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エルフリートが執務室の扉を開けようとした瞬間、背後から声がかかる。
「よーせいさんこんにちは!」
可愛らしい挨拶に振り向けば、そこには小さな少年が立っていた。隣では荷物を持ったバルティルデが笑っている。
「こんにちは、小さな傭兵さん」
「今日もかわいいね!」
「ありがとう」
何度か会った事のあるこの少年――ロジェ――はバルティルデの子供だ。年に何回か会う程度だが、毎回大きく育っている気がする。
いつの間にか少年の身長はエルフリートの腹の位置を越えていた。彼とは離乳食を卒業するかどうか、といった時からの仲である。
「ぼく、大きくなった」
「うんうん。そうだねぇ」
ぴょんっと一度跳ねたロジェが背筋を伸ばして自分の身長を主張する。あまりに可愛らしい姿に、エルフリートの頬が更にゆるむ。
エルフリートは腰を屈めると彼を片手で抱き上げ執務室に向かう。すぐ近くできゃいきゃいと楽しそうに笑う少年の声がしていた。
「ロス、ただいまー!」
「ああ……ん? 途中で合流したのか」
エルフリートの声に反応して顔を上げたロスヴィータが、彼の腕の中にいるロジェを見て目を細める。
「王子様、こんにちは!」
「こんにちは、ロジェ」
ロジェはエルフリートの首にぎゅっと抱きつき、ロスヴィータに挨拶をしていた。
「王子様。ぼくね、大きくなったらよーせいさんをおよめさんにするんだよ」
何それ。エルフリートとロスヴィータは互いに視線を交わらせた。
「んん……? それは、初めて聞いたぞ」
「私も初めて聞いたよ!」
不思議そうな顔のロスヴィータに、エルフリートは嫌疑を否定した。そもそもロジェが思う“エルフリーデ”は存在しない。
それに……彼が大きくなる頃、エルフリートは三十近い年齢になっている。さすがのエルフリートも、中年に差しかかろうという年齢で妖精さんの姿を維持できるとは思っていない。
「王子様、ぼくによーせいさんをください!」
エルフリートの後ろにいるバルティルデが吹き出す音が聞こえた。直後に「遂に言ったか!」という笑う声も。
「お、おぉ……威勢が良いな。だが、私はそれを許可する立場にない」
「きょかするたちばにない……?」
ロスヴィータは戸惑いながらも落ち着いていた。子供相手に難しい言葉を使っているあたり、落ち着いてはいないのかもしれない。
聞き慣れない言葉を復唱するロジェに向かい、ロスヴィータは困ったような笑みを向ける。
「結婚というものは、お互いの気持ちがあってする事なのだ。だから、私に聞くのはおかしい。聞くのなら、フリーデに聞くべきだ」
「王子様は、よーせいさんとけっこんしないの?」
中々際どい質問である。背後ではバルティルデが腹を抱えて笑っているのではないかと思うような、苦しそうな呼吸音が聞こえてくる。もう、他人事だからって笑うなんて!
バルティルデに抗議したいエルフリートだったが、ロスヴィータと会話をするロジェを抱えたままだからそうはいかない。
エルフリートは文句を言いたい気持ちを、ロジェを抱え直す事で我慢した。
「私は別の人ともうすぐ結婚する。だから、フリーデとは結婚しない」
エルフリートたちに近づいたロスヴィータが、エルフリートの腕からロジェをさり気なく奪う。ロジェは残念そうな表情を一瞬見せたものの、大人しくロスヴィータの腕の中に収まった。
「さあ、聞いてごらん。私の妖精さんは優しいから、きっとお返事してくれる」
ロスヴィータがそう言いながらエルフリートを見た。彼女に抱えられたロジェが期待の籠った目でエルフリートの事を見つめてくる。エルフリートは中途半端な笑みを浮かべてその時を待った。
ロジェはじいっとエルフリートを見つめ、それから断られるとは思っていないだろう自信満々の声を発した。
「よーせいさん、ぼくが大きくなったらおよめさんになってくれる?」
「……ごめんね。私もロスと同じで、約束している人がいるんだ」
彼の頬を両手で包み込む。ふっくらとしていた頬が以前よりも丸みを失っていて、そこでもロジェの成長を感じた。
大きく見開かれたブラウンの目には、太陽のような虹彩が煌めいている。その黄金の輝きはエルフリートの返事を信じられないと訴えていた。
エルフリートは顔を近付け、柔らかな声を意識して話を続ける。
「妖精さんはね、大きな猫さんのお嫁さんになるんだよ」
「……ねこ…………」
ぶふっ、と汚い音が聞こえた。バルティルデがまた吹き出したらしい。バルティルデの子供をあやしているというのに笑っているとは、本当に失礼な母親である。
エルフリートは頭の中から彼女の事を追い出しながら、ロジェに真摯な対応を心がけた。
「そう。猫さん。素敵な人だから、今度会わせてあげる。きっとロジェも好きになるよ!」
「…………う」
あ、まずい。ロジェの目に水気が集まった。こういう時ってどうやってあやせば良いんだっけ!? エルフリートは思わずロスヴィータを見た。彼女は小さく首を横に振って、やれる事はないと示してくる。
「えっと、だから……」
エルフリートが最後のひと足掻きをしようとした瞬間、扉が開いた。
「――ごめん、もしかしてお取込み中?」
救世主現る、とはこういう事か。エルフリートは扉の向こうに立つ親友を見て目を瞬かせた。




