26話 足下から鳥が立つ
足下から鳥が立つ
意外な事が突然身近なところで起こるたとえ。また、急に思いついて慌ただしく行動を起こすたとえ。
「行方不明だった俺の友人たちが、やっと見つかったのさ。橋にぶら下げられ、目隠しをされ、生きたまま何発も銃弾をぶち込まれて、殺された死体でな。何も珍しくねぇのさ・・・」
酒を飲みながら、昴は静かに言う。すでにかなりの酒の量になる。
「麻薬ビジネスには、死と破壊と莫大な金が付き纏う。どこでも・・・だ」
どこまでも深い闇のような恐怖。死と隣り合わせの日常。
「それでも、昴さんには関係のない話です。あなたは、ただの『ビジネスマン』だ。そうですよね?」
高笑いする昴の横顔は照明のせいか青白く見えた。
自分を家族として、友人として迎え、月桂と生意気に呼び捨てにする10歳の少年ではもうないのだ。
彼はもう28歳だ。アメリカでの事業も成功し、若きリーダーと称賛された存在。
立ち止まる事、振り返る事、弱音を吐く事、そんなことは許されなかった。強固なリーダーの役割を演じなければ、一寸先は闇だと知っていたからだ。
そして大切な人を守り抜くために手に入れた「力」と「富」は彼自身を縛りつけているのではないだろうか。
昴・・・
まだ、俺の声は届くだろうか・・・
【26話 足下から鳥が立つ】
突然の水しぶきに意識が覚醒する。反射的に水を飲み込み咳き込む。
何が起きたのかと、飛び起きると頭にガツンと衝撃がある。重たい瞼を開けると・・・木の桶だった。
「は・・・何だ・・・?」
猛烈なめまいと頭痛で、上手く思考できない。ゆっくり視線を横に向けると、木桶を手に持ったまま涙を浮かべている美玖がいた。どういう状況なのか、まったく理解できない。
「よ・・・良かった・・・」
良かった? ずぶ濡れになって、木桶とぶつかり、全身に倦怠感があるこの状況が?
「死んじゃうかと思って・・・恐かった・・・大丈夫ですか?」
依然状況が分からず目を細める月桂に、それでも意識が戻って良かったと美玖は安堵し涙を流す。
不明瞭な意識のなか、美玖が自分の身を案じてくれていたことだけは分かった。
強い睡魔で、ぐらりと倒れそうになる月桂を慌てて美玖は支えると、水の滴がぽたぽたと零れる。
「だ、だめです・・・こんなずぶ濡れで寝たら・・・風邪ひきますっ!!」
誰がずぶ濡れにしたんだ、と思いながらも美玖が必死に訴えるので重い足取りで向かう。
歩くたびに頭がずきずきと痛み、体中が悲鳴をあげていた。
よたよたと苦しそうに歩く月桂に、寄り添いながら美玖と一緒に一階のバスルームまで辿り着く。
濡れた衣服は、ただでさえ辛い身体に不快感を与えていた。ジャケットとネクタイを乱暴に脱ぐが、シャツのボタンを外そうとして初めて右手が血だらけなのに気がついた。しかも、すごい震えでまともにボタンを外すことが出来なかった。
さすがに退出しようと考えた美玖だったが、ボタン外しに苦戦する月桂を見かねて自然と手が出る。自分も手のケガで着替えには苦労したので人事とは思えなかった。
「あの・・・私、外すのお手伝いします」
苦しそうに眉をひそめ目を閉じる月桂のボタンを一つずつ外す。いつもと違う月桂の様子に緊張しながら、昨夜自分も柳に服を脱ぐのを手伝ってもらったのだと思いだす。
ふと、キスされたことも思い出し急に恥ずかしさが込み上げてきた。
「えと、ボタン外れました。あとは・・・大丈夫ですよね?」
これ以上はさすがに手伝えないと思い、美玖はゆっくりと立ち上がる。
月桂はシャツを脱ぐと、上半身が露わになり、色鮮やかな和彫りの入墨が肩から腕にかけて見えた。さらに背中にも一面に見事な入墨があり、目が釘付けになってしまった。
月桂はまったく気にする様子もなくベルトに手をかけると、慌てて美玖は扉の外に出る。そのまま廊下に座り込むと、まじまじと男性の裸に魅入ってしまった自分がたまらなく恥ずかしくて両手で顔を隠した。
熱いシャワーを浴び、月桂はようやく考える余裕がでてきた。
昨晩、昴と飲みに行った。
そこで、賭けをした。
――― テキーラーポッパーでもやるか!
