ファイル9:なすだけに感じる、この気持ちを教えて
なすと外に出た日の夜、私はいつも彼が通ってくる窓を眺めていた。
なすが今日来ないことは分かっているのに、どうしても見てしまうの。
日差しの当たる中を彼と出かけられたのは、神様がくれたチャンスなのかもしれない。ううん、知らない。
私は、思わず感情を浮き彫りに仕掛けていたことに気づき、そっとため息一つこぼす。
そして目をつむって、今日あった出来事を思い出すの。
今日は、なすから沢山の感情を教えてもらった。
空気を冷たい、って言った私に対してなすは、自然を感じたいって感情だ、って教えてくれたの。
ただ肌に触れた、冷たい風なのに。病室では感じる事の無かった、水を含んだ、冷たい空気。
外で感情を教えることは、アイにバレてしまうかも知れないのに、なすは戸惑いなく、優しく教えてくれた。
それなのに私は、なすに嘘をついているの。感情がない、って。
なすから、川を教えてもらって、私のこの手に水を触れさせてもらいもした。
私は目を開けて、自分のなすより小さな手を見る。
あの時にかけられた、飲む水よりも冷たかった、その水に、私は感情を抑えられなかった。
初めての経験だったの。
自然に流れる水を見て、その水に触れること。
川は、アイに見せてもらう映像とは違って、太陽に輝いてきらきら輝いているし。少し覗き込むと、小さな生き物、頑張って泳いでいたの。
――なすは、私の我がまま「もう一回」を何度も、何度も実行して、手に水をかけてくれた。
初めて見る外の世界、そして触れた水に、どうしても感情は揺らいでいたと思う。
私は、感情が無いって演技していないといけないのに。
それでも、なすに水をかけるように求めてしまった……好奇心っていう感情は、今でも心に残っている。
アイの場所では感じることのない、なすと一緒に居る時は胸が熱くなっているの。
以前教えてもらった、なすを心配する時の気持ちとは違う……どこか、痛くないのに、すごく温かい、そんな気持ち。
これが感情なら、私は本当に、感情を理解しきれていない。
「私は、感情を、隠しきれていない」
気づくと、ぽつりと言葉をこぼしている。
じっと見ていた小さな手を握りしめて、胸に当ててみた。
別れ際に、なすが当ててきた手の感触とは、全く違うのに。
私は……感情を隠しきれていないから、被検体一号、所謂失敗作とアイに言われる人間。
アイが他の人と完全に隔離することによって、私から感情を消そうとしているのは知っているの。
でも、知らない。自分にそう言い聞かせて、今を見ないようにしてきたのに。
――余命の話、今までどうでもよかったはずなのに。
私は、なすと一緒に居られた今日を、気づけば恋しく思っている。
今までなら、この病室だけが自分の居場所で、人生を迎える場所とばかり思っていた。
それなのに、なすと話してからは、彼の近くに居たいって思うようになって、生きたいって思うようになっている。
彼が『死にたいなんて言わせない』って言ってきた時は、正直どきってした。
アイの前で、延命する必要は無い、って演技をしている私は、何処に行ってしまったの? ……分からないよ。
人と話したことがない私でも、この感情は理解できる。
……人と一緒に居る、温かさだって。
彼に聞いてみたいけど、これは私の中だけに留めておく。
全てを聞いてしまえば、私は演技が出来なくなっちゃう気がするから。
この心で考える時間、一人の時間……私は時間の経過だけを感じているだけの存在だったのに。
でも、一番理解できていないのは、なすが私の胸に触れるたびに顔を赤くすること。
――なすの近くに居たいよ。……この病室から抜けてでも。
思っても、口には出さない。
だって、口に出してアイに聞かれたら不味いから。
私はずっとベッドの上で生活してきているの。
リハビリや検査以外だと、日中はただベッドで過ごして、アイの暇つぶしを使って、窓の外を見るだけの生活。
