[EP.5-7]夜明けの離岸
夜の海を裂くように、獣じみた咆哮が叩きつけられた。
「くそがァ!! ヒュムの分際で、この俺に歯向かいやがったなァ!!」
月明かりに照らされた鱗が鈍く光り、ダルクの巨体が砂を踏み砕く。
岩を砕くほどの膂力が、ためらいもなくレイヴンへと伸びた。
避ける暇などなかった。
胸元を掴まれた瞬間、外套ごと引き剥がされるように肩が鳴った。
身体が宙に浮き、視界が跳ねる。 海と空の境界がぐらりと反転した。
「……っ、がは――!」
肺から空気が絞り出される。
酸素が遠ざかるにつれ音が薄くなる。
波の音も、仲間の声も、網膜越しの出来事みたいにぼやけていく。
それでもダルクは嗤った。
月光を浴びた鱗の陰影が笑みの形だけを強調する。
「ヒュムにしちゃよく動いたが、威勢がいいのは最初だけか?! このままぶっ殺してやる!」
指が喉に食い込む。
空気が遮断され、耳鳴りのような音だけが頭の奥で広がっていく。
――このままでは、死ぬ。
その感覚だけが、異様に鮮明だった。
レイヴンの足が宙を蹴る。
反射で蹴り返しても、竜人族の肉体は岩のように揺れない。
世界が、力という単純な理屈に押し潰されていく。
「レイヴーーンッ!!」
視界の端で、シレイが飛び込もうとして竜人に押し返されるのが見えた。
ギーグの術の気配が走りかけ、何か球体状のものに吸収されて霧散していく。
届かない。近づけない。
——セレンは少し離れた場所で立ち尽くしていた。
砂の上に縫い付けられたみたいに足が動かない。
目の前で仲間の命が握り潰されようとしているのに、体が言うことを聞かなかった。
胸の奥が冷えて、手のひらが汗で濡れる。
(……今、動けるのは――私だけ)
その瞬間、胸の奥の奥から声がした。
《行って、どうするの?》
子どもの声。けれど、あの洞窟の冷たさを帯びた声。
(……フェイルーン)
《レイヴンのあの様、見てたでしょ? 竜人の力……君が行っても溶岩に水。
返り討ちに合うのが目に浮かぶよ。 ……だから、僕の力を使って"仲間"を助けようよ!》
足首に鎖が絡みつくみたいな言葉だった。
(……私は、彼を、レイヴンを助けたい)
心の底から、その一語が浮かんだ。
怖い。 足が震える。 けれど、それでも。
《いいよ、やろうよ!》
声が弾む。喜びに似た温度が混じる。
子どもが新しい遊びを見つけた時の、あの軽さ。
《それも選択だよ、欲しがり! 奴らの下卑た口を、二度と聞けなくなるまで暴れようよ!
僕の風の刃、セレンもこの切れ味をよく知ってるよね?
ほらほら、早くしないとあの子、死んじゃうよ! だから……僕を”謡え”よ!!》
頭の内側に風が吹き荒れる。
鼓膜の裏で羽音がするみたいにざわざわと空気が暴れ始める。
身体の内側が軽く、浮き上がりそうになる。
セレンは息を吸った。
冷たい夜気が肺に刺さり、痛みが逆に意識を澄ませた。
(……ヒトが傷つきあうなんて間違ってる)
《なら――!!》
(でも、私は私自身のやり方で、頑張って止めてみようと思う)
《……あ?》
フェイルーンの声音が僅かに尖る。
セレンは、心の中で言葉を形にした。
(力でねじ伏せるんじゃなくて、別の方法で止める道があるって、あなたに示したい。
いつかあなたが、ヒトのことを知ろうと思える日まで……待ってて。
だからヒトを拒絶しないで。 私があなたを“守れる強さ”に届くまで)
《な、何を言って――》
足が一歩前に出た。
二歩、三歩。 砂が沈み、靴の裏が濡れる。
怖さが背中を掴む。 それでも、前へ。
「だめだ嬢ちゃん! 出てくるんじゃねぇ!」
シレイの怒鳴り声が背中に刺さる。
だが、その瞬間、フェイルーンの声色が変わった。
煽りの軽さが剥がれ、焦りが滲む。
《待って! ——無謀だよ! 殺されるかもしれないのに! 引き返せよ!》
――それが答えだった。
セレンは走りながら理解した。
フェイルーンは「暴れる口実」が欲しかっただけではない。
契約した相手が、ここで潰れるのが“嫌”なのだ。
答えはもう、走り出した足そのものだった。
月明かりの下で、彼女の影が砂浜を切り裂く。
“力”ではなく、“止めるため”に——彼女はそこへ向かっていった。
(間に合って、お願い!)