そう言われて、バカな飲み方をした。
にしても、おかしい。たかが酒で、こんなにも酷いめまいや眠気は経験したことがない。
何か、薬・・・・でも、盛られたとしか考えられなかった。
誰が、いつ・・・
右手におびただしい血痕がついていたが、洗い流すとかすり傷程度しか無かったので誰かの返り血なんだろうと分かった。
確か、昴さんと騒ぎになった相手を・・・
断片的な記憶だったが、思い出そうとするとひどい頭痛がした。
いつ家に帰ってきたんだろう、だめだ・・・眠たい。
「うわぁぁぁぁ~寝過した~~~っていうか、なんか階段とか廊下とかすごい濡れてるっっ」
ルイがバタバタと慌てて二階から駆け降りてきた。
「あっ・・・その、ごめんなさいっ。あっ・・・ルイねえ、ちょっと待ってください」
慌てて洗面台に駆け寄ろうとするので、美玖はルイを呼びとめる。今は、月桂が使用しているので何かマズイような気がした。
「えっと・・・今・・・月桂さんがお風呂使ってて・・・」
「大丈夫。あたし急いでるし、全然気にしないし、洗面台使うだけだから」
ルイは二日酔いの上、寝過してしまったので月桂を待っている余裕など無かった。「ごめんね」と言って洗面台に入ると床に乱雑に衣服が落ちていた。白いシャツに血の跡がみえたが、「吾妻さんのだし」と妙に納得し特に気にもせず顔を洗う。
美玖が申し訳なさそうに、月桂の衣服を片付けると、ゴトリと何かが落ちる。
見たことあるな、と思ったら以前昴が持っていた銃だった。
もちろん、モデルガンだとルイは信じこもうとしている。多少顔は引きつったが、気付いてないフリをしてその場をそ~っと後にする。
「ごめん、急いでるからあたしもう行くねー」
バタバタと玄関に去って行くルイを見送り、リビングで少し息をつく。
しばらくすると、月桂が上半身裸のままバスタオル姿で出てきた。キッチンで水を飲むとそのまま、重い足取りで二階に上がっていった。がんがんと頭の中で鐘を打ち鳴らされてる感覚に、嫌気が差し、一刻も早くベッドに戻りたかった。あまりの頭痛とだるさに美玖のことをすっかり忘れていた。
美玖は、月桂の衣服と銃をバスケットに入れると、月桂の部屋の前でノックする。返事がないので、仕方なく中に入り荷物を置く。
月桂はうつ伏せになってベッドに横になっているので、さっきよりずっと背中の入墨がよく見えた。
見事な、本当に美しい黒墨一色の孔雀のような鳥の和彫りだった。まるで芸術作品のようだ、と思いながら美玖はそっと手で触れてみる。思ったより違和感なく、他の皮膚と変わらない触り心地だったので、不思議な感覚だった。
「キレイ・・・何の絵だろう・・・」
「・・・鳳凰」
独り言のつもりだったので、月桂から返事が返ってきて思わず手を離す。
正直、もう寝ていると思っていたので顔を覗き込むと瞼は閉じたままだった。眠りが浅いのかな、と美玖は思った。
「あの・・・昴さんの銃って・・・」
「・・・トーラスレイジングブル」
「え・・・と、そういう名前なんですか? 忘れ物だったら隼くんに連絡しておいた方がいいかと思って・・・」
「・・・俺が預かっている」
「そうですか。えと、余計なこと言ってすみません」
起きてから、ほとんど会話になっていなかったのでちょっとは調子が良くなったのかなと美玖は安心する。
それに、いつもの「気を使っている」会話と少し違うものに思えて嬉しかった。
「月桂さん・・・もう少し一緒にいてもいいですか?」
思い切って聞いてみると、月桂は身体を横向きにしてベッドのスペースを空けてくれた・・・ように見えた。
