[EP.2-8]精霊との契約
月光が差し込む神殿跡には時間が止まったような静けさがあった。
崩れた石柱、割れた床石、壁に残るかすれた文様。
それらが、この場所のかつての神聖さをかろうじて物語っている。
ギーグは足を止め、鼻をひくつかせながらあたりを見回した。
「ふむ……この空気。ここがセイレイ様が封印されておったという神殿か~。
……しかし随分と荒れ果てておるな」
そう言いながら中央に残る祭壇のような構造へ近づいていく。
「おや……セイレイ様はおらぬようじゃが、封印の紋章はまだ生きておる。
まるで、殻だけが残されたようじゃな」
「おそらく、そのセイレイ様とやらは俺の左腕に宿っている」
レイヴンのその言葉にセレンが目を見開いた。
「えっ……?!」
ギーグも振り返り、まじまじとレイヴンを見る。
「ほう……それはまた奇妙な話じゃな。どういうことじゃ?」
レイヴンはゆっくりとうなずき、左腕に視線を落とした。
「俺はこの神殿で生まれたと聞いている。記憶はないけど。
気づけばこの腕に“烙印”が刻まれていた。そして俺の中には……もう一つの"存在"がいる」
そう語りながら静かに装束をまくりガントレットを外す。
浮かび上がる烙印の文様は、青白く淡い光を宿し今も微かに鼓動していた。
ギーグは目を細めその文様に見入る。
「なんと……お主にも烙印が……いやはや、気づかなんだわい」
彼は一歩前へ進み、文様を間近で見つめた。
「こ、これは……“シュの烙印”に似ておるようで……いや、違う。
片腕だけというのも奇妙じゃし文様の形状も常とは異なる。
ワシの知る限りこんなものは見たことがない……」
レイヴンの胸中に不穏なざわめきが広がる。
(セレンの烙印とは……違うのか?)
——そのとき。
《それについては私が語ろう》
「誰の声……?頭に響く……」
セレンとギーグが、明確な違和感に表情を強張らせる。
声は音ではなく思考に直接触れるような感覚だった。男女が重なったような不明瞭な声。
それは言葉以上に聞く者の内面に影を落とす。
祭壇の中心、月光が一筋差し込むその場所から、
黒い旋風のようなものが立ち上り、やがてひとつの“かたち”を成した。
それが、精霊・シャドウの姿だった。
その姿は完全に人の形をしていなかった。
霧のような黒い輪郭が常に揺らめき、境界は曖昧。
まるで人の形を模した影そのもの。
その目にあたる位置だけが青白く淡く輝き、表情というものを完全に拒んでいた。
セレンは本能的に身を縮め、レイヴンの隣へと歩を寄せた。
「……あれが精霊、なのですか?」
「うむ、間違いあるまい。尋常の気配ではないな」
《フフッ……再びこの姿を晒すとはな。相まみえて嬉しいぞ、レイヴン》
「……シャドウ、それがお前の姿、なのか」
《姿に意味などない。だが私は“ここ”にいる。そして“君の内”に——》
シャドウは滑るように浮かびながら、ギーグに向けて言葉を継いだ。
《ギーグよ。君の言う通りレイヴンの烙印は少女の烙印とは異なる。
レイヴンの烙印はこの世界の理から外れている。契約にも封印にも属さぬ……異質なる印よ》
「それは……どういう意味だ」
レイヴンが問いかけるもシャドウはすぐには答えない。代わりに静かに、そして重く呟く。
《私はこの神殿に封印されていた。……幾万の夜を超えて、な。
月夜に導かれたある人間が、私をこの籠から解放を試した。
だがその試みは不完全に終わり……結果として私の意思、力は君の中に縛られてしまった》
レイヴンの顔から、血の気が引いていく。
「何を……言っている……まさか……俺の家族に起きた“事故”は……」
《君の“家族”に起きた一連の事故にも私の影がある。……が、許しを請う気はない》
《全てはこの星の巡りの為の犠牲であったに過ぎない》
その言葉は、刃のように鋭く、レイヴンの胸を貫いた。
「ふざけるな……貴様が俺を、家族を……!」
怒りとも悲しみともつかぬ叫びが、神殿の静寂を裂いた。
《私が憎いだろう。だが、お前の剣は民を守るためのものだ。
レイヴン、我ら精霊の声を聴き世界の理を知れ。君には、民を導く力がある》
「……黙れ……もう、たくさんだ」
震える声で彼はうつむいた。唇をかみ締め言葉を探す。
生まれた時から心の奥底に棲みついていた“異質な存在”。
誰にも知られぬように左腕の烙印を隠して生きてきた日々。
それがどれほどの重さだったか、誰にも語れなかった。
――俺は、ただの“レイヴン”でありたかったんだ。
その言葉には押し殺された願いと、割り切れない痛みが滲んでいた。
「どうして……俺だけが……何も知らずに……生きて……!
