[EP1-5] 宵闇の精霊
夜の静けさがアリア邸を包み込み、外からは遠く波の音が微かに響き、眠りへと誘うようなゆるやかな空気が流れている。
一人、ベッドの端に腰を下ろし、じっと考えを巡らせていた。
今日の会議のやり取り、明日に控える会合──次々と頭をよぎっては消えていく。
そんな思考の渦の中、不意に心の奥に染み込むような馴染みのある声が響いた。
《……また眉間に皺だぞ。寝る前くらい気を抜け》
男とも女ともつかぬ、不安定で低く、澱んだ声。
その響きに優しさはない。
ただ掘り返すように問いかけ、心の奥底をさらってくる。
この声にレイヴンは慣れていた。
物心ついたときから、彼は己の内に“何か”がいると感じていた。
彼の左腕に刻まれた烙印と共に現れるその声の主こそ、「精霊——シャドウ」。
ゴードンが語ったところによれば、レイヴンが生まれたその夜、セントラル橋付近の地下神殿の崩落と共に、アリア家の者たちは姿を消し、彼だけが残されたという。
残されたのは、赤子一人。
その左腕に刻まれた忌まわしき印と――そして、他の誰にも聞こえない、この声だけだった。
「……放っとけ。お前が喋ると余計に頭が働く」
《そうやって、なんでも私のせいにするのだな。まったく、幼い頃から変わらんな》
「お前が出しゃばらなければ、もう少しまともに育ったさ」
《ほう……それも一理あるな。だが現に君の心に私はいる。過去に起きた事象など消せぬものよ》
この声は、いつだってそうだ。
突き放すように、茶化すように言いながら、けして離れず、気づけば傍にいる。
「過去は変えられない、父さんや母さん、姉さんは……もう戻らない」
ぽつりとこぼれた言葉は、夜の静けさに溶けていくようだった。
胸の奥にわずかな痛みが浮かんでは、何も言わずに沈んでいく。
《……おぉ、それでこそ陰気坊や。しんみり語る姿も様になってきたな。》
「……からかうな。」
《だがまあ、心配はしている。
君の顔が引きつったまま会議に出ては、他の国の長が逃げ出すやもしれんぞ》
「それは助かるな。議論する必要がなくなる」
《はは、それも一つの戦略というやつか? おそろしい陰気外交だな》
レイヴンは口の端をわずかに動かし、ふっと短く息を吐いた。
それは笑いとも溜息ともつかない、ごく小さなものだった。
《明日は明日の風が吹くというしな。明日は君の観劇、楽しみにしているぞ》
「観劇……お前、本当に趣味が悪いな」
《ふむ。ならば今夜は、何も言わず黙っていてやろう。
眠れ、レイヴン。……その身体が保たねば、幕も開かぬ》
それきり、声は静かに途切れた。
重くもなく、あっけなくもなく──まるで灯りがふっと消えるような静けさだった。
レイヴンは目を閉じ、ゆっくりと、深く暗い眠りへと落ちていった。
家族の消息は不明のまま──アリア家の長子として、幼きレイヴンに残されたものは家の責務と、
そしてもう一つ内なる“声”の主である『精霊』だけでした。
おそらく彼の幼少期は、誰にも頼れぬ孤独な日々だったのでしょう。
けれど、執事ゴードンの献身や、稽古仲間シレイとの縁、
そして領主として様々な人と関わる日々の中で、
彼は少しずつ「今」を生きる術を得ていったのだと思います。
次回はEP2に移ります。
記録の著者、レスターの記録を切り抜いた形でお届けします。
最初の人類と呼ぶ彼らを、レスターはどう感じたのか。
どうぞ、よろしくお願いします。