18話 狂夫の楽しみは智者の哀しみ
狂夫の楽しみは智者の哀しみ
人は立場の違いや知識の差などによって、同じ事柄に対する考えも違うことで、狂人の楽しみは智者には悲しい者だという意味から。
【18話 狂夫の楽しみは智者の哀しみ】
病室は3階の一番端にあり、特別個室と呼ばれる大きめの部屋だった。秘書室の他にミニキッチン・バス・トイレが完備されており「特別」と呼ばれるに値するものだった。
集団生活が苦手な美玖にとって、個室は過ごしやすかったが、静かすぎて大きな部屋で孤独感に苛まれた。ずいぶん身勝手な考えだと自分自身分かっていた。
皆が見舞いに来ると、その反動でとても嬉しくなってしまうので、ルイと君孝にはいつもより甘えることができた。
「ねえ、何か欲しいものあったら言ってね。着替えとか必要だったら持ってきてあげるし。そうだ、ブラッシングしてあげる」
「ルイねえ、ありがとう」
カバンからヘアブラシを取りだすと、美玖のキレイな黒髪に霧吹きで髪を濡らし丁寧に梳いた。
「美玖ちゃんいつも、時間かけてブラッシングしてたから。髪大事にしてるのね。女の子~って感じ」
「うん。髪の毛は・・・お母さんがよく梳いてくれたの。髪と肌は女の命なんだって」
「あはは。間違いないね~・・・・・・ご両親はお見舞いに来る?」
美玖の口から今まで両親の話は聞いたことがなかったので何となく聞きそびれていたが、明るい口調だったので思わずルイは聞いてしまった。
柳は、以前聞いた父親の話をふと思い出し苦笑した。
「お母さんは、もういないの。死んじゃったから。お父さんは、まだ・・・無理」
まだ、とはどういう事だろうと疑問に思ったが、ルイはそれ以上聞かなかった。美玖がそれほど嫌がらずに話してくれたので少し嬉しかった。
「じゃあ、私が梳いてあげるわ。右手が使えないと、ブラッシングも大変でしょ? 私がいない時は柳か誰かに梳いてもらってね~」
「何で俺なんだよ」
「じゃあ吾妻さんに頼もうかしら」
いじわるそうにルイが言うので柳はため息をつき、ベッドに近寄ってきた。
「分かったよ、ただとかすだけだろ?」
「ばかねぇ、ヘアスタイルを整えるだけだと思ってるでしょ? 絡んだ髪をほぐして、ほこりとか汚れを取り除いて清潔にする。それから頭皮から毛先に向けてブラッシングして、髪全体に油脂を行き届かせるの、それで艶やかで美しい髪を育てるのよ。お風呂に入る前は必ずブラッシングしてあげてね。お風呂上がった後は、タオルドライしてドライヤー使う時は手ぐしで髪をほぐしながらね。ドライヤーかけ過ぎちゃだめよ」
「おい、どこまでさせる気だよ・・・」
言いながらも柳はそれほど嫌そうでもなかった。
「本当はマイナスイオンドライヤーがあるといいんだけどねぇ。あとヘアブラシも、美玖ちゃん用にもっといいの買ってあげたいなぁ」
ルイは嬉しそうに美玖の髪を梳いていた。美玖も嬉しそうにしていたので、まぁいいかと柳は思った。
一週間程で、美玖は退院することができた。知らない場所で過ごす一週間はやはり苦痛だったので家に帰れるのがたまらなく嬉しかった。
昼過ぎに月桂と二人、車に乗り込んだ。君孝は仕事だったので二人きりとなったが、美玖は月桂に嫌われてるかもと思い、月桂は複雑な心境だったため、車内には気まずい雰囲気が流れていた。
久しぶりの自宅に、心が躍った。ルイが午前中の授業のみだったので、帰宅してるかもと期待した。いろいろルイに話したかった。美玖は月桂より先に家に入ると、姿は見えないがルイに向けて「ただいまー」と言った。
普段は物置になっている場所からふいに声が聞こえた。
「手をあげろっ!」
ジャキッ・・・という無機質な音に振り向こうとしたが、強い衝撃があり床に前のめりに倒れた。
とっさに月桂は美玖を家の奥側へ倒し、侵入者と思われる男に体当たりしそのまま廊下になぎ倒した。すぐさま手に持っていた武器を奪い投げつけた。
ガツッという鈍い音と共に武器が下駄箱に当たり、チラと視線をやると拳銃だった。
「いてて・・・おい、月桂! 手加減したまえ!」
聞き覚えのある特徴的な声に月桂は不意をつかれた。
「昴さんっ!?」
不審人物が思いがけず知り合いだったため、月桂は驚愕し思わず手を離した。
昴と呼ばれた男は首をさすりながら上半身だけを起こした。
「まったく。お前には冗談も通じないらしいな!」
「な・・・何が冗談ですか! だいたいどうやって侵入したんですか!」
