25話 思い内あれば色外に現る
思い内あれば色外に現る
何か心に思っていることがあると、自然に表情や動作に現れること
【25話 思い内あれば色外に現る】
今日一日を振り返る。
何だか、怒涛の連続で疲れたな、という印象しかない長い一日だった。
それなりに楽しむルイ達を横目に柳は少し疎外感を感じていた。昴と月桂は隼のファミリーだ。月桂は直接の血の繋がりは無いが紛う事無き「ファミリー」の一員だった。ただ血が繋がっているだけで、憎み合う自分の「家族」とは違うなと柳は自嘲するような薄笑いを浮かべた。
帰宅すると、酔いが回ったのかルイはすぐに部屋に戻りそのまま寝てしまった。先にシャワーを浴びた隼も疲れたから寝ると言って部屋に戻った。柳がシャワーを浴び部屋に戻ろうとすると美玖が申し訳なさそうに声をかけてきた。
「あの・・・柳くん、ちょっといいかな?」
「何だ?」
暑いので柳は部屋に入りエアコンを付ける。家主の君孝はエアコンを使わない人なので基本的にリビングなどにエアコンはない。個室に取付るのは自由だったので遠慮なく柳はエアコンを新調し取りつけた。
困ったように立っている美玖に向かって、冷気が逃げるからと入るように促す。
「えと・・・お邪魔します」
「それで?」
「あの・・・洋服のお片づけとかしてたら遅くなっちゃって・・・」
何の話だ?と思いながら美玖を見る。まだ人形のようなふわふわした服を着ている。そういえば、今日はずっとまともに美玖と話していなかったし、目も合わせていなかった事に気づく。
こういったフリルやリボンの服を可愛いと思ったことは無かったが美玖には似合うな、と素直に思えた。誰もいない、二人きりだったので気が楽だった。
「それで・・・もうルイねえが寝ちゃって・・・あの、ルイねえにお願いしようと思ったんだけど・・・」
「・・・全然話が見えてこないんだけど?」
「・・・あのっ・・・この服・・・一見、前ボタンっぽく見えるけど、後ろのファスナーで着るの・・・」
「あー・・・もしかして、自分で開けられないのか?」
「はい・・・えと・・・手伝ってもらえますか?」
「別にいいけど」
了承すると美玖はホッとした顔をした。後ろを向き髪を持ち上げると、うなじと首筋が露出する。
柳は別になんとも思っていなかったが、いざファスナーに手をかけようとするとふわり甘い香りがして困惑する。夏という季節もあり、このドレスのようなワンピースの下は何を着ているのだろうか、など余計なことを考えてしまう。
美玖が、髪を持ち上げたままチラと後ろを振り返ると細くて白い首筋に、赤い内出血の跡が見えた。
キスマークだった。
見た瞬間、昴の言っていた「愛情表現の一種でさ、俺はお前の女だっていうアピールなんだよ」という言葉を思い出し怒りが込み上げてきた。
「これ、どういう状況で付けられたんだよ」
「え? あ、えっと・・・このケガ? 多分撮影中に・・・この辺に、シンヤさんが顔を近づけるのがあって・・・」
思い出して美玖は思わず顔を赤らめる。
シンヤとは、信家凛のことで、凛の名字だが事情を知らない柳はてっきり相手は男だと思い込んだ。
「はあ? お前、そいつと初めて会ったんだろ?」
「えと・・・今日初めてお会いしました」
「そんなことされて嫌じゃないのかよ?」
「その・・・シンヤさんって、すごくキレイな人なんです・・・見とれてたっていうか・・・」
恥ずかしい気持ちはあったが、凛のキレイな顔立ちと氷のような視線に魅かれるものがあったのも事実だった。
柳はキレイな顔の男だから、と言われた気がして「そりゃプロのモデルだからな、だから何だ」と内心毒づく。
「お前、バカじゃないのか?」
「・・・ごめんなさ・・・ひゃ・・・」
柳はファスナーを下ろすと、美玖の体を自分の方に向けて肩が露出する程度に軽く脱がせる。首筋にそって、鎖骨の辺りに舌を滑らせる。驚いて後ずさるが、すぐ後ろの扉に背をつけるとそれ以上は逃げられなかった。
