[EP.4-9]救い手
荒い呼吸が喉を裂く。
レイヴンは石壁を背にしながら、崩れかけの階段を駆け上がった。
風が頬を打ち、湿った空気の向こうにかすかな光が見えた。
セレンが息を呑む。
「……あそこに、光が!」
「出口だ……急げ!」
三人は暗闇を抜け、石段を駆け上がる。
足元の石が軋み、土埃が靴の裏で滑る。
それでも構わず走った。
冷たい風が頬をかすめ、鼻腔に“外の匂い”が入り込む。
——外の匂いだ。
重い扉を押し開けた瞬間、眩い光が視界を焼いた。
目を細めると、胸の奥に自由の感覚が流れ込む——その刹那。
セレンの世界は血に染まった。
石畳の広場に並ぶ七つの影。
磔にされたヒュムたちが、風に揺れていた。
鎖に繋がれた腕は赤く染まり、胸と首の肉は裂け、瞳は虚空を見つめたままだ。
漂う血の匂いが肺を突く。
セレンが小さく悲鳴を上げる。
「ひっ……!」
ギーグが低く呟く。
「なんじゃ……ここは……処刑場、か……?」
奥から鎧の金属が擦れる微かな音が聞こえた。
視線の先に——ひとり、処刑台の傍らに黒い影が立っていた。
黒鋼の甲冑。
血を吸ったように鈍く光る槍。
黒布のマントと金の装飾が光を吸い込み、その存在は夜の闇のように重く空間を支配していた。
救国の盾《第一位執政官》ユノス。
名を呼ぶこともできない。
ただ、見られた――そう理解した瞬間、全身の血が凍りつく。
ただ静かに顔を上げ、バイザーの奥から覗く視線が、レイヴンたちを射抜く。
言葉などなくても分かる。
“ここは神聖な場所。穢れた者が立ち入る場所ではない。”——そう言われた気がした。
喉が乾き心臓が暴れる。
それでも、目を逸らさずに言葉を搾り出した。
「……ユノス、殿」
ユノスがゆっくり一歩前に出る。
「……貴様ら、この場がどういう場所か、何をしているのか分かっているのか」
声は冷たい刃のようだった。
怒りよりも、絶対的な“秩序”の声。
レイヴンは唇を噛みしめ、頭を下げる。
「……申し訳ありません。ここが神聖な儀の場だとは気づかず、誤って入ってしまいました」
セレンも声を震わせながら加える。
「ユノス様……どうかご容赦ください。儀を邪魔するつもりはありませんでした!」
ユノスは鼻で笑うように息を吐いた。
「知らなかった、か。 ふっ、奇妙なお連れだな……シスターに魔物とは」
ギーグはフードを深く被り直す。
「……それが、罪かのう?」
「驚いた……喋る魔物とはな。 罪ではない。だが——存在自体が誤りだ」
「……貴方も、私を捕らえるのですか?」
レイヴンの声は低く、震えている。
「私は仕事をしにきた。それだけだ」
その言葉に、レイヴンの胸が締めつけられる。
「俺が捕まって事が済むなら、それでいい……。 だが、どうかこの二人だけは——」
ユノスは首を横に振った。
「その言葉は聞き入れられないな。 ……貴方には力が無い。 守る力も、その言葉を罷り通す力も」
「何もない貴方だから、簡単に折れてしまう」
その瞬間、地が軋む。
ユノスの槍が一閃し、音より早く突き出された。
距離を詰めてくるその威圧感に、レイヴン――シャドウが反射的に剣を引き抜く。
金属が空気を切る音、冷たい鋼の感触が手のひらに伝わる。
だが、その刹那――
ユノスの槍が剣の柄の根本を貫くように突き刺さった。
——「ガキッ!」
耳をつんざく鈍い音。剣の中心から裂けるような痛みが腕に走る。
手元から衝撃が脳髄に跳ね返り、思考が一瞬止まった。
剣が――折れた。
黒鉄の刃が中間から真っ二つに割れ、柄から火花が散る。
ユノスの矛先は、そのままレイヴンの右腕を突き刺す。
「ぐっ……ああぁっ!!」
骨際をかすめる痛みが脳に突き抜け、視界が白く霞む。
ユノスは一歩、距離を詰める。
折れた剣を見下ろしながら、微かに息を吐く。
「……やはり、その程度か。」
槍をわずかに回し、持ち手を変える。
穂先が下を向き、代わりに石突きが静かに構えられた。
——まるで、留めを打つ棺の杭のように。
「レイヴンから離れて!」
セレンの声が鋭く響く。
彼女の掌から白く光る防護壁が瞬間的に立ち上がり、レイヴンを包み込む。
熱を帯びた光の壁が、刹那の安全を生む。
「よせ! 君が適う相手じゃない!」
「でも、あなたを置いては!」
「魔物と侮った甘さ、悔いるのじゃ! 重力の枷を——くらえぃ!」
フードの影から手を掲げると、周囲の重力が瞬間的にねじれ、床の石板を押しつぶすように振動する。
これで敵の動きを止められる――はずだった。
「なっなんと……!」
ユノスは微動だにせず、重力をものともせず標的をギーグへと切り替える。
槍先が光を反射し、滴る赤黒い血がまるで生きているかのように揺れる。
「やめろぉぉ!!」
レイヴンが身を乗り出し、左腕を盾にする。
黒炎を纏ったガントレット、その炎の揺らぎは生きているかのように、ユノスにまとわりつこうとする。
ユノスは一瞬だけ視線を細め、槍を引いた。
「……なるほど。烙印の力、か。 ……まだ、打つ手はあるのか?」
あまりにも余裕を感じさせる。
いかなる戦術も対処可能と言わせんばかりの実力。
レイヴンは、ユノスに絶対に勝てない――そう悟ざるを得なかった。
そのとき、セレンの目の前で泡白く輝く光が舞い降りた。
空気が震え、風が渦を巻き、目の前の空間を押し広げる。
石が宙で回転し、白い軌跡を描く。
風精石――
「みんな! 風精石が!」
「レイヴン、ここは退くぞ!」
この場から脱するには、風精石に頼るしかなかった。
しかし、飛ばされる先は誰にも分からない。
浮島がある保証はなく、足を踏み外せば死に直結する。
「逃げるか。 そうして逃げ続けるがいい。 ”負け犬が”」
「くっ……!」
レイヴンは右腕の傷を抑え、血の熱と痛みに顔を歪める。
呼吸は荒く、胸の奥で恐怖と焦燥がうねる。
だが、後ろを振り返る余裕はない。
ユノスの冷たい視線が背中に刺さる——その刃は、逃げるものを決して逃さない。
三人は躊躇なく足を踏み出す。
白い光が指先を撫で、風が巻き上がり、床の石畳は一瞬にして消えるように見えた。
「……レイヴン」
その言葉は風にまみれて消えた。