今まで見たことも無い程の月桂の慌てっぷりに、美玖はきょとんとしてしまった。
「侵入だなんて、人聞きが悪いじゃないか。俺は正面から入ったぞ。そこの彼女に入れてもらったんだ」
そうして昴が指さす先に顔だけ覗かせて申し訳なさそうに、こちらを見るルイがいた。視線が自分に集まり慌ててルイは弁明した。
「うあっ・・・違う違う。だってその人、私が玄関に出た時もそんな調子で、手をあげろ、大声をあげるな、冗談だよアハハとか言って勝手にあがり込んでくるんだもん!」
昴を見るとニコリと人懐こしそうな笑顔を向けた。月桂はため息をつき、床に倒れたままの美玖を抱き起こし「お騒がせしてすみません」と謝った。
「君が美玖ちゃんだね。はじめまして、扇 昴だ」
そう言うと玄関に落ちていた拳銃を拾うと、笑顔のまま背広の中にしまった。
「隼さんの、 実兄です」
月桂に言われるまでもなく、美玖には分かった。笑い方や見た目が隼にそっくりだった。ただし、醸し出す雰囲気はまったく別で笑っていてもどこか冷たい印象だった。
美玖は突然の昴の「冗談」に驚いてただ茫然としていた。
「ま、こんな所で立ち話もなんだから、リビングに行こうか」
お前が言うな、とルイと月桂は心の中で叫んだが、一人昴は上機嫌でリビングに入って行った。仕方なく、月桂と美玖もリビングに向かった。
「美玖ちゃんと月桂を驚かすのには成功したな。だが俺も痛い思いをしたから次は別の方法がいいな。隼と柳にはどんなサプライズをしようか。何かいいアイディアはあるかね?」
昴は20代後半のすらりとした細身の男だった。外見は隼に似て整っており栗毛色の髪もあり若々しい印象に見えた。自分の家でもないのに、ソファーに腰をかけると足を組み何やら考え込んでいた。
「何です、まだこんな下らないことするつもりですか」
月桂は呆れたが、先程より落ち着いて昴に意見した。
「隼はともかく、柳は何が驚くかな・・・」
「人の話聞いてるんですか、大体何をしに来たんですか」
「柳の苦手なものとか、驚くことって何か知ってる?」
月桂の話をまったく聞かず、首だけルイと美玖に向けるとルイはドキリとして思わず口をすべらせた。
「苦手・・・というか、弱点なら、美玖ちゃんだと思うけど」
「ルイさん、余計な事言わないでください」
月桂がルイを睨みつけたが、話を聞いた途端ニヤリと昴が笑った。
「へぇ」
ルイは冷静に、ああやっぱり隼と兄弟だな、と思った。隼も柳のことを茶化しているときにこんな顔をしていた。しかし行動的な分、昴の方が厄介だな、とも思った。
「じゃあさ、美玖ちゃんと月桂の情事を見たら驚くかな?」
「卒倒するんじゃないの」
ルイは当然のようにサラリと答えた。ルイの答えに満足したのか何やら感慨にふけると昴に、月桂は冷たい視線を送っていた。
「よし! 月桂」
「やりませんよ」
「もちろん、フリだって。フリ。適当にイチャついて想像を膨らませてやればいいさ」
「嫌ですよ」
「上司の命令だ!」
「直属の上司じゃないので」
二人のやり取りを見て、美玖はくすくすと笑った。
「お嬢さん、笑い事じゃありません」
「だって、月桂さんいつもよりおしゃべりで。仲良しなんですか?」
「そうそう。月桂の数少ない友人の一人なんだ、俺」
それを聞いて美玖が嬉しそうにほほ笑んだ。月桂はため息しか出ない。
昴はネクタイを緩め、ソファーに横になり美玖を眺めた。
「とにかく、やりませんから」
「いいよ。俺がやるから。その代わり途中で本気になっても俺はやめないからな」
「何言ってるんですか、中学生ですよ」
「月桂こそ何言ってるんだ? 俺がそんな事気にする男だと思うか?」
昴の今までの経歴を思い出し、月桂は口元を歪ませた。
「え? 何? あの人変態なの?」
ルイが月桂に小声で聞いた。
「見れば分かるでしょう」
「変人だとは思うけどね・・・」
昴はジャケットを脱ぎ、人の家でくつろぎ、当たり前のように「喉が渇いたからグレープフルーツを出してくれ」と要求してきた。
「あの、オレンジだったらあるんですけど」
美玖が律儀にそう答えると、なぜか爽やかな感じで昴は答えた。
「じゃあオレンジでいいよ。絞ってくれ、月桂」
いつも無表情な月桂が、あからさまに嫌な顔をしたのでルイは珍しいものを見たなと感心した。結局月桂はオレンジを絞りジュースにすると丁寧にストローまで付けて昴に渡した。
「飲んだら、帰っていただけますか」
「ハハハ。まだこれから面白いところだろ?」
