ファイル6:自然と共鳴する感情に名前を付けて
あの覚悟を決めた夜から、数日が経っていた。
今日は太陽が煌々と輝く中、僕は車椅子を押している。
もちろん、車椅子に座っているのは病院で出会った少女こと、花梨だ。
何故かはわからないが、花梨はアイから外出の許可を得られたらしく、外に一回だけ出られる機会を設けている。
そして本日、アイにバレないよう病院に迎えに行って、エントランスの途中まで出てきた花梨を連れ出した形だ。
外に出て落ちついたのか、花梨はいつも通り真顔でおっとりした様子だが、太ももの上に上品におかれている手が気楽そうに見える。
花梨は病院服を着たままであるが、病院服の隙間から見える白い肌は、太陽の光に当たって血色の良さが垣間見えていた。
今まで夜に出会っていたのもあってか、こうして太陽の下を一緒に歩めるのは嬉しいものがある。
花梨に関して、体が悪いという訳ではないらしいが、長く病院生活を送っていたのもあり、自分の足で歩くのは人の手を借りないと困難なようだ。
リハビリで歩くことはしていても、初めて外に出たとなれば、何かしらの恐怖もあるだろう。
花梨を安全に考慮してエスコートしつつ、決めていた場所へと向かっている。
場所は、河川敷だ。あそこなら、見回り用の小型ロボットが少ないのと、花梨も少しは気が楽になると思ったからだ。
紙に沢山まとめていたが、まさかこの情報が役に立つとは思わなかった。
今日くらいは、花梨の感情が見られたらな、と思ってしまう僕は子どもっぽいのだろうか。
風が柔らかに吹く中、僕たちは道沿いを進み、河川敷の方へと近づいていた。
河川敷に近づいているのもあってか、生えている木々を緩やかに揺らし、水分を含んだ風が優しく肌を撫でてきている。
その時、花梨がピクリと震えた。
花梨の震える瞬間を見てしまったのもあり、車椅子が変に揺れたのか、もしくは不慣れな気候に体調を崩してしまったのではないか、と色々な思考が脳を巡る。
顔を後ろから覗いても、花梨は顔色一つ変えておらず、本当に何で震えたのかが分からない。
花梨は、僕がのぞき込んできていると察したのか、僕の方に視線を向けた。
「花梨、どうした?」
と聞いてみれば、彼女の瞳は柔らかに揺れた。
感情がないとはいえ、瞳は嘘をつけないらしい。
「……空気、冷たい」
「ああ、そういうことか……」
ふと思えば、花梨は今まで病院生活をしていたのだから、水を含んだ自然の風に肌が触れるのは初めてだったのだろう。
とはいえ、自然も小悪魔だ。
感情が無い人間にすら、好奇心を刺激してくる妖精が住んでいるのだから。
僕はもしもの事も考えて、間を置きつつ周囲を見渡した。
小型ロボットが巡回している可能性は低いには低いが、絶対とは言い切れないのだから。また、他の人間はアイに飼われているため、街中を歩いていることは基本的に無い。
周囲の安全を確認してから、僕は車椅子を止めて、花梨の前に腰をかがめて視線を合わせる。
「それはな、人が知らず知らずに持っている、自然を感じる、っていう感情さ。……もしくは、自然に触れ合う神経、って言った方が花梨には聞こえがいいかな?」
「……自然を、感じる」
この世の中……主に反逆者の間ではあるが、顔や気持ちだけにとどまらず、普段の日常にあるものをとらえる現象を、総称して感情と呼ぶようにしている。
人によっては、当たり前のことに感謝する、という感情に近い。
反逆者の間では、アイに支配された世界で小さな感情を知る喜びに浸れる、魔法みたいなものだ。
感情が支配されてしまった世界で生きているからこそ……感情があった世の中の時に、ひと時の感情に任せて『面白くない』の一言でまとめていた者を許すつもりはない。
身近になりすぎて、当たり前だと思い込んでいる愚か者に対しての『怒り』という感情だろう。
面白くないというのは、固定概念に阻まれ、視野を広く持てない者が口にする、逃げるための口実に過ぎない。考えることを止めた人間は、人の思考を理解したがらないのだから。
気づけば僕は、花梨を見ている際に考えごとをしてしまい、眉を下げていた。
考えることを止めた人間……それの行きつく先が、人工知能に飼われること、なのだから。
花梨は僕の話をしっかり聞いていたみたいで、じっと見てきている。
光のあたった茶色の瞳に、僕の姿は暗く映っている。
駄目だ。花梨が居る前で、弱音を吐く気も、落ち込む姿を見せる気も無い。
僕は、彼女の、花梨の為に今こうして、河川敷へと向かっているのだから。
