17話 迅雷耳を掩うに暇あらず
迅雷耳を掩うに暇あらず
事態の変化があまりにも急すぎて、対処する暇がないことのたとえで、突然の激しい雷に、耳を塞ぐ余裕のない意味から。
【17話 迅雷耳を掩うに暇あらず】
もう用は無かった。さぁ帰ろうかと月桂と美玖に声をかけようとした隼の目に何かゆらりと動くものが見えた。
「月桂、後ろっ―――」
月桂は隼の声に反応し、振り返ろうとしたが視界が遮られ、強い力で拘束されたため動けなかった。
何が――
と思った瞬間、頭の方に小さな衝撃を感じた。
男達の怒号まじりの喧騒が近づいてきた。
どろ、とした生温かい感触が頭上からうなじに伝わってきて、はじめて自分が美玖に抱きかかえられる格好だと気が付いた。
「お嬢さ・・・何を・・・」
嫌な予感が脳裏を巡った。
月桂は美玖の体を自分から離し、とっさに確認し背筋が凍りついた。
美玖の手の甲に深々とナイフが突き刺さっていた。
美玖は、先程月桂に殴られ気絶した木島が目を覚まし、怒りにまかせ月桂を背後から襲うのが見えた。その手にナイフが握られていたのを確認すると、月桂の頭を両腕で抱きかかえるようにし、とっさに右手を突き出した。
その右手に、深くナイフが突き刺さった。痛みより衝撃が先だった。
男達が木島をすぐに取り押さえたので、ほんの一瞬の出来ごとだった。
周りの声はほとんど聞こえなかった。ただ強い怒りを込め見開いた目で木島を睨みつけた。一言も発さず歯を食いしばっていた。
そんな美玖の表情に月桂は絶句した。自分も刺し傷・切り傷の経験はあったが、突き刺さる程の痛みは想像を絶する。それを声も上げず気丈な態度の美玖は、いつもの儚い気弱な少女からは考えられなかった。
「美玖ちゃん!」
隼が駆け寄り、ナイフの刺さった手と表情を見ると顔つきが変わった。しかしすぐに表情を戻し、男の一人に車の手配を指示した。
「すぐに病院に行こう。そのままで、抜かない方がいい」
隼が美玖の腕をゆっくりと動かし、立たせようとした時、ビクと体を震わせ顔を歪ませた。必死に何かをこらえるような顔に、やはり痛いのだと月桂は分かった。
「ケガ・・・ないですか?」
かすれた小さな美玖の声がした。
それが自分に対しての言葉だと月桂は気付き、ハタと我に返った。
「・・・・・・ありません」
自分でも情けないと思うような弱々しい声だと思った。
「よかった・・・」
そう言うと美玖は口元を少しほころばせた。
そのまま美玖は病院に向かうため倉庫を後にした。
隼は、美玖たちが倉庫を出ると辺りを見回した。
もはや、何もいえず固まる高校生3人。その3人のボスであった木島は訳も分からず男たちに取り押さえられていた。また、木島の後ろ盾であった加藤とそのボス河合は生気のかけらも失せた表情でたたずんで放心していた。
凍りついた表情で、何度か話しかけていた男に隼は最後の指示を出した。
「地獄を見せてやれ」
男は了解の意を見せ、深く頭を下げた。
静寂の中、去っていく隼の靴音だけが響いた。
車の中、滴る血をぬぐうと段々と痛みが激しくなってきた。自分の身に起こってることが恐ろしくて傷口を見ることが出来なかったので、目を逸らし顔を下に向いた。呼吸が荒くなり、全身が震えるような感覚になった。美玖は自分でも気が付かないうちに目元に涙をため早く病院に着くことを願った。
誰かが自分に向けて話しかけても、理解できる状態ではなくただただ脈打つ痛みに我を失わないようにするのに精一杯だった。
いつのまにか病院についたが、すでに意識はあやふやだった。ゆっくりと自分の手を見ると恐ろしい程に静かに、冷たく、残酷なナイフが突き立っていた。それが自分の手で良かったとぼんやり考えると、そこで意識は無くなった。
美玖の手のナイフは医師によって迅速に対処され、命に別条はなかった。もちろん、この傷によって生命が脅かされるとは誰も思ってなかった。気がかりは、後遺症と精神的な面だと分かり切っていた。
隼の家、扇の部下により病院を手配したので、ナイフの刺し傷という事件性の高いケガにもかかわらず、警察に連絡したり詳しい経緯を聞かれることはなかった。