「あっ・・・あの、眠たいとか・・・一緒に寝たいとか、そういう意味じゃ・・・」
「来いよ」
月桂の低い声に、思わずゆっくりと月桂の横に寝そべる。いいのかな・・・と思いながらも、肩から腕にかけての色鮮やかな花の入墨にまたも魅入ってしまった。そっと手でなぞるように触れる。
腕は、カラーなんだ。原料はなんだろうと疑問に思う。
叔父の君孝が画家のため、美玖も小さい頃から絵画や彫刻などは好きだった。そのため、恐いという思いより純粋に作品としての美しさに魅了されてしまった。
美玖はこんなに大きな入墨は初めて見て、しかもこんな身近にじっくり見れて興奮していた。
そして、こんな風に見れるチャンスは今しかないかも、と思った。普段は徹底して見せないようにしているのだと、美玖は初めて理解した。常に長袖服を着用し、着替えももちろん、風呂なども深夜か早朝しか使わない。
何かの偶然で知って、見せて欲しいと言っても、きっと月桂は眉をひそめて拒絶しただろなと思う。
黙って入墨を眺めていると、とても幸せだった。
そのまま美玖もまぶたを閉じ、夢うつつになる。
遠くで誰かの呼ぶ声が聞こえる。
「・・・月桂、起きてよ」
急速に脳が覚醒する。
重たい瞼を開けると隼が困惑した顔で見ていた。
「若・・・何時ですか?」
「4時半だよ」
「よ・・・4時半!? お嬢さんの迎えが・・・」
「・・・横で寝てるけど?」
「・・・・・・は?」
起き上がり、視線を横に移すと美玖が気持ちよさそうに寝ていた。一気に思考が凍りつく。
さらに、自分がバスタオル一枚で上半身裸のまま寝ていた事実に気が付く。
どういう状況だ!? と完全に混乱した頭で、とにかく服を着ようとベッドから降りる。
「あのさ・・・どういう事かな、これ?」
隼はベッドの前で佇み、額に手をあて何とか落ち着こうとしていた。
月桂はひどい頭痛と、混乱した頭で必死に思い出そうとするが、説明にたる記憶が欠落していた。
「美玖ちゃん、おはよう」
「あ・・・隼くん・・・おはようです」
隼が美玖を起こすと、まだ眠たそうにぼんやりとしていた。
「えっと、何でここで寝てたの?」
「・・・えと、月桂さんが誘ってくれたので」
「へえ・・・?」
隼は何とか苦笑いで返事をしたが、内心の衝撃は凄まじかった。チラと月桂を見ると、驚いた顔で美玖を眺めていた。
「まさか・・・自分が?」
「えと・・・覚えてないんですか?」
覚えてない。と言えばそうだが、あまりに無責任なことは言えなかった。
気まずい雰囲気が流れる。
隼は、足元のバスケットの中に見覚えのある銃を見つける。こんな無造作に銃を置いておくなど、通常の月桂には考えられない。訝しげに見ていると、視線に気がついた美玖が説明する。
「あの、トーラス・・・昴さんからお預かりしてるって・・・」
確かに、昴のトーラスレイジングブルだと分かった。しかし、美玖から銃の名前が出てくるとひどく違和感を感じる。
「それ、月桂が美玖ちゃんに言ったの?」
「えと・・・はい」
月桂は「まさか」と驚愕したように顔を引きつらせる。銃の存在自体も美玖には隠しておきたいのに、それをわざわざ丁寧に名前やいきさつまで教えるなど普通の状態では考えられない。
つまり自分は「異常」な状態だったのだと自覚せざるをえなかった。
「確かに昨晩、昴さんから預からせて頂きました。それは覚えてます」
「・・・いつから記憶がない? 家に帰ってきてからは?」
「・・・・・・それが・・・」
いったいいつ家に帰ってきたのかすら、月桂には思いだせなかった。
「あの、隼くんに言われて水をかけたんです。その時のことは?」
「そういえば・・・微かに記憶が・・・」