ダルクは当然、セレンを脅威として見た。
首を回し、“次に潰すもの”を測る目になる。
「ヒュムの女? 近づくな」――言葉にするまでもない。
レイヴンの体を盾にするか、あるいは尻尾で薙いで距離を取る。
何にせよ“制圧して終わり”だ。
セレンは両手を上げた。
空っぽの掌を月に晒すように。
そして――大きな声で言った。
「あなたの、名前を教えてください!!」
砂浜に奇妙な沈黙が落ちた。
竜人たちが一拍遅れて顔を見合わせ、ダルクが間抜けに吐いた。
「……は?」
喉を絞められていたレイヴンですら、その瞬間だけ目を見開いた。
戦いの最中に、場違いな言葉が突き刺さったのだ。
セレンは息を整えない。
震えたまま、言葉を続ける。
「私はセレン。 あなたが誰で、何を背負ってここに立っているのか――教えてください」
ダルクの握力がわずかに緩む。 想定がずれた。
敵が刃ではなく“名”を差し出してくる。
その一瞬の遅れが命綱になる。
「おいおいシスター、てめぇ目がねぇのか?
いつから戦いの場で懺悔室をやり始めたんだ? グァッハッハ!!」
「ですから、こんな場面だからあなたを止めたい。
そして、あなたのことを教えてください。 何も知らないまま――死にたくないから」
嘲笑が弾ける。 だが、その笑いの奥でダルクの視線がふと逸れた。
――闇の斜面。 白い点が複数揺れている。
松明か。翼の反射か。羽音が風に混じって届く。
(……ハーピィ兵……!)
レイヴンの脳が焼ける喉の痛みの奥で走った。
ダルクは舌打ちする。
「……ちっ。時間を取られた!」
そして、レイヴンの身体が投げ捨てられるように飛んだ。
「ぐっ……!」
砂に転がり、喉に空気が戻る。
血の味が口いっぱいに広がり、咳が止まらない。
セレンが飛び込んで肩を掴んだ。
「レイヴン! 大丈夫ですか?!」
「てめぇら引き上げだ。あいつらに見つかると厄介だ!」
ダルクが部下に吐き捨てる。
「ハーピィどもがなんで海側に来てんだぁー?! ……兄貴、こいつらは?」
「んなやつら構ってられっか! 船を出せ!」
「あ、アイアイサー!」
ダルクたちは船に乗り込む。 離岸の準備だ。
だが――レイヴンたちもここに残れない。
斜面から近づく羽音はすぐそこまで来ている。
逃げ道は、いま動いているその船だけだった。
レイヴンは喉を押さえながら、セレンを見る。
怒りでも感謝でもない、言葉にできない何かが胸に詰まる。 ――だが時間がない。
「ダルク! 俺たちも乗せろ!」
シレイが叫ぶ。
「はぁ?! この船は3人乗りなんだ、ふざけたこと言ってんじゃねぇ!」
「てめぇもふざけたこといってんじゃねぇ! 道中のヒュムはお前らの仲間だろ!
俺たちも今、ハーピィに見つかるとやべぇんだ! 頼む!」
「構うな、出せ!」
「くそっ……一か八かだ!!」
シレイはレイヴンの肩を担ぎ、セレンの腕を引っ掴み、
ギーグの襟首までまとめて引きずるように走った。
甲板へ跳ぶ。 着地と同時に船体がぐらりと傾き、波が船腹を叩いた。
「お、おがっ?!?! 沈むぅ! 沈んじゃうよ兄貴ぃ!!」
「てめぇシレイぃ!! あ"あ"あ"あ”くそがぁ!!
風は乗ってる! エアブかませ、エアブ!!」
「アイアイサー!」
帆が上がり、夜風を掴んだ瞬間。
船はぎくりと身を震わせ、一気に海面を滑り始めた。
光ある方――日のもとへ向かって
セレンは息を切らしながら振り返った。
暗い浜辺が遠ざかり、松明の光が点に変わっていく。
その胸の奥で風が小さくざわめいた。
《……バカだね》
フェイルーンの声。怒りでも嘲りでもなく――どこか、震えた声音。
セレンは返さない。返せない。
ただ、濡れた掌で胸元を押さえ呟いた。
「……バカでいい。今は、生きてるから」
夜明けの海が船を呑み込むように包んだ。
エアブ(通称:エア・ブースト)
帆に織り込まれた魔術回路が風と反応し、推進力を得る航行補助機構。
船底に備えた弁から溜め込んだ風を瞬時に放出することで、短距離の急加速・緊急離脱が可能となる。
また、荷車の補助推進や簡易揚力装置など、日常用途への応用例もある。