「まっ・・・待って・・・柳くん・・・」
美玖は突然の出来事で胸の鼓動が速くなり、何も考えられなかった。抵抗しようと手を出すが、軽々と柳の手に掴まれ身動きが出来なくなった。
柳は何も言わず、ゆっくりと這うように胸元まで舌を滑らすと、たまらず美玖は懇願するように震えて声を出す。
「ん・・・待って・・・やめて・・・」
柳が美玖の顔を見ると、目に涙をため、どうしてよいか分からないといった顔をしていた。なぜかとても可愛く思えたのでそのまま口づけをしようとすると、思いっきり頭突きを食らわされて顔面に衝撃を受ける。
「いって・・・」
「あっ・・・ごめんなさいっ・・・つい」
顔面より精神的にダメージが大きかったので、柳はその場に座り込む。自分の置かれた非常に情けない状況に顔を歪ませる。
美玖は慌てて柳の顔を覗き込み、心配そうに顔を見る。
「つい? 俺だったら抵抗するのかよ・・・」
「え・・・と?」
「シンヤってやつは良くて、俺はダメなのかよ?」
思わず柳は口走っていた。この発言もずいぶんと情けないと分かっていたが止められなかった。
「えええっ・・・だって・・・柳くんは・・・」
「なんだよっ!?」
「お・・・男の子だから・・・シンヤさんとは違います・・・」
「は・・・・・・?」
柳は目が点になった。
美玖は顔を真っ赤にして、少し怒ったように座り直す。
「あの・・・シンヤさんとは今日初めてお会いしましたけど、撮影だし、女の子同士だからちょっとくらい触られても大丈夫なんです。でも柳くんは・・・男の子なんだから・・・こういうこと・・・その・・・急にしたら驚きます・・・」
女の子同士・・・ということは、女に嫉妬してたのか、と拍子抜けする。
同時に「嫉妬」という事実に愕然とする。嫉妬というよりヤキモチだろうか、自分が・・・どうして・・・と分かり切った自問自答をする。
「あの・・・聞いてますか?」
「お前、俺のこと男として見てたのか・・・」
「えと? 女の子には見えませんけど」
そういう意味じゃない、と思いつつ柳は笑いが込み上げてきた。同時に美玖は男女の関係など疎いし興味もないと思っていたので少し安堵した。
美玖は真面目に話していたのに笑われたので拗ねたようにフイと顔をそむける。
「私・・・本当にビックリしたんですよ・・・こういうのは、好きな人だけにしてください」
「分かったよ」
笑いながら美玖の頭に手を伸ばし、優しく髪を撫でる。少し驚きながら美玖が柳を見ると視線が交わる。そのまま顔を傾けるとゆっくりと優しく唇を触れ合わせる。
美玖は柳の唇の感触と吐息と体温の熱さに思わず気が遠くなる。心臓の鼓動が聞こえるんじゃないかと言う程高鳴っていた。体中を駆け巡る快感にただ身を任せてみたくなったが、たまらず顔をそむける。
「だから・・・ダメだって・・・やめてください」
「なんでだよ?」
「だから・・・こういうの・・・好きじゃないとダメなんです!!」
我慢していた涙がぽろぽろとこぼれ落ちる。口は乱暴だがいつも自分を気にかけ根は優しい柳に美玖は心から感謝していた。それなのにいつも怒らせたり、心配かけたり、何一つ満足にできない自分は、いつか本当に見離されて嫌われてしまうのではないかと心の中で恐れていた。
優しくキスされると、好きなのだと、柳にとって自分は特別な存在なんだと恐ろしい勘違いしてしまうと美玖は思った。柳が自分を好きに思ってくれるなどとは、自分に自信のない美玖には考えられなかったからだ。
それなのに、自分は柳に優しくされると居心地が良くてどんどん好きになってしまう気がしていた。今でも十分なのに、もっと求めてしまいそうな欲深い自分に美玖は嫌悪感を抱いていた。
逆に柳は「好きな人だけにしてください」と言われたので遠慮なく好きな相手に迫ったのに、言った本人に思い切り「ダメ」と否定されて困惑していた。
―― つまり、俺のことは好きじゃないからダメってことか!?