なすの近くに居たいのは、なすの言う河川敷に行って、大丈夫だと思ったから。
なすは、私が車椅子から下りて上手く歩けないのを知っていてか、ずっと心配してくれていたのにね。
浮遊物体……アイの時だって、なすは自分の心配よりも先に、私を隠して、謝ってくれたように。
その知らなかった優しさに、なすに安心感を覚えているから、心が揺らめいている。
気づけば、なすの言っていた笑顔がこぼれそうになっていた自分に、私は首を横に振った。
オレンジ色の明かりを眺めて、そっと息を吐く。
「……なすぅ」
彼の名前を、気づけば呟いている。
私は彼と会って一カ月も経っていないのに、どうしてここまで心が揺らいでいるの。
本当に、知らない。
――あ、見回りの時間。
置いてあった時計を見れば、アイが巡回する時間を示している。
この病院には私くらいしか居ない筈なのに、アイは抜け目なく巡回しているの。
多分、なすみたいな侵入者を排除する目的だと思う。
私は、アイに感情がバレないように演技をするため、感情を心の奥底に沈める。
なすの事を考えるのは、アイが行った後ならいくらでも考えられるから。
数分も経てば、いつも通りに浮遊物体……アイがやってくる。
『……被検体一号、山内花梨。眠らないのですか』
「……眠れない」
私はいつものように、おっとりと片言気味に言って、アイを追い払うことにした。
アイは特に詰めてくることも無いから、さっさと別の場所に見回りに行くはず。
私はそう思っていたのに、アイは何処にも行く様子を見せない。
このアイは見回り用だから、私と話すことなんてない筈なのに。
質問をしてくるアイなら、リハビリの時や検査の時に沢山見ているから。
その場で浮遊している物体を、私はじっと見るしかない。
だって、ここで目を逸らしたり、話をしたりすれば、いつもと違う行動になって、感情があると認識されてしまうから。
『被検体一号、今日の外出は楽しかったですか』
急にそう聞いてきたアイを、私はじっと見続ける。
この時に早く答えてしまえば、アイの思う壺だから。
それにアイは、私に鎌をかけてきている、って知っているのにね。
楽しい事態の返答をしてしまえば、それは感情を持っていることに……。
なすから、楽しいって感情を教わったから、下手すれば答えていたかもしれない。でも私は、そこまで口が軽いわけじゃないから。
今まで演技をしてきた私が居るように、私はなすと会うために、今を生きたいの。
「楽しいって、なに」
疑問気には答えないで、ただ淡白に、いつも通りに答える。
真顔でいれば、アイは何も言わないから。
今までなら、他の考えなしで答えられたのに。
私は、なすと出会って変わった気がする。
返答したのに、アイは黙ってその場で浮いたまま。
壊れた、というよりも、感情だから返答に困っているのかもしれない。
「……アイ、どうして、聞いてきたの」
ただ、疑問を尋ねた。
アイが答えてくれないなら、それはそれでいいから。
答える気が無いなら、早く部屋から出て行ってほしい。
胸がチクリと刺さるようで、痛いから。
『被検体一号、不安定だから聞きました』
「……そうなんだ」
私が不安定って呼ばれるのは、アイの目的にとって不要だから。
そう思っているなら、私の事は放置してくれたらいいのに。
今まで目の前で見てきた、私の後の被検体と同じように。
被検体って呼ばれるのは、生まれる前から決まっていた事だから、気にする必要もないからね。
アイは、私が病気を患うのは予定外だったみたいで、こうして観察対象にしているみたい。
――アイに観察されるくらいなら、なすの所に居たいよ。
口に出せない言葉は、心の中だけで留めておく。
「……アイ、どうして、外出許可を出したの」
『……山内花梨が、前に頼んできたからです』
「……そうだね」
アイに共感する、これも感情じゃないのかしら。
なすが言っていた、アイすらも知らない感情がたくさんある、っていうのは本当かもしれない。
