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第1話 初めての、オーケストラ

「もう、近藤先生ったらどんだけ生徒づかいが荒いのよ!」

 中間テストの補習を終えた私立湘南女子大学付属高校1年の坂本梨花は、先生からプリントを職員室に届けるように言われ、学年分のプリントの束を大量に抱えて階段を下っていった。

 1年生の教室は、今年度から新設された選択授業用の教室が入っている授業棟の3階にある。授業棟は、カリキュラムが細分化されて選択授業が大幅に増えたため、それまでの校舎——旧校舎——だけでは手狭になり、旧校舎の端に急遽増築された。

 校庭の運動場からは距離があるので静かなのはいいが、旧校舎の昇降口からすぐにある職員室からは、かなりの距離があった。

「私が部活入ってないからって、職員室に戻ってから茶道部の部室に行くのが面倒で私に自分の仕事押し付けて・・・」

 梨花が近藤先生への文句を言いながら廊下を歩いていると、通りがかった教室からいきなり大音量の音楽が聴こえてきた。

「うわっ! びっくりした・・・。これって、オーケストラの音?」

 梨花は突然鳴り響いた音に驚き、足を止めた。

「そういえば、新入生オリエンテーションのときの部活紹介で、管弦楽部ってのがあったような・・・」

 中学の時と同様、高校でもどの部活にも入らない“永遠の帰宅部”を標榜している梨花にとって、どういう部活があるかはどうでもいいことだった。しかも、梨花はオーケストラと吹奏楽の区別もままならない、完全なる“音楽音痴”だった。

 そして、教室の出入り口の上の方に表示されている、教室名が書かれた廊下に突き出ているプレートを見上げる。

「第1音楽室か・・・。そっか。私は芸術の選択は書道だからこんなところに音楽室があるの知らなかったけど、音楽は音が出るから、選択授業の移動教室とは別で、旧校舎のこんな端っこの方にあるのね。それにしても、この曲は何なの・・・。低音がビンビン来て、メタルのバラードみたいじゃない。でもこれ、映画音楽でもなさそうだし、多分クラシック・・・よね?」

 梨花は足を止め、プリントの束を抱えたままその場に座り込んで演奏に聴き入った。

挿絵(By みてみん)

 しばらくすると、音楽は一旦静かになった。

「変な終わり方だな」と思って梨花が立ち上がろうとすると、再び重低音がズン!と鳴り響き、アップテンポになった音楽は軽快に進んでいった。

「なんだ、まだ続くんじゃん。それにしても、さっきまでと随分と音楽の雰囲気が変わったわね」

 音楽は、その後も静かになったり大きな音になったり、テンポが遅くなったり早くなったりを繰り返して行った。

 その音楽の激しい起伏の中で、梨花の気持ちは次第に高まっていった。

「それにしても長い曲ね。かれこれ10分以上、そろそろ15分近くになる・・・。それにしても、どうしてハッキリしたメロディーもない曲なのに、こんなに気持ちがザワザワしてくるんだろう・・・」

 梨花がスマホで時間を確認していると、音楽は次第に静かになっていき、どうやら今度こそ本当に曲は終わったようだった。

 家に帰ったら、今の曲をもう一度じっくりと聴きたくなった梨花は、曲名をどうしても知りたくなった。

 梨花は、ちょっと迷ったが、音楽室の出入り口のドアの取っ手に手を掛けた。

 そして次の瞬間、勢いに任せてそのドアを横に引き、ノックもせずに開けた。

 <やっちゃった!>

 つい衝動的に行動してしまい、その直後に「またやった」と後悔するのは彼女の悪い癖だった。

 音楽室のドアを開けたまま梨花が立ち尽くしていると、その中には数十人、少なくとも6、70人の生徒が様々な楽器を持ってパイプ椅子に座っていて、自分の方を一斉に見ていた。

「何よ、あなた、ノックもせずいきなり・・・」

 数段の列に分かれて座っている生徒たちの、その正面に立って白い指示棒を持った女生徒が、訝しげな表情で梨花に声をかけてきた。

 梨花は、彼女のそんな言葉もお構いなしに、大きな声を張り上げた。

挿絵(By みてみん)

「すみません! 今の・・・今演奏していた曲は、何ていう曲ですか?!」

 いきなりの梨花の質問に、その女生徒は一瞬たじろいだが、

「え、今の曲名? 今の作品はブラームスの交響曲第1番の・・・」

 梨花と応答している生徒が「その第1楽章」と言い掛けたところ、またもやそんなことはお構いなしに質問を続けた。

「ブ、ラー・・・ムス? 何ですかそれ? 外国のバンド名か何かですか?」

 梨花の言葉に、女生徒の表情が歪む。

「・・・はい? ば、バンド名・・・? あのね、あなた、もしかして作曲家のブラームス知らない?」

「はい、全く! そのブラなんとかって、有名な人なんですか?」

 梨花の質問に、件の生徒は「ふぅ・・・」とため息を付き、言葉を続けた。

「有名もなにも・・・。ヨハネス・ブラームスは、バッハとベートヴェンの伝統を受け継いで、彼らとともに『ドイツ3大B』と呼ばれる19世紀後半のドイツ・ロマン派の作曲家でしょうが。《ハンガリー舞曲集》や《ブラームスの子守唄》はあなただって聞いたことがあるはずよ。中学の音楽の授業でも習う基本中の基本の作曲家なんだから、もっとよく勉強しなさいね」