目の前で顔をそむけて、涙をこぼす美玖に、そんなに嫌だったのかと落胆する。
今までそれなりに持て囃され周りからも羨望の眼差しで見られていたので、余裕や自信もあったつもりだった。それが単なる驕りで、うぬぼれ、思いあがりなんだと強烈に思い知らされた気がして意気消沈となる。
「悪かったな・・・泣くなよ」
「ごめ・・・なさ・・・」
そのまま美玖は柳の部屋を飛び出し、自分の部屋に戻った。泣いて迷惑をかけてばかりだったので、その場にいるのは迷惑だと思った。呼吸が荒く苦しかった。
真っ暗な部屋の中、一人美玖は思う。なんで自分はこんなに人に迷惑ばかりかけるのだろうか、なんでこんなに辛いんだろうか、答えなんか出るはず無かった。
「どうしたの柳、寝不足?」
「別に・・・」
毎朝の日課であるランニング中、いつもより不機嫌そうな顔で黙って走り続けていた柳を不思議そうに隼は見た。
柳は時々立ち止まり、堤防沿いを眺めてはため息をついたり、難しい顔で隼を見ては何かいいかけて結局何も言わなかったりする。
「変なの。美玖ちゃんに振られでもしたの?」
いつもだったら、柳が「バカじゃねえの」と反論するところなのに、ピタリと足を止めあからさまに落胆した表情が見えたので、隼は驚いた。
「え、何? ごめん、冗談だったけど・・・何かあった?」
「・・・いや、別に・・・」
暗い表情のまま、柳はまた走り始めた。気まずい空気のまま家に戻ると昨日見た白い高級車が見えた。
前にもこんなことあったな、とデジャブを感じながら車に近づくと、昨夜運転してくれたダリオと目が合い軽く挨拶を交わす。
「兄さん達、戻ってきたんだ?」
「はい・・・・・・その、すみません」
「何かあったんですか?」
「ボスの荒れ狂う怨念を、ミスターアガツマに全て抑えて頂いたようで。私どもにはとても出来なかったでしょう」
「荒れ狂う怨念・・・って・・・」
流暢な日本語だが、どこか違和感のあるダリオの言葉に一抹の不安を感じる。
玄関に入ると、独特な匂いが広がっていた。何か紅茶を焦がしたような強い匂いに思わず隼はたじろいだ。
「ちょ・・・こんなところで・・・何してるのさ」
玄関から上がってすぐの廊下に腰を下ろし片膝を立て、虚ろな表情でシガーをくゆらす昴に隼は瞠目する。
シガーの強烈な匂いと煙に頭がくらくらした柳も、玄関に入ると横に死体のように転がっている月桂を見つけぎょっとする。
「おい、月桂さん大丈夫か?」
近寄って顔を見るがピクリとも動かない。突き出した右手が赤黒く血にまみれていたので驚いて昴を見る。
「何が・・・」
「・・・ああ、シガー用の灰皿ないかな?」
どこまでもマイペースな態度の昴に隼は困り果てた。
「ないよ。誰も葉巻なんか吸わないんだから。出来れば家の中で吸ってほしくないんだけど」
「そうか・・・じゃあ普通の灰皿でいいや」
灰で家を汚されたら困るので、仕方なく隼は灰皿を取りに行き、昴に手渡す。
「Gracias・・・(ありがとう)」
「月桂、大丈夫? ケンカでもしたの?」
「・・・テキーラ・ポッパー」
「何それ?」
「いいさ、そんな飲み方知らなくて。ただの飲みすぎだ」
でも、と言いかけて隼はやめた。事情を話す気など兄にはないのだと察した。
「このバカ、俺に「報復なんてバカなことは考えるな」とかぬかすからよ、てめぇが言うなよって笑ったぜ。悪いが俺には他にやることがあるんだよ、ビジネスだって、立場だってある。義理人情なんかで生きてるお前とは違うんだよ」