「……感情って、多いね」
「ああ。アイだって、人間の感情は全て理解できていないだろうな。だって、人間は生きるためなら、どんな逆境だって超えていくんだから」
「そうなんだ」
花梨のおっとりした声の中に、初めて温かな感情が聞こえて気がした。
「えっ、ああ……僕の行きたい場所にもうすぐ着くから、話はこれくらいにして行くか」
「うん」
僕は立ち上がり、花梨の膝上に掛けてあったブランケットを整えてから、車椅子を再度押した。
――なんで、花梨と話しているだけで、こんなにもどきどきするんだよ。
僕の心の中にあるもやもやは、きっと彼女に気づかれていないだろう。
数日前、口についた感触が未だに離れていないように。
しかし河川敷に行くついでとはいえ、花梨の思わぬ様子を窺えたのは嬉しいものだ。
空気が冷たい、って言う前にピクリと震える仕草とか、可愛らしいにも程がある。
まあ、僕はそれ以前にあたふたしたので、もうちょっと冷静さを保つ必要はあるだろう。
そうこうしているうちに、僕たちは河川敷へとやってきた。
昼間から外出したのもあり、太陽は斜めから光を川に当て、銀色に光輝く世界を見せてきている。
僕自身、久しぶりに河川敷に来たが、未だに綺麗に流れる川を見られるのは言葉が上手く出てこない。
河川敷の坂上から見ているだけでも、心が安らぎそうだ。
車椅子を止めてしまったのもあってか、花梨はじっとこちらを見てきていた。
「なすぅ……ここは」
「ここは河川敷、って言われる場所だ。今でもアイの手が加えられていない、自然そのままの、な」
花梨は納得したのか、静かにうなずいていた。
また川の方を見ている辺り、きらきらと輝いているのが気になるのだろう。
僕はそんな花梨の様子を見て鼻で小さく笑ってから、車椅子を進める。
アスファルトの引かれた道沿いを通り、横に生えた木々の近くを通り抜けていく。
木々が手つかずのままになっているのもあってか、差し込む太陽と共に、揺らした葉で影をちらつかせ、僕らの進む道を守ってくれているようだ。
花梨の日焼けを心配していたが、日光的にはそこまで強くないので、よほどのことがない限り日焼けはしないだろう。
今居る河川敷は、様々な種類の石が転がっているタイプというよりも、以前人々が人工的に生み出した敷地に、草花が生え放題となっている場所に近い。また、川辺の方はしっかりと四角い石畳が引かれているので、半々といった形だ。
花梨が車椅子なのもあり、川の方に繋がる坂道から下りていく。
川に近づくにつれ、冷たい風が肌を撫で、生きていることを伝えてくる。
車椅子、そして僕の靴は草を踏みしめる音を立て、転がる石をはじいて音を立てた。
また自然のままに流れる川のせせらぎだけが唯一、近未来化していない、命の芽吹きを伝えてきているように感じる。
花梨は川を見たのも初めてなのか、横からは真顔に見えるが、きょろきょろと見渡しているようだ。
僕は思わず、花梨の仕草に微笑みを隠せないでいる。
「なすぅ、川ってなに」
「うーん……細かくは分からないけど、自然に流れている、生きた地球から湧き出た水の事かな?」
「なす、疑問気」
「まあ、地球の全てを解明する方が不可能に近いから」
「そうなんだ」
花梨は納得したのか、ゆっくりと頷いて見せた。
僕は花梨がうなずいたのをいいことに、川の方へと車椅子を進めていく。
流れゆく川は透き通っており、輝く銀の世界を見せては、遥か彼方へと絶え間なく流れている。
花梨が車椅子に乗っているのもあり、川に近づけるのは危険と判断して、石畳のデコボコしていない場所で止めた。
「花梨、ちょっと待っててくれ」
「……うん」
花梨にそう言って、僕は川の方へと近づいた。
川に手を入れてみれば、太陽の光とは違い、凄く冷たい。
ひんやりとした感覚に、思わず手を入れたままにしたいと思ってしまう。
というか、ぼんやりと川を眺めるために花梨を待たせているわけではない。
僕は両手を上向きで重ね、水をすくう。
水がこぼれないようにしているのもあり、手の平ですくわれた水は、太陽の光で煌めいている。
水をすくった僕は、花梨の方に戻った。
「花梨、手を出して」
「うん」
花梨は小さな手を伸ばし、花梨の足よりも先に出してくれた。
心配が一つ消えたので、心の中でほっとしておく。
そして瞬く間もなく、僕は花梨の手にすくった水をかけてみた。
花梨は突然やられて驚いたのか、目を見開いて、僕の方をじっと見てきている。
