[EP.5-6]海はかく語りき
夜の山を下る足音は、次第に波の音に溶けていった。
ノルヴァン山岳の斜面を抜けた瞬間、視界がふいに開ける。
その先に広がっていたのは――海だった。
雲間からこぼれ落ちる月明かりが、波の縁だけを淡く縫い留めている。
闇に沈みきらない輪郭。
冷えた風が潮の匂いを運び、頬を静かに撫でていった。
「……これが、海……」
セレンの声は、夜に溶けそうなほど小さかった。
「静かで……風が、気持ちいいですね」
「なんでぇ嬢ちゃん、海を見たことなかったのか?」
シレイが少し驚いたように振り返る。
「はい。ずっとマザーと教会で一緒に暮らしていましたから。
本の中や、参拝者様のお話で……素敵なものだとは聞いていましたけど……」
言葉を探すように、セレンは波打ち際を見つめる。
「……想像していたより、ずっと……怖くて、でも、きれいです」
「夜、海を征く修道女……こりゃ絵になるのぉ。 むほっほっほ!」
「なに想像してんだ、あのじいさんは……」
シレイの呆れた声に場の空気がわずかに緩んだ。
その余韻の中でセレンがふと首を傾げる。
「でも……どうしてこの世界には海があるんでしょうか?」
「ははっ! なんだそりゃ! 理由は知らねぇけどよ、魚が生きるためじゃねぇのか?」
「そ、そんな単純な理由なんですか……?」
「コイツの言っておることはでたらめじゃ。気にせんでよい」
ギーグは咳払いをひとつしてから低く言葉を継ぐ。
「理由を与えようが与えまいが海はそこに在り続ける。
誰かの都合で生まれたわけでも、意味を持つために存在しておるわけでもない
……それだけのことかもしれんの」
一拍置き、続ける。
「それでも、人はそこに意味を見出そうとする。 海を渡るために。
あるいは何かを越えるために……かもしれんの」
セレンはその言葉を胸の内で転がすように、静かに頷いた。
「……理由がなくてもそこに在るもの。 それでも、向き合わなければならない時があるんですね」
その横顔を横目にレイヴンは海から視線を外せずにいた。
(……海、か)
――アリアの港。
潮の香りは同じだった。
だが、あの港を吹き抜ける風はどこか温かかった。
帰る者と送り出される者。
交わされる言葉と、約束と、そこには確かに“明日”があった。
ここには何もない。
あるのは岩肌と冷えた砂とさざ波が夜に反響する音だけだ。
それでも――海は、海だった。
どれほど遠くへ来ようとも、どれほど道を違えようとも、
世界はどこかで繋がっていると否応なく突きつけてくる。
レイヴンは無意識のうちに一歩、波打ち際へ踏み出していた。
足元で砕ける波が靴を濡らす。
(……必ずアリアに戻ってやる)
彼は小さく息を吸い込み、夜の海を正面から見据えた。
―――
やがて海岸線がわずかに湾曲し、岩陰に隠れるような入り江が姿を現した。
波はここだけ穏やかで、外海のうねりが嘘のように静まっている。
その奥――月明かりを受け、黒い影が海に浮かんでいた。
「……船だな」
シレイが、喉の奥で押し殺すように呟いた。
波打ち際に寄せられた黒塗りの小型船。
帆は畳まれ、甲板にも船体にも灯りは一切ない。
夜の海に溶け込むような色合いは、意図的なものだ。
船腹には無数の擦過痕。
岩場への接岸を繰り返した痕跡だろう。
砂浜には複数の足跡が錯綜し、人の出入りが頻繁だったことを物語っていた。
ギーグが顎髭を撫で低く唸る。
「商人どもので間違いなさそうじゃな。
じゃが……妙じゃ。見張りも置かずに船を放るなど、あまりに不用心じゃないか?」
「お蔭で船が手に入るなら上等だろ。 んで、この中で船動かせるやつはいるのか?」
その問いに答える声があった。
「それなら俺たちが連れてってやるよ。 ……フィレーナへな」
船内、船倉へ続く扉が内側から――ゆっくりと、軋む音を立てて押し開かれた。