昴は目を閉じ独り言のように話す。
「分かってても、兄さんに釘を刺したかったんだよ。分かってるだろ、月桂の性格なんて」
「ハハハ、そうだ・・・分かってて、言わせたんだ」
「相変わらず性格悪いぜ、昴さん」
「俺に何があっても、月桂にはその言葉を守ってもらいたいね」
昴のトゲのある一言に隼はドキリとする。「荒れ狂う怨念」と言ったダリオの言葉が恐ろしく重く感じた。
「兄さん、何かする気なの? アメリカで・・・危ないことしてるんじゃ・・・」
ひどく狼狽した隼を見て、柳も嫌な胸騒ぎを感じた。
「ベニー・リッキー・カルロス・ホセ・フェイ・オリバー・・・俺の良き友人だった。テキーラとシガーが俺のレクイエムがわりだ。それ以上は、俺にしてやれることは何もない。『何も』・・・だ。このシガーを吸い終わったら帰る、俺の『居場所』にな。悪いが月桂を部屋に運んでやってくれるか?」
昴の物憂げな表情に、隼はただ頷くしか出来なかった。昴にしか分からない苦悩が満ちていた。
隼は柳と一緒に月桂を運ぶことにしたが、まったく意識の無い月桂を運ぶのは二人でも大変だった。
特に、階段がつらく二階に着くとすっかり息が切れていた。部屋に入るとベッドに月桂を転がすように置く。ジャケットや所々に見える赤黒い血痕に気を使ってやる気にはなれなかった。
どうせ起きたら自分で勝手にやるだろ、と柳は肩で息をしながら思う。同じように疲れた表情の隼が黙って月桂を見ていた。
「あの・・・月桂さん大丈夫ですか?」
部屋を出ようとした時、美玖がひょいと顔を覗かせたので驚いて柳は一歩後ろに下がる。
いつもなら、心配をかけまいとすぐに「大丈夫だよ」とフォローする隼が今日に限って黙って窓を開け、月桂のネクタイを軽く緩めていた。仕方無いので柳が対応することにした。柳としては、昨夜の件で顔を合わせにくく小さくため息をつく。
美玖は制服を着て学校へ行く準備をしていた。
「昴さんと飲みすぎたらしい、寝てれば治るだろ。放っておけよ」
「そう・・・ですか」
血だらけの月桂を見られても困るので早く部屋から出ようと思い、隼に声をかけると美玖と一緒に一階に下りる。
玄関を見ると、すでに昴はいなかった。小さな箱とシガーの強い匂いだけが残っていた。
「何だろう、変わった匂い・・・」
美玖が不思議そうにあたりを見渡し、小さな箱に目を止める。
箱には「美玖ちゃんへ、見たことないと思うからお土産にもってきた 昴」と書かれてあった。
後ろから柳と隼も覗きこむ。飾り気のない菓子箱のような小さな箱にペンでメッセージが書かれていた。
特に疑問にも思わず、美玖が箱を開けると何か黒い物体が勢いよく出てきて、全身に悪寒が走る。そのうちの一体が美玖の顔をめがけて・・・激突する。
「げっ・・・ゴキ・・・」
「美玖ちゃん、蓋を閉めっ・・・」
同時に柳と隼が叫ぶが、美玖はあまりの気持ち悪さに箱を投げつけるように床に落とすと数匹の黒い物体がわさわさと部屋に散らばっていった。一匹ならいざ知らず複数の黒い物体は強烈な不快感と恐怖を三人に与えた。
美玖はわなわなと震わせた両手をそのままに、声にならない悲鳴をあげよたよたとリビングに逃げ込む。
柳と隼は、逃げてもあとが厄介なので、嫌でたまらないが黒い物体退治に悪戦苦闘する羽目になった。
「くっそーーーーあんの、バカ野郎ーーーー」