ジュースを飲みながら美玖に向かって目配せした。美玖は目が合うとうつむいて恥ずかしそうにしていた。
「でも、俺が相手役してたら柳たちの反応見れないしなーやっぱり月桂がやってくれ」
「何をですか」
「だから、美玖ちゃんと情事・・・のフリ」
「そんなこと出来るわけないでしょう」
「どうしてだ?」
どうしてだと?殴りたい衝動を抑えて月桂は平静を保とうとした。
「お嬢さんだって、困りますよ」
「そう? 美玖ちゃん嫌?」
急に話を振られて美玖はびっくりして、昴と月桂を交互に見た。
「あの・・・意味がよく分からなくて・・・」
美玖には「情事」という言葉が馴染みなく今ひとつ話についていけなかった。
「大丈夫! 月桂にまかせれば。月桂が嫌いでしょうがないって言うんだったら俺がかわるけど、どうする?」
「あの・・・月桂さんがいいです。でも・・・驚かせることしたら、柳くん怒るかもしれないです・・・」
「大丈夫! 表面上は怒るかもしれないけど、退院した美玖ちゃんがこんな冗談もできるのサ! ってところを見せておくと内心、安心するのさ。隼だって責任感じてるかもしれないから、元気づけてあげようじゃないか!」
「・・・わかりました」
昴は美玖を見て甲高い笑い方をした。いったいこの人の頭の中はどうなっているのかとルイは不思議に思った。美玖は騙されやすいようで、昴の言ったことを真に受けてるようだった。
携帯電話の音がした。昴は寝そべったまま電話に出ると真面目な顔になって急に立ち上がった。そうすると月桂と美玖に近寄り電話を切った。
「あと数分で、隼と柳が帰ってくると報告があった。頼んだぞ」
そう言うと、ルイの手を掴みキッチンの死角の部分で腰を下ろし、グッと親指を立ててじっと月桂と美玖を見た。
「・・・やりませんよ」
月桂ため息をついて昴を見返した。美玖は緊張して立ちすくんでいた。
「俺に楯突くと後悔するぞ。まず、月桂の性癖をバラす。次に今までの女の遍歴をバラす。それと昔書いたラブレターの内容もバラす。それから」
美玖がその気になってくれているので、あとは月桂だけとばかりに昴はたたみ掛けを始めた。
「何・・・いい加減なこと・・・」
月桂が思ったより動揺するので、書いたのかラブレター・・・とルイは吹き出すのを必死にこらえた。
「こっちのがいいかな」
何気なく昴はキッチンの隅に置いてあった黒い折り畳み傘を手に取った。一見するとただの折り畳み傘だが、実際は強力長時間おりたたみ傘型会話用盗聴器だった。美玖が無断欠席した翌日にカバンに入れるよう月桂が勧めたものだった。もちろん盗聴器という事実を美玖は知らない。
どうしてその事を知ってるのか、とは考えたくも無かった。
「・・・・・・ご冗談を」
月桂の顔に余裕はなく、暑さのせいだけではなく額に汗が出てきた。この男、まさかお嬢さんに言うつもりじゃ・・・と思うと怒りがこみ上げてきた。
「美玖ちゃん、この傘・・・」
「昴さん!」
月桂が昴を睨みつける。昴は目を細め、口元だけ薄笑いを浮かべていた。
ガチャ。
小さくカギの開く音が聞こえた。
心臓が高鳴った。
音を聞くと、昴は息を殺してスタンバイの姿勢に入った。妙な緊張感にルイも物陰に身を潜めじっとしていた。
「いいんですか?」
月桂は小声で美玖に尋ねると、小さく頷いた。
月桂は困った。
きっと、美玖はあまり事情も分からずに頷いたのだろう。このままやり過ごすことも出来るが、その後の昴の報復を考えると頭が痛い。かといって、情事のフリでもしようものなら柳と隼からどんな目で見られるか・・・何より美玖と今より気まずくなるのは辛かった。
時間がない―――
「お嬢さん・・・ご無礼を」
耳元で囁くと、軽々と持ち上げられ仰向けのまま机の上に寝そべる格好となった。その上から月桂が覆いかぶさるように身を寄せた。
美玖はいきなり月桂と密着する形となり、目を見たまま顔がすぐ近くまで来ると体温と心臓の鼓動が一気に高まった。ケガをしていない美玖の左手に月桂の手が自然と伸びてきて、包み込むような大きな手にドキリとした。
左手で愛しむように優しく美玖の髪を撫でた。首元に顔を近づけると美玖は真っ赤になって目線を泳がせていた。それを見て「やっぱり分かっていなかった」と冷静に月桂は思った。
思わず「わっ」と声が出そうになったルイは慌てて口元に手をやると、月桂の大胆な行動に顔を赤くした。
―――でも、それじゃ情事っていうより、襲っているようにしか見えない!