その瞳から理解できることは、冷たさに驚いている、という感情だろう。
「花梨、大丈夫か?」
「うぅん……もう一回」
「えっ……わかった」
驚いたが、僕は彼女の要求を呑む。
花梨は、僕に対して初めて我がままを、感情を見せてくれたのだから。
川から若干離れているので、出来る限り車椅子を押して近づけ、すぐにでも花梨の手に水をかけてあげられるようにした。
僕が水をすくえば、花梨は待っていました、と言わんばかりに小さな手を伸ばしている。
なんか幼く見えるのに、可愛い。
「ほいっ」
「冷たい。……もう一回」
「ああ、花梨が満足するまで、何回でもやってやる」
水をすくっては、花梨の手にかけて……それを彼女が望む度に、僕は何度も繰り返す。
だって、彼女は初めて水に触れた子どもの様に、好奇心を露わにしたのだから。
今まで真顔だった……いや、今でも真顔なんだけど。花梨は、我がままを、感情を口にはしていないが、言葉で表してくれた。
河川敷に来てよかった、と心から思えた。
キッカケは何だっていい、花梨の感情を揺らす出来事は嬉しかった。
水をかけている際に聞いてみたが、花梨は川の水に触れたことがなかったらしく、冷たさから「もう一回」とねだっているらしい。
何回か続けたのちに、花梨は満足したのか、じっと見てきていた。
「なすぅ……どうゆう感情」
おっとりとした声で、初めて感情なのか質問された。
僕は嬉しくなって、ついつい口角を上げる。
「驚きや興味、直で自然を感じたい、っていう欲求かな」
「そう、なんだね」
花梨は自身が感情を持っていない、と思っていたからなのか、どこか息詰まったような感じを見せた。
僕としては、アイにバレないで感情を持てるのなら、それで良いと思っている。
僕や、反逆者に関しては、アイに隠れてコソコソ感情を持っているのが嫌だからこそ、こうして感情を表に出しているにすぎないのだから。
とはいえ、こうしてアイに追われては隠れて生きているのだから、感情を隠し持っている方が安全だろう。
結局のところ、花梨が感情を持っているのかは不明だが、少なくとも感情を知らず知らずに持っているのかもしれない。
アイの場所では見る機会がないだけで、こうして外に出れば、人は人の持つ姿を見せてくれるのだから。
「なすぅ……優しいし、物知り、だね」
優しいと思うのも感情だから、と言いたかったが、言葉にすれば花梨が否定しそうなので、僕は声に出さないで笑っておく。
花梨は笑ったことを不思議に思ったのか、じっと真顔で見てきている。
ふと気づけば、花梨は何を思ったのか、車椅子から下りて川に近づこうとしていた。
歩けるのかと思ったが、花梨は自分の体を持ち上げるだけでも精一杯なのか、車椅子の足置きの時点で若干ふらついている。
そして案の定、車椅子から手が離れようとした瞬間、花梨の体が宙に浮く。
時がまるでゆっくりと流れて止まる中、僕は身体が無意識に反応して、花梨の真正面に体を差し込んでいた。
そして落ちてくる少女を、全身で優しく受け止める。
花梨が傷つかないように、勢いを殺しつつ抱きしめて、包み込むように。
安心して息を吐いたのも束の間、花梨との距離感の近さに、僕の鼓動は速まっていく。
受け止めるのが真正面からだったのもあって、花梨との体の距離は無いに等しく、ぴったりと柔らかな感触が伝っているのだから。
やっぱり、男の性というのは、鼓動が嘘をついてくれない。
羞恥心、この感情だけは慣れたものじゃない。
「えっと、ご、ごめん」
「なす、助けてくれた。なんで、謝るの」
「それは、その……距離感的な」
「……分からない」
「うん、分からなくていいと、思う」
この子、ここら辺の感情が無いのか、僕は気まずいのに、彼女の質問に疲れそうだ。
花梨とは長く居たいが、帰る時間等を含めても、あまり長居するのも良くないだろう。下手すれば、被検体一号と呼ばれた彼女を、アイが捜索する可能性もあるのだから。
日差しは傾きつつあるので、病院までの距離を考えると、夕暮れ時には着くはずだ。
「花梨、その、帰るか」
「……うん」
「また、一緒に外を探検しよう」
「……外の世界、また見る」
花梨の表情には感情が無いのに、言葉にはたくさんの感情が詰まっているようだ。
そうして僕は帰路を辿るため、花梨の座る車椅子を押して、来た道を戻ることにした。
病院に着いたら、今日の花梨との楽しかった時間に幕は閉じる。そんな、寂しさにも温かさがある思いで――坂を上りきった時だった。