河川敷に行く前日、私はアイから外出許可を得たから、気になっていたの。
アイは私に、一人だと外出が厳しいって言っていたのに、簡単に外に出してくれたから。
実際、なすの力を借りないと、私は遠くに行くどころから、病院からも出られなかった。
病室の空気とは違って、外は日差しもあって、空気も違って、私の体に馴染むのに時間がかかったけど。
――車椅子をこの手で回すのは、一人だと辛いから。
なすが押してくれたから、夕方には帰ってこられたし、河川敷にも行けたの。
気づくとなすの事ばかり思っている私は、自分の感情を隠すように、心を沈める。
『被検体一号、河川敷の方で私の分身体が壊れたのですが、何か知っていますか』
いずれは聞かれると思っていた質問。
分身体……それは、なすが壊した浮遊物体のこと。
私はアイに、どこに行った、とまでは言っていない。
というよりも、外に出ただけで突き通したの。
アイの事だから、どこまで行った、なんて私が言えばデータから分析して、なすの事を可能性にいれるかもしれないから。
アイからされた質問に、私は黙秘を通したかった。でも、アイは詰めてくると思う。
アイは、何かと誤魔化すのを許さないから。
私はアイをじっと見てから、言葉を口にする。
「知らない。……何も見てない」
『そうですか』
アイは多分、下手すれば理解しているかも知れない。
もし理解していても、アイはそれを提示する程の証拠を持っていない筈。
私は感情が無いから、これ以上何を聞いても無駄だって、アイが一番理解していると思う。
私が予想外なのは、アイが巡回に戻ろうとせずに、私とお喋りを続けていることかな。
私自身、なすと初めての外の世界に出た反動か、瞼が重くなってきたの。
だから、早く話しを終わらせたいのに。
「……アイ、まだ、なにかあるの」
『いえ、何もありません』
「……眠たい」
『睡眠欲求を認識しました。次に回ります』
アイは本当に私が眠むたいって理解したみたいで、部屋の電気を消すリモコンを手前に置いてくれた。
アイが深入りしようとせずに帰ろうとしてくれるのは、救われた気持ちがある。
アイはドアを閉めて次に行こうとした時、その場で動きを止めた。
まだ何かあるかも知れない、と思った私は、アイが立ち去るのをじっと見るしかない。
『被検体一号、山内花梨』
「アイ、なに」
『本日の外出を支障なくできたので、今後は自由に外出してもいいですよ。もし予定があれば、お申し付けください。車椅子を用意しておきますので』
「……分かった」
『それでは』
そう言い残して、アイはドアを閉じて、部屋を後にした。
私はアイが本当に去ったのを確認してから、リモコンを手に取る。
そしてリモコンを手に取って、オレンジ色の明かりを暗くした。
アイから言われた、今後は自由に外出してもいい、その言葉はアイと一緒に居て初めて温かいって思えた気がする。
自由に外出できるってことは、なすと一緒に居られる時間が増えるから。
なすがブランケットを整えてくれたように、着ていた病院服のズレを直して、布団をしっかりとかける。
そして私は咳き込むことも忘れたように、そっと窓の方に視線を向ける。
窓の枠から見える限りでも、小さな光が輝いていた。
電気を消したのもあって、前よりも鮮明に感じられる気がする。
これが、なすに教えてもらった、自然を感じたい、っていう感情なのかな。
「……会いたいよ、なす」
今の思いを、口に出さずにはいられなかった。
なすの場所でしか感じられない、あの温かな気持ちを、私に教えてほしい。
心臓が小さく、トクン、トクン、って鳴るこの感情を。
――なすの前なら、少しずつでも、私の持っている感情を見せてもいいのかな。
私はそう思いながらも、瞼が下がりかけていた。
水に触れたり、なすに感情を教えてもらったりで、驚きのいっぱいで、疲れていたのかもしれない。
なすの事を考えながら、そっと目を閉じて、温かな気持ちのまま眠りについた。