いっそ、ここで死ねば……全て終わるんじゃないのか……」
重く、乾いた空気が辺りを満たす。ギーグもセレンも言葉を失う。
「生きることの意味がもう分からない……この腕がある限り、俺は俺でいられない……」
——そのとき。
ぱしん!
乾いた音が神殿内に響いた。レイヴンの頬が紅く染まる。
それはセレンだった。涙を浮かべ、真っ直ぐにレイヴンを見据える。
「……死ぬなんて、軽々しく言わないでください……!」
「私……レイヴン様の過去も、痛みも……理解することはできないかもしれません。
でも、今のあなたの苦しさだけはちゃんと伝わってきました」
「……“死”という救いがあることは、否定しません。
けれど、それは“生きる”という戦いから逃げることでもあります」
「だから私は……あなたに生きてほしい。自分を保てないなら私が支えます。
あなたの心の支えになります。……あなたの“腕”になります」
レイヴンの肩が小さく震えた。
「……すまないセレン。俺は……気を取り乱していた」
彼はその手をそっとセレンの手に重ねた。
「“闇のセイレイ”様……今、この世界では何が起ころうとしているのじゃ?
火のセイレイ様の乱れに始まり、今やすべての属性が揺らいでおる。
この異常はただ事ではない……どうか教えてくれ」
ギーグの問いかけに、シャドウは静かに応えた。
《……ギーグよ。我らは――本来の姿に還りたいのだ。
長き時を経て理の枠から外れ歪んでしまったこの存在を……もう、》
「……やはり、そうか」
ギーグは目を伏せ静かに呟いた。
《レイヴン、先に述べた通り君の烙印は契約の媒体になりえない。
だがセレン。君には“契約”の適性がある》
黒い霧のごとき身体がセレンのほうへとゆっくりと向く。
《セレンよ。我と契約を結べ。お前が見たいと願う“真実”はその先にある》
「やめろ、シャドウ!彼女を巻き込むな!」
だがセレンは静かに首を振った。
「……いいえ、私は契約します」
レイヴンが目を見開く。
「セレン……君はただの修道女だ。こんな危険なことする必要はない……!」
「“ただの”修道女だからこそ……知らなければならないのです」
その声は芯のある強さを帯びていた。
「私はあなたの苦しみに触れました。この世界の歪みにも気づきはじめました。
精霊とは何か。なぜ封じられ、なぜ今、その声を聴かねばならないのか——」
「……私はあなたと同じ場所に立ちたい。同じ“烙印”の持ち主として共に在りたいから」
沈黙が祝福のように降りる。
シャドウの影がかすかに揺れた。
《……ならば契約を結ぼう。名を問う。汝、世界の理に触れる覚悟はあるか?》
「私は——セレン。精霊・シャドウよ、貴方の契約を受け入れます」
その瞬間、空気が弾けた。月光が裂け空間が軋む。
セレンの足元に淡い光の魔法陣が浮かび上がり、文様が彼女の身体に流れ込んでいく。
《……契約は完了した。セレン。これより君も我ら精霊の声を聴くことになるだろう》
光がはじけセレンの意識がふっと遠のく。
「セレン!」
レイヴンが駆け寄り、その身を支えた。
《……心配はいらぬ。契約の揺らぎによる一時の昏倒だ。目覚めれば元に戻る》
だが、その言葉の奥に潜む真意を、レイヴンはまだ知らなかった——。