家中に響き渡る大声で柳は昴に文句を言うとかなり騒がしく退治作業をした。にもかからず、月桂もルイも二日酔いのためか一向に起きてくる気配がなかった。
もし月桂が起きていたら、虫など物ともせずいつもの無表情でバッタバッタと退治してくれただろうに・・・と柳は不満をこぼす。
時計を見ると、もう学校へ行く時間が迫っていたので、慌てて登校準備すると美玖の部屋に向かう。ドアの外から柳が声をかける。
「おい、あらかた退治したぞ、お前も学校に行く時間だろ」
「・・・・・・やだ・・・」
「やだ・・・だと!? ふざけんな、あんな虫くらいでいちいち休むなよ!?」
苛立って大声を出す柳に、ずっと暗い表情のままの隼が話しかける。
「柳、美玖ちゃんがどう行動しようと彼女の勝手だ。美玖ちゃん、兄さんのせいで迷惑かけてごめん。僕らは学校に行ってくるけど何かあったら携帯に連絡するんだよ? 分かった?」
「・・・分かりました」
静かに、諭すように隼は話すとそのまま学校に向かった。どこか、隼の態度に違和感を覚えながらも柳も学校に向かうことにした。換気する時間も無かったので、すっかりシガーの香りが家に蔓延していた。
学校までの短い道のり、隼も柳も特に言葉を交わさなかった。柳は疲れ切っていたし、隼は気苦労が多かった。
学校に到着すると、さっそく友人の浅葉が声をかけてきた。
「よっ! 噂のご両人! 昨日はロールロイスでのご送迎、派手でしたな~」
疲れた頭に、うるさい浅葉の声が煩わしかった。
周りの生徒がちらちらとこちらを見ているのが分かる。柳は、昨晩のことや今朝の騒動で、すっかり昴が学校へ車で乗り入れた事実を忘れていた。
「うるせーな、疲れてんだ」
「何だよ、あんだけ派手な登場しといて、秘密にすることないだろー??」
「黙れ、お前の薄っぺらい話は聞きたくない」
「ひどっ! 友達にそーゆーこと言うわけ? おーい・・・」
相手をせずに教室に進む。隼と別れる間際、ふと目が合う。お互い苦笑いをする。
予想していた通り、周りは興味の対象として二人にあれこれ話すが、相手をする気にもなれず柳は「うるせーな」の一点張り、隼も苦笑いするだけなので、残念そうに退散していった。
授業中も、どうも頭の中がもやもやとして柳は勉強などする気にもなれなかった。
ふと、柳の電話が鳴る「花立 自宅」と画面表示。携帯を持っていない美玖が唯一使う自宅電話だった。
授業中だったが、ためらわず電話に出る。何もなければ美玖が電話などかけてくるはずがない。
「どうした?」
「あの、美玖です・・・月桂さん・・・様子が変なの。救急車とか呼ばなくて大丈夫でしょうか?」
「救急車!? まだ意識ないのか・・・おい、呼吸はあるのか!?」
電話を諌めようとした教師だったが、柳の会話に遠慮して、廊下で電話するよう手で促した。ざわつく生徒を横に柳は軽く頭を下げると廊下に出る。
腕時計を見ると10時近かった。泣きそうな美玖の声に柳も、まさか、と胸騒ぎを感じる。
「呼吸はあります。寝てるだけだと思ったんです。飲みすぎって言われたから・・・でも、今見に行ったらケガしてるみたいで・・・腕のところが血だらけだったんです、呼びかけても反応なくて・・・飲み過ぎて・・・死んじゃうことだってあるんですよね?」
「まぁ・・・急性アルコール中毒なら・・・」
「どうしよう・・・やっぱり救急車呼んだ方が・・・」
いつものことだし、昴に付き合って深酒をしたぐらいに考えていたが、昏睡状態となれば確かに危ない状況だったのかもしれない。安易に判断した自分にとても自信はもてなかった。