隼は君孝にすぐ連絡をし、病院で落ち合うと事件の簡単な経緯と謝罪をした。全て自分のせいだと。
「美玖の・・・手術終わったんだね」
「はい。まだ麻酔が効いてるので、眠ってると思います」
「そう・・・二人とも迷惑かけたね」
君孝が、どこまで概要を理解したのかは分からなかったが、隼にも月桂にも怒りや不満を漏らすことはなかった。ただ悲しそうな表情に、隼は心苦しくなった。
月桂もまた、君孝の対応に自己嫌悪をつのらせた。自分がするはずの連絡や説明も全て隼がしたので、やることもなく、茫然としていた。何かしなければ、動かなければと思う程に頭に靄がかかったように何も考えられなかった。
「何て顔してるんだい、二人とも。ケガをしたのは美玖だろう?」
隼と月桂の落胆を気にして、優しく君孝は言った。その優しさが辛かった。
「もし、申し訳ないと思ってるんだったらお願いがあるんだ」
「・・・・・・はい」
労わるように君孝は話しかけた。
「美玖の前でそんな顔はしないでほしい。吾妻さんもね」
隼はただ頷いた。月桂は自分どんな表情をしているか気が付かなかったので苦笑し、静かに頷いた。
隼が家に帰ると柳とルイがすぐに駆け寄ってきた。昨日の美玖の異変があり、今日の遅い帰宅に二人は、何かあったのではと気がかりだった。
夜も遅いのに美玖と隼、月桂の三人が不在で、連絡もつかずたまらなく不安だった。
「隼、こんな時間までお前らどこに行ってたんだ・・・どうした?」
隼の袖に、赤いシミがあったので、柳とルイは困惑した。
「隼・・・ケガしてるの? 美玖ちゃんと吾妻さんは?」
二人が心配しているのは分かっていた。しかし、疲れにも似た頭のしびれで説明とそれに対して返ってくる返答を予測すると、ため息しか出てこなかった。
「僕の血じゃないよ・・・・・・美玖ちゃんのだよ」
「なん・・・だって?」
柳とルイの顔がみるみる悲痛な表情に変わっていった。
「命に別条はないよ。月桂をかばって手にケガをしたんだ」
「ど・・・どうして?」
ルイは手にもった携帯をぎゅうと堅く握っていた。
「病院で手術してもらったし、命に別条はないよ。少し入院するみたいだけど」
「手術? そんなにひどいケガなのか?」
「・・・どうかな。ナイフが手を貫通してたからインパクトはすごかったけど・・・詳しいことは医者に聞かないとなんとも」
「そんな・・・ナイフ!? ひどい・・・」
想像してルイは顔を歪め目をつぶった。美玖の白くて小さな手を思い浮かべると、どんな酷い目にあったのかそれ以上考えられなかった。
「おい、何でそんなことに!」
「・・・・・・僕が悪いんだよ。もっと、違う方法をとれば良かった・・・こんな事今さら言ってもしょうがないのにね」
自嘲気味に隼は薄く笑った。
「傷は・・・」
隼は言葉を区切って、遠い目つきになった。血のついた袖を反対側の手で掴みながら悔しそうに言葉を吐きだした。
「一生残るだろうね」
柳は聞きたいことが山ほどあったのに、隼を見ていたら何も言えなくなってしまった。
「僕が・・・悪いんだ」
吐き捨てるような隼の一言を最後に、誰も何も言おうとしなかった。
翌日、学校帰りに隼と柳は、ルイと待ち合わせをし病院に向かった。
ルイは、隼の手配した車が黒塗りのフルスモーク車だったので、内心「やっぱり」と妙に納得していた。それよりも二人がまったく話をしようとしないのが気がかりだった。
車で30分程の大きな病院だった。部屋の近くまで行くと、ドアの外に月桂がいたのでそこが美玖のいる部屋であろうことがすぐ分かった。
「あ・・・吾妻さん」
ルイは軽くあいさつしたが、隼は素っ気ない態度だったのでまた重苦しい雰囲気になった。
ドアをノックすると拍子抜けするほど明るい声が返ってきた。
「ルイねえ、柳くん、隼くん、来てくれたんだっ! ありがとう」
美玖はベッドに腰を下ろし足をブラブラし子供みたいに喜んだ。その横で、君孝もニコリと笑顔で歓迎していた。