「その後、濡れてしまったのでシャワーを浴びに行きました」
ああ、それでバスタオル一枚だったのかと隼と月桂は少し安堵する。
「一応聞いておくけど、美玖ちゃんに何もしてないよね?」
どうやら、余計な事は言ったみたいだけど?と隼は心の中で付け加える。
記憶がないとはいえ、一緒のベッドで寝ていたのは事実だった。月桂は言葉に詰まる。
「あの、月桂さん何もしてません。ずっと寝てました。頭が痛そうにしてて・・・」
「さっき、月桂が誘ったって言ってたけど・・・?」
「えと・・・それは・・・」
言葉に詰まり顔を赤らめる美玖に、隼は何と言葉をかければいいか分からなかった。
軽くため息をつき、後ろで絶句している月桂を睨みつける。
覚悟を決め、月桂は正座をし手を床につくと頭を下げる。
それを冷やかな目で隼は見つめる。
「お嬢さん、不覚にもお嬢さんに対しての行動を失念してます。何か失態がありましたら言ってください」
「違いますっ! あの、やめてください・・・頭上げてください・・・私の言い方が悪かったんです。月桂さんは何も・・・むしろ、私が月桂さんに手を出したんですっ!」
月桂の態度に慌てて美玖は釈明した。
え? と隼は目を丸くし、月桂も頭を上げ怪訝そうに美玖を見る。
「あのっ・・・私がもう少しいてもいいですか? って聞いたらスペースを空けてくれたので、それで横にどうぞってことかと思って・・・ただ寝返りだったのかもしれないけど・・・本当は、そうかもって思いながら・・・つい、誘惑に負けて・・・その、生で見るのは初めてで、触ってみたかったっていうか・・・」
「ちょ・・・美玖ちゃん、何の話!?」
「ごめんなさい、勝手に寝込んでる人の体をさ・・・触るなんて最低ですよね」
「え・・・えーと・・・触ったの?」
「触りました・・・何回も」
「えーと・・・?」
「それから・・・しばらく見てました。こんなに近くで見る機会が今まで無かったので・・・あ、もちろん興味は前からあったんです!・・・やっぱり大きいのは、迫力があるっていうか存在感がすごくて・・・」
思いだして興奮する美玖は、ハッと我に返り唖然とした隼と月桂を見て顔を真っ赤にする。
先程までとはまた違う、気まずい雰囲気に部屋は包まれた。
「あ、いや・・・まぁ、逆だったら困るけど・・・意外っていうか・・・」
「ごめんなさい・・・もう入墨に見とれたりしません・・・」
「え、入墨・・・ああ、入墨ね! そうだよね、なんだ、そんなの好きなだけ見ていいよ」
何か別なことと、勘違いしていた隼は思わず赤面して後ずさる。
「と、とにかく、どんな理由があれ、同じベッドで寝たりしちゃダメだよ?」
「は、はいっ」
「・・・月桂も!」
「軽挙妄動を慎みます」
何で自分がこんな役割に、と隼はため息をつき二人を見る。
心底、柳がいなくて良かった。更にややこしいことになるし、トラウマになりかねないと思う。
その日の夜、珍しく君孝が早く帰宅した。柳とルイは逆に遅くなると連絡があったので、美玖と隼と三人で夕食をとることになった。相変わらず月桂は一緒に食卓には座らずキッチンに控えていた。
「君孝さんと食事するの久しぶりです」
「そういえばそうだね、ずっと忙しくて。今日はずいぶんご機嫌そうだね、美玖」
「はいっ。とってもステキな鳳凰を見ました!」
「鳳凰・・・? 鳳凰って・・・こういう?」
君考はカバンからスケッチブックと筆ペンを取り出すと、スラスラと美しい鳳凰の絵を描き始めた。
「前は麟、後は鹿、頸は蛇、背は亀、頷は燕、嘴は鶏、尾は魚。五色絢爛な色彩で、羽には孔雀に似て五色の紋、声は五音。中国神話の霊鳥だね?」