月光の縁にまず現れたのは角だった。
太く、後方へ反り返る二本の角。
続いて緋色の鱗に覆われた肩。
引き締まった体躯、金色に光る双眸。
二メートルを優に超える巨躯が、砂浜へ一歩降り立つ。
竜人族――。
そしてその背後から一人、また一人と姿を現す。
全員の肩に刻まれている紋章は同じ。
交差する竜と炎。――竜人の国フィレーナの印。
「お、おまえはダルク……!」
シレイの声がわずかに掠れた。
名を呼ばれた竜人は足を止め、ゆっくりと口角を歪める。
「聞き覚えのある声だと思ったら、シレイじゃねぇか」
軽く腕を広げる。
歓迎の仕草――だが、その目は笑っていない。
「元気そうじゃねぇか。――なぁ?」
次の瞬間、鈍い音が夜の海辺に響いた。
ダルクの拳が正確にシレイの鳩尾を打ち抜いていた。
「――っが……!」
息が一気に吐き出され、シレイの身体がくの字に折れ砂浜に膝をつく。
拳を引き、ダルクは低く吐き捨てる。
「裏切りモンが、俺の前にノコノコ現れてんじゃねぇよ」
ギーグが声を荒げた。
「なんじゃ?! お主ら同族じゃろうに!」
「手ぇ出すな……!」
シレイが息も整わぬまま叫んだ。
「……お前らじゃ……敵わねぇ……!」
背後の竜人たちが一斉に距離を詰める。 逃げ場はない。
ダルクの視線がゆっくりとレイヴンたちをなぞった。
「……ハーピィを連れてこいって話だったが、まさかヒュムとシレイが出てくるとはな。
シレイ、久々にオヤジに顔みせてけや。 ――俺も寂しかったぜ?」
「兄貴、どうするんすか?」
シレイに向き直る。
「シレイ、お前はあの山から下りてきたんだよな? ――敵国ウィンダからよ。
仲良しごっこでもしてたのか?
ならよぉ、てめぇのお友達を俺たちの国に一人や二人、連れてきてくれないか?
昔みたいに、鳥を捕まえるのは容易いだろ?」
シレイが声を荒げる。
「……一体、何を考えている?! フィレーナは何が目的なんだ!」
「何も変わらねぇよ。 俺たち竜人族がこの世界を統治するってんだよ」
声が低く落ちる。
「"ヒュムの統治"する世界……法と宗教で世界を回してきた結果が――アルシェンだ。
……ヒトの統治には限界がある」
シレイが噛みつく。
「だからって、力で縛りつけた世界が正しいわけがないだろ!」
「正しいかどうかじゃねぇ。 生き残るための手段だ」
そして最後にこう言う。
「シレイ。 俺はまだお前を同胞だと思ってる。 だから選ばせてやる。
竜人として生きるか、“次に滅びる側”になるか」
ダルクが足を踏み込む。
低く、抑えた声でレイヴンが前に出た。
「愚図の話に耳を貸す必要はない。 ――その足をどけろ。 俺の友だ」
竜人の一人が嘲るように笑う。
「なんだその反抗的な目。 ヒュムが俺たち竜人族に逆らう気か?」
「そうする!」
砂浜を踏みしめる音と波が砕ける音が重なった。
その一瞬――レイヴンの中で判断はすでに終わっていた。
狙いは上半身じゃない。
斧を振り上げる気配すら見せず、姿勢を低く保ったまま距離を詰める。
右腕に走る鈍い痛みを無視し握り直す。
(この痛みなら、大丈夫だ)
それはシレイとの稽古で、身に着けてきた戦術だった。
レイヴンの視線は自然と足元に落ちていた。
砂をえぐるように踏み込み、足元へ斧を滑り込ませた。
「ぐおお――っ!」
刃は脛の外側を浅く裂き、鱗と筋の隙間を正確に捉える。
致命傷ではない。
だが、ダルクの体が一瞬、前へ流れた。
「今だ!」
レイヴンはその流れに密着するように潜り込む。
肩を叩きつけ体重を預ける。
右腕が悲鳴を上げる。だが――止まらない。
拘束されていたシレイを弾き飛ばす。
「下がれ!」
「チッ……! すまねぇ坊!」
シレイが距離を取った、その直後。
砂を踏みしめる音が――先ほどよりも、明らかに重く響いた。




