[EP.5-2]間隙のスウィープ
柔らかな布がゆっくりと指先へ戻ってくる感覚と一緒に意識に染み込む。
長く潜っていた深海からようやく水面へと上がるような、ぼんやりとした浮遊感。
真っ先に気づいたのは――痛みがあった。
右腕。
肘から先が脈に合わせてずきりと疼き、火種のような熱が皮膚の奥で息づいている。
包帯は丁寧に巻かれ、薬草と油の匂いがかすかに鼻を刺した。
ゆっくりと指を曲げる。
痛む。だが――動く。握れる。
(大丈夫だ……剣は握れる)
その事実だけで、胸のどこかが温かくなる。
遠くで弦の音が鳴っていた。
誰かが弾きながら朝を迎えている――そんな穏やかな世界だった。
天井は木組みで高く、朝靄のようなやわい光が差し込んでいる。
焚き残りの薪は赤い鼓動を打ち、室内だけはふんわりと温かい。
視線を横に滑らせると――寝台横の床でセレンが身を縮めて眠っていた。
疲労で目の下は淡く影を落としているのに、安堵した寝息だけは穏やかだった。
みんな、生きている――
レイヴンがわずかに身を起こした気配で、セレンはぱちりと瞬きをした。
目が合った瞬間、ひびの入ったガラスのように張りつめたものがすっと溶けた。
「レイヴン……っ、目、覚めたんだね」
声は涙の縁で震え言葉が続かない。
笑いかけるのか泣くのか、自分でもわからない表情で彼女は息を詰めた。
その声に答えようとするが、喉は錆びついた鎖のように重い。
それでも時間をかけて、ゆっくり声を出す。
「ここは……」
セレンは袖で涙を押さえ息を整えて答えた。
「ここは山岳地帯の……第三フィーネ教会。 あなた、二日間も眠っていたのよ」
二日――
その時間の意味が遅れて胸に沈んだ。
「二日も……心配かけて悪かった。 ありがとう」
「血を長い間流していたし、
あの黒騎士とフェイルーンの戦いであまり休めなかったから、体が限界だったのよ。
……だから、目を覚ましてくれて本当に良かった」
レイヴンは何か言いかけて――言葉を飲み込んだ。
(……今は言うべきじゃない)
脳裏をよぎるのは、あの虚空の円卓。
シャドウの――“器としてのセレン”という言葉。
その思考に重なるように、頭の奥で低い声が響いた。
《あの時の夢――いずれも虚構ではない》
冷静で、感情の揺れのない声。
《だが、結論を急くこともない。 私の世迷言より先に、まずは現状を見極めろ》
(……世迷言って。 随分と都合のいい助言だ)
皮肉は胸の内にしまい込む。
そのとき―― 部屋の外から甲高くよく通る声が飛び込んできた。
「こむすめぇー!! まだ終わっとらんのかぁ! はよう戻ってこんかーい!!」
「は、はいっ!! すぐ行きますー!!」
彼女は慌てて立ち上がり、レイヴンを振り返る。
「ごめんなさい。 今はゆっくり休んでて」
そう言い残し、足早に部屋を出ていった。
扉が閉まり静寂が戻る。
が、それは長くは続かなかった。
レイヴンは小さく息を吐き寝台の縁に手をつく。
右腕が抗議するように痛むが――耐えられる。
(休んでる場合じゃない)
確かめることは山ほどあった。
彼は立ち上がりセレンの後を追うように部屋を後にした。
―――
第三フィーネ教会の礼拝堂は山岳地帯にしては驚くほど温かかった。
分厚い石壁に囲まれた内部は外の冷気を拒むように静まり返り、
長椅子の木肌には長年の染みが物語っている。
祭壇の前に立っていたのは――ハーピィ族の老婆だった。
背は低く、羽根はすっかり色褪せている。
翼は年季の入った外套に無理やり収められ、頭巾の隙間からは歳月を重ねた金の瞳が覗いている。
杖代わりに使っているのはどう見ても“ただの太い枝”だった。
老婆はレイヴンを一瞥すると、間を置かずに言い放った。
「……おめ、新人の神官だな?」
「……え?」
間抜けな声が漏れる。
(どこをどう見たらそうなる)
「こんな山で倒れる神官がどこさ居る。 情けねぇ」
レイヴンは一瞬、言い返そうとして――迷い、結局、反射的に頭を下げた。
「ど、どうも。この度はご迷惑を――」
「教本は持ってきておるんだべな?」
「……教本?」
噛み合わない。
会話が根本から噛み合っていない。
「はぁ……これだから最近の神官は。
神の言葉も背負えねぇで、何をしに山さ登ってきたんだか」
「いや、ちょっと待ってくれ! そもそも俺は――」
声を荒げかけた、その瞬間。
「マザー!」
澄んだ声が割って入った。 セレンだった。
「礼拝堂の清掃、終わりました!」
「おぉおぉ、シスター・セレンか。 お前さんは本当、しごできじゃのぉ」
途端に声音が柔らぐ。
露骨すぎるほどの差だった。
セレンは一礼し、レイヴンを手で示す。
「こちらの方は、その……道中まで護衛してくださった方です。 神官の方ではありません」
「ほーん?」
老婆は改めてレイヴンを見上げ、値踏みするように目を細めた。
「用心棒が怪我してどうすんだ。 ……その仕事、向いてねぇんじゃね?」
ぐさり、と刺さる。
助かった安堵と同時に、妙に心が削られた。
反論する気力も訂正する気力も失せた頃、老婆は興味を失ったように手を振った。
「まぁ神官じゃねぇなら働け」
そう言って親指で外を指す。
「裏で薪割りしてこい。 ……その腕、動くんだべ?」
一瞬、疼きが走る。
だが――動く。使える。
「……分かりました」
「よし」
それだけ言って、マザーは背を向けた。
「セレン、あとで手ぇ貸せ。 洗濯が山みてぇに溜まっとる」
「は、はい……」
そうしてレイヴンは、半ば押し出されるように礼拝堂を後にした。
背後で扉が閉まる音を聞きながら、彼は小さく息を吐いた。
(……アリアの領主館より疲れるな、ここ)