「そうです、そう・・・こういう感じでした!」
君考が描く白黒の鳳凰は見事に羽を広げ、美しいタッチだった。
君考が大学で美術講師として働いているのは聞いていたが、実際絵を描いているのを見るのは初めてだったので隼は思わず感嘆の声を上げた。
「すごい・・・うま・・・」
「まぁ、一応専門だからね。美玖はどこで見たんだい?」
「月桂さんの背中です」
バカ正直に嬉しそうに答える美玖に、隼はお椀を落としそうになり慌てて両手で掴む。
「そうか、吾妻さんに入墨を見せてもらったんだね?」
「見せてもらった・・・というより、勝手に見たっていうか・・・」
「美玖、それはいけないよ。きちんと「見せて下さい」「いいですよ」っていうのがマナーだよ」
「はい、ごめんなさい・・・でも、そんなこと言えないです・・・」
「そうだね、それが難しいところだ。私も見たいけど、そんな機会は滅多にないんだ」
いやいやいや、そんな会話は聞いたことないよ! と隼は内心ツッコミを入れながら、どこかずれた美玖と君考を見ていた。
「吾妻さん、美玖が失礼なことを。すみません」
「いえ・・・こちらこそ。もっと驚かれるかと思ったのですが」
「美玖がですか? 小さい頃に私が彫っているのを見てましたから、そんなに驚かないと思いますよ」
「花立さんが? もしかして、彫師の仕事を?」
「まさか。若い頃にね自分で彫ってたんです、素人の自己満足ですよ。専門の道具も無いので、ノミでひたすら突いてましたよ」
「とっても痛そうでした」
「ハハハ、そうだね。爺さんにバレてよく怒られたよ」
大学講師として働く、温厚な君考からはとても考えられないような一面に隼は驚いた。
「意外ですね、君考さんが・・・でも、理解があって僕たちには助かるのかな」
「もちろん。そうじゃなかったら、隼くんのお父さんやお兄さんは君達がここに住むのを反対しただろうね」
「そう言われれば・・・そうですね」
家主である花立君考という人間を見て、知った上で、ここに同居することを認めたのだと隼は理解した。
そして、月桂を派遣しても問題ないという自信もあったのだろう。
確かに、君考は一度も月桂に対して良くも悪くも特別扱いすることは無かった。
「それで、どうだったんだい? 吾妻さんの入墨は」
「とってもキレイでした。背中一面に鳳凰の絵があって、ダイナミックでした。腕は鮮やかで、何か花と・・・扇子、月の絵がありました」
「扇子と月? そうか・・・【扇】だね」
微笑みながら鳳凰の絵の横に、扇子と月を描く。それを見ながらうっとりとした表情の美玖が隼には不思議だった。
君考も美玖も、刺青という芸術作品を見て、ただ素直に興味を持っているようだった。
隼は小さい頃より、入墨は身近な存在だったので何だか和やかな二人の会話がおかしなものに見えた。
「変わってるね、二人とも」
「そうかい? ああ、ごめん。食事中だったね。冷めないうちに頂こう」
月桂にとって、自分の入墨は決意と覚悟の証だった。他人にどう思われようと構わなかった。しかし、美玖に対しては見せて恐がらせるようなことはしたくなかった。
だが実際、恐がるどころか異常な興味までもたれて複雑な心境だったし、話題に出してもらいたくなかった。
いきなり水をかけたり、ベッドで一緒に寝たり、あげくに入墨の話題。月桂は自分に対して大失態だと思い狼狽した一方あまりにも美玖が何事も気にせず、むしろ楽しそうにしているのを釈然としない気持ちで見ていた。
「美玖ちゃん、和風の絵画とか芸術品に興味あるの? それとも全般?」
「えと、彫刻とか書画、水墨画・・・やっぱり和風のが好きですね」