隣のクラスの扉をガラリと勢いよく開けると、もちろん授業中だったが、お構いなしに隼に向かい話しかける。
「おい、月桂さん今日みたいに昏睡状態になることよくあるのか? 救急車呼ぶかって心配してるぞ」
「・・・今朝の状態は、脈も呼吸も正常だったし、体温も低下してなかったから大丈夫だと思ったけど・・・確かに意識障害による頭部打撲や頭蓋内出血ってこともあるか・・・すみません、ちょっと失礼します」
丁寧に教師に頭を下げると、柳の元に駆け寄る。電話を代わり美玖に話しかける。
昴に「ただの飲みすぎ」と言われ、無条件に信じてしまったがケンカでもして月桂自信どこかにケガをしている可能性もあったのだと隼は責任を感じた。もうちょっと経過を見るべきだった。
「隼だけど、月桂の呼吸どう? 早いとか、浅いとか」
「あの・・・普通だと思うんですけど・・・」
「体温はどう? 低くない?」
「えと・・・むしろ熱いくらいです・・・」
「低体温ではないか・・・意識はまったくなし?」
「呼んでみたんですけど・・・ないです」
しばらく考えたかと思うと、隼はくつくつと笑いだした。急に笑い出した隼を柳は訝しそうに見る。
「そんな深刻に考えなくても大丈夫だよ。兄さんがただの飲みすぎって言ってたんだから。うん・・・大丈夫だよ」
自分に言い聞かせるように静かに優しく語る。
「どうしても心配だったら、バケツに水入れて頭からぶっかけてあげてよ。それで起きるんじゃないかな?」
「は・・・はい。隼くんがそういうなら・・・やってみます」
電話がブツリと切れる。
「冗談のつもりだったのに・・・まぁ、いっか」
「おい・・・隼、本当にいいのかよ?」
「放っておいて死ぬような症状だったら、兄さんが病院に連れてってるよ。今朝の兄さん見て、色々思う所あったんだけど、やっぱり僕は兄さんを信じることにした。兄さんの「荒れ狂う怨念」だっけ? それの行く先をダリオさんも月桂も心配してたんだ。でも兄さんは「俺にしてやれることは何もない」って・・・つまり「何もしない」ってことなんだ」
「昴さん、何か、復讐とか・・・するつもりだったのかな?」
「さぁ、兄さんの考えは僕には理解できないけど・・・心配してもしょうがないから信じることにした。本当はさ、「グラーシアス」と「テキーラ」、友人の名前聞いてメキシコ思い浮かべてさ、麻薬とか、カルテルとかそういったことに首突っ込んでるんじゃないかと思って・・・一人でもやもやしてた」
そんなこと考えていたのかと、柳は呆れながら「まさか」とこぼす。
「だってさ、麻薬戦争で去年は一万五千人位殺害されてるんだよ。兄さんはアメリカが本拠地で・・・無縁だとは限らないよ」
「すげー恐い話だな・・・でも、そんなの考えすぎだろ。アメリカでビジネスしてるだけだろ? そんなやつ何人いると思ってるんだよ」
「だといいんだけどね・・・」
本気なのか冗談なのか判断しかねる柳は、それでもいつもの表情に戻った隼にホッとする。
「って、それと月桂さんの症状に関係あるのかよっ!?」
「あはは、ないね。信じるのは兄さんの千里眼ってやつ?」
「胡散臭いだろ、それ」
「そうだね。まぁ、最悪でも死ぬだけだよ」
こいつの持論もよっぽど恐いな、と思いつつ、なぜか柳も笑顔になる。
「今頃、月桂さん水ぶっかけられてんのかな?」
「かもね」
想像して、思わず廊下で二人して笑いだす。