[EP.4-10]風の目
意識の奥が、白い靄に包まれていく。
風が頬を撫で、草の匂いが鼻をくすぐった。
柔らかな光がまぶたの裏で揺れ、心臓の鼓動だけが遠くで微かに響いている。
――風の音が、こんなにも穏やかだっただろうか。
視界の端に、見慣れた執務室が滲む。
机の上には、まだ温もりを残したマグカップ。隣には、一枚の写真。
曖昧な輪郭の中で、鮮明なのは幼い自分の姿だけだった。
部屋の暖炉の上には肖像画。
そこに描かれているのは“父”と“母”、そして“姉”。
どこにも、自分の居場所はない。
写真をもう一度、そっと手に取る。
指先が触れた瞬間、ぼやけた背景に黒い影が滲み出た。
それは煙のように揺らめきながら形を変え、やがて自分の輪郭と重なっていく。
黒が光を侵し、白が闇を呑む。
境界が溶けていくその狭間で、誰かの声が囁いた。
《……起きて》
その声が遠くの光を引き寄せる。
そして世界は再び、現実の輝きに滲みはじめた。
―――
「……レイヴン! レイヴン!」
――セレンの、声がする。
重たい瞼を押し上げると、すぐ目の前に彼女の顔があった。
「よかった……! 目を覚ましたんですね!」
「ああ……っ、ぐ……!」
上体を起こそうとした瞬間、右腕に鋭い痛みが走る。
息を呑み、腕を押さえるレイヴンを見て、セレンは慌てて制した。
「今は安静にしてください! 一番血を流しているんですから!」
布が腕にきつく巻かれている。
そこに滲む赤を見て、ようやく彼はそれが何なのかを理解した。
「……この布、まさか……」
セレンは一瞬だけ目を逸らした。
「あなたの腕が、あの槍で裂かれていたから。私の袖を……裂きました」
右腕の黒い修道服の布地は、血を吸って深紅に染まる。
裂けた袖が風に揺れ、彼女の白い腕が露わになっていた。
「……助かった。君がいなければ、もう動けなかったかもな」
「当たり前です! 困っている人を放っておけるシスターがどこにいます?
でも、腱や骨に至っていないようなので、よかった……」
「ユノスを前にしてこの程度で済めば、おつりがくるさ」
「もう! そんな悠長なこと言ってないで!」
セレンが顔を赤らめ、腕を組むようにして怒りをあらわにした。
視線を外に向ける。
夕暮れの草の香りを含んだ風が、ゆるやかに吹き抜けている。
だが、島の境界を意識させる風景もあった。
少し離れた崖の縁。
そこから吹き下ろす風は、轟々と唸り、黒雲が渦を巻き、遠雷が走る。
暴風の壁は見えない膜のように島を包み込む。
境界の内側は、信じられないほど静かだ。
葉の擦れる音すら柔らかく響き、陽光は祝福のように差し込む。
「ここは一体……」
「分かりません。 ギーグさんが見てくると言って……。
どうやら浮島の様なところに落ちたみたいです」
「……ウィンダ領内のどこか、ってところか。結局、この国からは出られないのか」
「で、でも! この風に守られている限り、追手は来ないと思います!」
「……どうかな」
セレンの言葉は、勇気づけるもどこか不安げだ。
レイヴンはまだ恐怖を抱え、心を振り切れずにいる。
だが、風が撫でる島の静けさが、確かに彼らを守っていることだけは理解できた。
遠くから、不規則に石を踏む音が聞こえた。
レイヴンは反射的に身体を硬直させ、視線を向ける。
「……あれは?」
セレンも顔を強張らせ、風に押される髪を払いながら音のする方を見た。
その先に現れたのは――ギーグだった。
布切れのように裂けたフード、擦り切れた衣服。
だが、その荒々しい見た目とは裏腹に、動きは驚くほど軽やかで、まるで風に乗る葉のように宙を舞う。
ギーグは杖を器用に使い、石を蹴りながら跳ねるように進む。
ひと跳びごとに体がふわりと浮き、荒廃した島の景色の中で、まるで舞踏を踊るような軽快さを見せた。
「ギーグさん! 大丈夫でしたか!?」
「“気付け”治療のおかげで、ワシはピンピンじゃよ!」
ギーグは杖を軽く振り、笑みを浮かべる。
「……おぉオヌシ、気づいたのか!」
レイヴンは杖を持つ手元を見つめながら、問いかける。
「……どうだった? 島の様子は?」
「こうも荒れた島じゃ。魔物もおらんて」
ギーグの口調はあっさりとしているが、足取りは依然軽快だ。
「……因みに、“気付け”って、どういう……?」
「きついのを一発、のぉ?」
セレンが慌ててフォローする。
「あ、あの時はごめんなさい! でもその後、ちゃんと回復させたじゃないですか!」
「だってワシら、空を飛んでったんじゃぞ!
あの石っころのせいで味わいたくない感覚を知って……死んでもおかしくなかったわい!」
レイヴンは小さく息をつき、思わず呟く。
「……気、失ってたんだな」
「お嬢ちゃんは大丈夫だった様じゃが、ワシらがこのザマじゃったからな。
それに免じて、お肌を触らせてもらったから許すぞい!」
「……お前、そういうのが嗜好なのか?」
「ヒュムの肌は柔らかい、と知れたのじゃ。 これも探求の一つよ」
「セレンもあんまり肌を差し出すものじゃないよ」
「うぅ……以後気を付けます」
ギーグは体を支えながら前かがみに立ち、視線を島の奥へ向ける。
「長居は無理じゃ。敵が追手を差し向けてくれば、ただでは済まぬ」
「奥に洞窟のような場所を見つけた。 島の北側、崖の陰に小さな裂け目がある」
「立てますか?」
「あぁ、両足は平気だからな。 ここに居るよりかは安全とみていいだろう」
ギーグは肩をすくめ、笑みを浮かべる。
「心配するな、レイヴン。ワシはまだ使い物になる。おヌシら二人を守れるだけの力は残っておる」
その言葉に、レイヴンとセレンの胸に小さな安堵が広がる。
しかし同時に、まだ先の危険を思い緊張が抜けない。
ギーグは崩れた足元を確かめながら、洞窟へ向かう準備を始める。
「さあ、行くぞ。無事に避難し、次の策を練るのだ」
レイヴンは深く息を吸い込み、血で染まった腕を押さえながら立ち上がる。
「……ああ、行こう。ここで立ち止まるわけにはいかない」
三人の視線が揃う。
その先にある洞窟――暗く狭い裂け目に、ほんのりと安息の気配が漂っていた。




