思うんだけど・・・自信があっただけにショックだったんだよ」
おどけた感じだが、好青年を絵に描いたような隼が言うと少しも嫌味に見えなかった。美玖は少し緊張がほどけ、くすりと笑う。
「まぁ、僕より柳の方がよっぽど、もどかしいだろうけどね」
「柳くんが?」
「僕たちはいわゆる幼馴染だからね、お互いよく知ってるけど・・・あんな風に他人に世話を焼く柳って珍しいんだよ?」
「そう・・・なんですか?」
「いや、男友達とかにはそうでもないけど、女の子にはありえないね。柳って女嫌いなんだよ、本当は。それでも、美玖ちゃんに対しては常に気にして構おうとしてる。言葉も態度も悪いけど、柳なりに一生懸命なんだ。でも、当の美玖ちゃんはちっとも応えてくれない」
「え・・・ええ!?」
驚いて目を丸くする美玖に、たたみかけるように隼は言う。
「いきなり受け入れろっていうのは難しいと思うけど、そういう風に僕らが思っているのを知っててほしい」
美玖は手を握り締めながら、小さく頷く。隼は、ついでに一つの疑問を口にした。
「どうして月桂は特別なの?」
「特別・・・」
「自覚ない? 月桂のことは割と受け入れてるよね」
「・・・えと・・・そうかもしれないです。月桂さんって笑うとすっごく可愛いんですよ、ぎゅうって抱きしめたくなるんです。だからでしょうか?」
「アハハハ、何それっ・・・」
隼は意外すぎる答えに、思わず吹き出してしまった。同時に、庭で誰かの足音と声を殺したような囁きが聞こえた。不審に思った隼が庭を覗くと、人影が見えた。大きくため息をつき話しかける。
「何やってるの、兄さん、月桂」
「ほら見ろ、イイ所だったのにお前が逃げようとするから見つかっただろ!」
「誰が逃げようとしたんですか、もう時間なんですよ」
「嘘つくな、恥ずかしいだけだろ。どうせバレたんだ、会ってこいよ」
「結構です、失礼します」
隼の問いに答えようとせず、昴と月桂は言い争いを始めた。隼はまるで子どもみたいだなと、うんざり眺めた。
「それで、どうして兄さんは月桂連れてきたの?」
「月桂が美玖ちゃんにどうしても会いたいっていうから」
「どこからそんな嘘が出てくるんですか、昴さんがちょっと付き合えと・・・」
「月桂さん?」
美玖が嬉しそうな顔で、ぴょこと顔を覗かせたので月桂は思わず言葉に詰まる。仕方なく軽く挨拶をし縁側に腰を下ろす。昴も縁側に上がり、美玖と隼の頭をぽんぽんと撫でるように軽く叩いた。
「それにしても、月桂ほど可愛いって単語が似合わない男いないよなー、いや本当に美玖ちゃんって面白いね」
「あ・・・聞いてたんですか? えと・・・別にバカにしたとかそういう意味じゃなくて・・・可愛いっていうか、和むっていうか・・・そういうのって、すごく幸せな気分になるんです」
「ハハハハッ・・・すごいなーそんなキラースマイル俺も見たいなー。月桂俺にもー。そうしたらぎゅうって抱きしめてやるよ」
爆笑する昴を、凍りつくような視線で月桂は一瞥する。早くこの場を立ち去りたいと心から思った。
美玖は険しい顔をする月桂の横に行き、並ぶように座った。
「あの・・・怒りました?」
「怒ってません」
「よかった」
そう言ってニコリとほほ笑む美玖の笑顔に、月桂は先程の言葉を思い出す。
可愛くて抱きしめたくなるのは、貴女の方でしょうと心の中で思う。特に今日は会合でピリピリした状態が続いていたので、美玖の顔を見ると癒される気分になる。疲れがたまっていたのか、ほとんど無意識に右手で美玖の髪を撫でていた。さらりとした美しい黒髪が手に触れ、たったそれだけで満たされる気分になった。
美玖は少し照れたように目線を下げるが、頭をこつんと月桂の肩に寄せて方手を太もものあたりに置いた。
久しぶりに会ったからか、いつもより甘えるような仕草をする美玖が愛おしくて、月桂はそのまま抱き寄せるように髪を撫でた。確かに自分に心を許している、という心地よさに心酔していった。
まるで自分たちのことなど居ないかのような、月桂の振る舞いにさすがの昴も珍しいものを見たと関心した。苦笑いする隼に向かって小声で聞いてみた。
「いつも、あんな感じなの?」
「まさか、初めて見たよ・・・」
「まるで牙を抜かれた狼だな。あれ計算でやってたら魔性の女になれるな」
「そうだね、天然なのを祈るよ」
「何をしているの」
突然、廊下から聞き覚えのある声が聞こえる。
月桂は我に返り、声のした方を振り返ると桔梗の姿が見えた。美玖から手を離し、立ち上がると一礼する。
「母さん・・・婦人会のはずじゃ・・・」
マズイところを見られたと、慌てて隼は桔梗に話しかける。お気に入りの美玖と、桔梗が毛嫌いしている月桂の仲睦まじいシーンなど桔梗には耐えられないだろうと思った。しかし、意外にも桔梗は冷静に淡々と受け答えた。
「ええ、ちょっと寄っただけ。美玖ちゃんにお土産、お花の形のショコラ、可愛いでしょう」
「ありがとうございます」
桔梗は素直に喜ぶ美玖に笑顔で手土産を渡すと、チラリと月桂に視線を送る。
「何をしているの、お前。会合はもう終わるわよ。出迎えはしなくてよろしいの?」
「いえ、失礼させて頂きます」
それだけ言うと、月桂は頭を下げ足早に去って行った。あっけなく去ってしまう月桂に美玖は名残惜しそうに目線で追った。
桔梗も、チラと昴と隼を見ると「わたくしも失礼するわ」と静かに無表情で伝える。ひと悶着あるかと心配した隼は、あまりにもあっさりと桔梗が引き下がるので逆に気味の悪さを感じた。
耐えきれず隼は、美玖に聞こえないよう小声で昴に訴える。
「兄さん・・・今の、大丈夫だよね?」
「ダメだろ、今頃桔梗さん腸わたが煮えくり返ってるんじゃないかな」
「・・・・・・やっぱり?」
「桔梗さん月桂のこと嫌いだからね。嫉妬に狂った女は何しでかすか分かったものじゃない」
「兄さんが、うかつに月桂を連れてくるから・・・」
気が重い、と隼はため息をつくが、昴は「きっと月桂は星占い最下位だな」と冗談を言ってのん気に笑っていた。