「へー、そうなんですか! 私、音楽とか疎くて。クラシック音楽も全然聴いたことなかったんですけど、今の曲には感動しました! それで、どうしても・・・曲名だけでも知りたくて」

「クラシック聴いたことないのに、ブラームスの交響曲第1番を始めて聴いて価値を見い出したことは褒めてあげるわ。それにしても、ブラ1の第1楽章で感動って、珍しい人ね。もっと盛り上がる箇所ならまだしも、普通こんな重い第1楽章で・・・」

「盛り上がるところ、ですか?」

 梨花は首を傾げた。

「そうね・・・。終楽章の後半とか?」

「シュウガクショウ?」

 梨花は、終楽章の意味が分からなかった。

「第4楽章のこと。フィナーレとも言うわ。この頃までの交響曲はほとんどそうだけど、この交響曲も第1楽章から第4楽章まであるのよ」

「それで、その盛り上がるところって、どの辺ですか?」

「どの辺て・・・。そうねえ。演奏にもよるけど、終楽章の展開部は最初から35分から40分程度過ぎた辺りね」

 抽象的な話しをしても理解してもらえないと悟った女生徒は、具体的に話を進めていくことにした。

「35分から40分!? 40分も・・・そんなに経って、まだ盛り上がる箇所がその後に続くんですか? これって、そんなに長いんですか!?」

「長い・・・? まあ3分や4分そこらで終わるポピュラー音楽と比べれば長いかも知れないけど。この交響曲は全部演奏すれば、45分はゆうにかかるわ。けど、この交響曲が終わった頃にようやく終楽章が始まるベートーヴェンの『第九』よりは余裕で短いし。長さだけで言えば、ロマン派の交響曲ならこれくらい普通よ。この交響曲より少し後、ブラームスが亡くなる4年前に作曲されたドヴォルザークの《新世界より》や、チャイコフスキーの《悲愴》交響曲も同じくらいの長さだしね。もっとも、演奏によっては50分以上かかる場合もあるけど・・・」

「ご・じゅ・っぷん・・・! 1曲でそんなに長いんですか?」

「そうよ。ここで交響曲の何たるかをあなたに言っても仕方なさそうだけれど、簡単に言えば、そいういうことになるわね」

「わかりました・・・。それじゃあ、練習中、お騒がせして失礼しました!」

 梨花は大きく頭を下げながらそう言い、音楽室を出ていこうときびすを返した。

 ところがその時、

「待って! その制服のリボンの色・・・あなた、1年生よね。何組の、誰さん?」

 今まで梨花と受け答えをしていた生徒とは違う、ガラスのように透き通った声色が音楽室に響く。

「私、ですか? 私は1年C組の坂本梨花です。では!」

 梨花は、自分が尋ねられたことだけに答えると、音楽室を後にした。

「・・・不思議な子ね・・・。確か1年C組と言えば、クラの畑中さん、あなたC組よね? 今の子、知ってる?」

「はい、もちろんです。クラスではあまり目立つ方ではありませんが、まあ、あの容姿ですから。隠れファンも結構多いみたいで・・・」

「そう。・・・それじゃ、畑中さん。明日の放課後、彼女を部室に連れて来てもらえるかしら? この時間にこの辺うろうろしてるってことは、どうせ部活には入ってないんでしょう?」

「はあ、多分・・・」

「オッケー。それじゃあ、練習に戻りましょう。もう一度、初めから仕切り直しね。瀬川、もう一度頭から指揮してもらえる?」

「分かった。それじゃ、もう一度最初からいくけど、弦はエスプレッシーヴォよりもレガートを心がけ、弓を全体的に使ってたっぷりと鳴らして。それから、一般的な演奏より速めの速度だから、遅れないように。特に、ティンパニをボーッとして聴いてると遅れるから気をつけて。ザンデルリンクの録音は忘れて。あと、コントラバスは八分音符をテヌート気味に。最初の方はダウン、アップの繰り返しだけど、弓を返すときにアクセント気味にならないように注意。で、八分の九拍子のクレッシェンドは、音量を落とさずそのままクレッシェンドして。それから・・・」

 指揮者は、様々な演奏上の注意をそれぞれのパートに伝えていく。指示を受けた奏者は、自分の楽譜にその指示を書き込んでいく。

 オーケストラの練習は、基本的にはその繰り返しだ。

 指揮者の頭の中には、演奏曲の全体的なイメージが入っているが、各演奏者の頭の中は、基本的に自分に与えられた楽譜をどう音楽で表現するかしかない。問題は、そのイメージが指揮者と演奏者とで合っているかどうかよりも、楽曲の全体的な響きの中でマッチしているかが重要なのだ。だから、指揮者は全体的な響きを聴き、それぞれの奏者の演奏が全体の響きへと融合するように微調整していく。それは唯一の正解も明確なゴールも設定されていない、途方もない作業なのである。


(つづく)

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