「なんだ、元気そうじゃないか」
柳はホッとしたのか勝手にソファーに腰を下ろし口元を綻ばせた。
「美玖ちゃん、良かったぁ。もう痛くない?」
チラと手元を見ると、右手に包帯が巻かれてあったのですぐに分かった。病衣の裾から除く美玖の手首は磁器のように白く美しかった。
「・・・・・・うん、大丈夫だよ」
ルイが隣に座り頭を撫でてくれたので、美玖は嬉しそうに笑った。一人立ったままの隼と目が合うと、彼は無理して笑ってみせた。
「隼くん・・・月桂さんは?」
隼が困ったように笑うので、美玖はルイに体を寄せると小さく呟いた。
「わたし、月桂さんに嫌われちゃったかな・・・」
「えぇ、なんで?」
美玖の問いかけにルイは目を丸くした。
「わたしが、勝手なことして・・・迷惑かけちゃったから」
「違うよ」
強い口調で隼が答えた。
「状況分からねえけど、ケガしたのはお前だけなんだろ? 責任は感じても嫌われることはねえだろ・・・多分。なあ?」
柳はチラと隼を見たが、隼の顔色は冴えなかった。
「正直、分からないんだ。切り傷じゃなく、刺し傷ってことは、あの男は明確な刺す意志があったてことで、本人もそれを認めてる。月桂の背後から首を狙ってたなら本当に殺意があったのかもしれない」
物騒な話にルイは寒気がした。
「じゃあ、私の手ですんで良かった・・・」
美玖の言葉に隼は悲しそうな顔をした。
「・・・僕はそう思えない。ごめん。多分・・・・・・月桂もそうだよ」
「いいの。私が勝手にしたことだから。私の自己満足」
屈託のない美玖の笑顔に、隼は困り果ててしまった。
「どうしよう困ったな。僕は、どうしたらいい? 昨日から美玖ちゃんの度胸には驚かされっぱなしだよ。あんなヒロイックな姿見せられたら、惚れちゃうよ」
照れたように話す隼のセリフにくすくすと美玖とルイは笑った。
「いいの。隼くんには助けてもらったし、病院にも連れてきてもらったし・・・ありがと」
美玖の言葉で、隼は少し気持ちが軽くなった。
「そんなに勇ましかったの? 柳はライバルが増えちゃったねー!」
「なっ・・・なんのはなしだよ!」
不機嫌そうに足組みをし、子供のように拗ねる柳が面白くてルイは吹き出した。
皆の明るい雰囲気を見て安心し、君孝は席を立った。
「それじゃあ、私は仕事に戻るよ」
「あ、君孝さんお仕事中だったんだ」
ルイは帰り支度をする君孝に向かって視線を送った。
「うん、お見舞いのついでに次のお仕事のラフ画見せてもらってたの」
「いいな~あたしも見たい」
「まだラフ画だからね、完成したらルイさんにも見てもらうよ。それじゃあね」
君孝が退席すると、後を追うように隼も外に出てきた。
「あの君孝さん・・・いいですか?」
「美玖の手のこと?」
隼は静かにうなずいた。部屋の外にいた月桂を見ると、君孝を無表情で見ていた。
「傷あと・・・残りますよね?」
「そうだろうね」
君孝はあっさりと言った。
「まだ何とも言えないけど、後遺症も残るかもしれない」
「美玖ちゃんは、知ってるんですか?」
「もちろん知ってるよ。受け止められない程の事実じゃない」
「案外、厳しいんですね」
「そうかな。美玖は行動の結果だとちゃんと受け止めてるよ」
優しく君孝はほほ笑んだ。
「分かってて・・・それでも、笑って僕を許してくれたんだ・・・」
「それは違うよ」
「え?」
「許すも何も、美玖自身が言っていただろう、自分勝手な行動を取ったって。吾妻さんも美玖の気持ちを分かってやってほしい」
美玖も君孝も自分達を気遣い、優しい言葉をかけてくれる。それに甘んじれるほど心の整理ができていなかった。特に月桂は、自分をかばってケガをした美玖に対し複雑な心境だった。
――― じゃあ、私の手ですんで良かった・・・
病室から聞こえた美玖の一言に月桂は息をのんだ。そんな言葉は聞きたくなかった。月桂自身、自分が刺されたほうがずっとましだったと思った。
しかし、そんなことを言う資格は自分にはないのだと自覚していた。
どうすれば・・・そればかり、ただ考えていた。