美玖は小柄で若干年齢より低くみられることもあり、実際月桂とは20も年齢が離れており、身長差も40cm以上ある上、月桂は目つきが鋭い強面なのでどうしても、美玖が襲われてるようにしか見えなかった。
何かいけないものを見てるような錯覚におちいったルイは、茫然とその光景を見ていた。フリだと分かっていても、どうしても緊張してしまった。
ガラッという威勢のいい音と共に隼と柳が部屋に入ってきた。
案の定、二人はその場でフリーズした。
静寂の中、美玖の泣きそうな月桂を呼ぶ声が妙に生々しかった。
「な・・・な・・・」
顔面蒼白とはああいう顔だな、とルイは冷静に柳を見て思った。柳は頬を引きつらせ上手く言葉が出ないようだった。隼は柳ほどではなかったが、やはり目を見開きポカンとしていた。
騙す側なんて分かってるから、こうして冷静でいられるけど、騙される側はものすごい衝撃なんだろうな、分かってても強烈だもん。とルイは同情した。
「なっ・・・何やってるんだっっ!!」
家中に響き渡るような大声で柳は叫んだ。
その直後、昴の遠慮のない笑い声が響いた。
驚いて、声の方を見て昴を認識すると、やっとこの状況がたちの悪い冗談だと分かった。
月桂は美玖を抱き起こし衣服を整えると、憂鬱そうに振り向いた。
「兄さん・・・」
呆れた顔で隼は自分の兄を見つめた。久しぶりの兄弟の対面がこんな風でため息しか出てこない。
「ハハハハハ。悪い。もうちょっと見たかったのに、あまりに柳がストレートな反応するから笑っちゃったよ。はー・・・元気だった?」
なぜそんなに爽やかなのか不明だが、昴は笑顔で弟に声をかけた。
「やっぱり隼の反応はイマイチだな。からかうなら柳だな、うん」
そう言うと昴は柳と隼に近寄り、二人の頭を撫でまわした。抵抗するのもバカらしい程二人はどっと疲れていた。
「月桂と美玖ちゃんもお疲れ! いやー臨場感があってよかったよ! 美玖ちゃん大丈夫だった? どさくさにまぎれて月桂に変なことされなかった?」
美玖はスカートの裾を気にしながら、困ったように顔を赤らめ下を向いた。それを見て柳は無性に腹が立ってきた。
「お前ら、こんなのの言う事聞いてバカじゃねえの!?」
「だ・・・だって・・・私・・・」
「言い訳すんなよ! 気分悪りぃな!」
柳は怒りをあらわに美玖と月桂を睨みつけた。美玖が包帯を巻いた右手で顔を隠すようにするので、柳は今日は退院日だったことを思い出した。
「・・・ごめんなさい。私・・・戻ってます」
そう言うと美玖は逃げるように二階に上がっていってしまった。
「柳、美玖ちゃんは十中八九、兄さんに丸め込まれたんだよ。責めたら可哀そう」
隼がため息をつきながら言った。
「そうそう。俺が扇動したの」
相変わらず嬉しそうに昴は言った。
「む・・・月桂さん、あんたは断れただろ。こんなことするなんて、らしくねえよ」
ばつが悪そうに柳は顔をしかめた。
「申し訳ありません」
「月桂はー何だかんだ言ってー俺の味方だから。らしくない? そうかなー俺の知ってる月桂なら問題ないねー」
そう言うと手に持った折り畳み傘で月桂の肩をポンポンと叩いた。傘の正体を知っている隼はギクリとして昴を見た。目が合い、口だけで笑われた。
「柳、月桂も責めないで・・・きっと脅迫されたんだ」
隼は力なく肩を落とした。
「そ、そうよ、性癖とかラブレターとか・・・バラすバラすって。美玖ちゃんも吾妻さんも被害者みたいなもんよ。あ、あたしもね」
「ルイねえ・・・いたんだ」
「まあね、全部見てたわ」
柳は心なしか嬉しそうなルイにどうも釈然としなかったが、何だか月桂に同情したくなる気にもなってきた。
「それで、兄さんは何しに来たの?」
もっともな隼の意見に一同、昴に注目した。