「すごいね、やっぱり君孝さんの影響?」
「そうかも。小さい頃に、君孝さんの描く絵とかすっごく好きだったんです。誕生日プレゼントに君孝さんから彫刻刀とか貰って嬉しくってしばらく彫刻ばっかしてました」
「アハハ、女の子に彫刻刀プレゼントするなんてすごいね、君孝さんも」
こんな趣味があったのか、と隼は思わずほほ笑む。
「今から思うと押しつけだったのかもね。家族には理解されてなかったから、可愛い姪には味方になってもらおうと必死だったんだろうね」
「えと・・・そんなことないです。お父さんもお母さんも君孝さんの絵好きでした。お祖父ちゃんたちも・・・きっと・・・」
「うん、いいんだよ。美玖ありがとう。でもね、親だからって、必ずしも理解してもらえる訳じゃないんだ。逆にこちらも相手を理解してやれないこともある。そうやって出来た軋轢は、なかなか解消できないんだ・・・ごめんね」
「・・・・・・いえ・・・」
君孝は家庭でいざこざがあり、今ではその軋轢を受け入れている。それは悩んだ末の結果なのだと美玖にも少し理解できた。
自分と親の対立に、美玖が板ばさみになって苦しい思いをしているのを君孝は知っていた。知っていても、両者の溝は埋められるものでは無かった。
そんな二人のお互い気を使うような態度すら、隼には微笑ましく感じられた。
「美玖ちゃん、夏休みに僕の実家に遊びに来る?」
「え・・・隼くんの?」
「祖父の趣味でね、家は純和風の日本家屋なんだ。祖父のコレクションに掛け軸とか屏風とかそういうのがあるんだけど、見に来る?」
「屏風・・・見たいです! でも、いいんですか? お祖父さんのなんでしょう?」
「いいよ。どうせ祖父と兄さんしか興味ないんだから。お盆あたりだったら兄さんも帰ってくるだろうし、喜んで案内してくれると思うよ」
いつもの控えめな美玖からは考えれない程の積極的な雰囲気に隼は気分が良くなった。
伺うように、美玖は君孝を見る。君孝は優しくほほ笑む。
「隼くんが良いというなら、行っておいで。きっと、普段はお目にかかれないものが沢山見れるよ」
「ありがとうございますっ! 隼くん、本当にいいの? 邪魔じゃないかな・・・」
「どっちにしても、お盆は帰らなくちゃいけないし。僕も柳も月桂も。美玖ちゃん次第だけど?」
「若」
いつもは傍観し、問われなければ口を開かない月桂が珍しく口を挟んだ。
鋭い目つきで隼を見ている。隼には月桂が何を憂慮しているのかは直ぐに分かった。美玖を自分達の裏の世界の一端であっても、これ以上は見せたくないのだ。分かった上で、隼は美玖を誘った。
「日を改めて、別荘にしてください」
「やだよ。別荘って、ログか洋館じゃん。美玖ちゃんの好きそうな実家に連れて行ってあげたいんだよ」
「しかし、人の出入りが多いのでお嬢さんには不向きでは」
「・・・じゃあ、吾妻邸に月桂が連れて行ってあげる?」
ニコリと意地の悪い笑顔を月桂に向ける。
吾妻邸は、もともと月桂の父親の邸で、現在月桂の所属している組の本事務所である。出入りするのはもちろん月桂の顔見知りの組関係のものばかりだ。そんな所に美玖を連れて行ける訳もなく月桂は口を噤む。
そんな二人のやり取りに、おろおろしながら美玖が口を挟む。
「あの・・・やっぱり迷惑でしたら・・・」
「迷惑じゃないよ。月桂が心配性なだけ。だいたい、君孝さんがいいって言ってるじゃないか。おいでよ。美玖ちゃんがいた方が僕は楽しいな」
ニコリと今度は優しい笑顔を美玖に向ける。美玖もつられてほほ笑みながら頷く。
夏の予定が一つ増えたことを、美玖は嬉しく思った。