ファイル4:私は感情を隠して生きる選択をした
なすが帰ってから、私は外を眺めていた。
今でも残っている不思議な気持ちは、何もわからない。
確かにあるものはふかふかのベッドに、枕、そして微かに残った香りだけ。
「……なすぅ」
彼は他人であるはずなのに、私はポツリと、名付けた彼の名を呟く。
感情? 私はそんなもの持ち合わせていない。
感情があるのなら、私はとっくにこのベッドから居なくなっているもの。
それでも、彼が来たり、帰ったりするときに通る空いた窓を、じっと見てしまう。
なすは、彼は、下手すればアイに襲われてしまうかもしれないのに。
自分の身を顧みず、私の……また来てほしいっていう我がままを、彼は引き受けてくれたの。
病室の外を知らない私でも、外がアイによって危険なのは知っている。でも、彼には言わない。言ってしまえば、それはすなわち自我、感情に当たってしまうから。
この手で掴める範囲に来てくれる彼に、私はなんて声をかければいいの。
そんなの、分からないよ。
ううん……きっと、わかったらダメだよね。
わかったら、理解してしまったら、私は後戻りできなくなっちゃうから。
アイから教えられている学習で知っている。これは、恋しいって思うことだって。
でも恋しいって言葉を知っているだけで、意味は知らない。うん、知らない。
どきどきするような鼓動に、私は静かに首を小さく振っていた。
(……いつまで続ければいいの、疲れちゃった)
「……アイすらも騙せる感情を持っているの、演技ができるの。……知らない」
知らない、彼の言っていた言葉で言うなら、私なりの「おまじない」かもしれない。
私が、私自身に疲れた時は、いつも言い聞かせるの。
自分は出来る子、騙せる感情を持って演技ができる、いい子だ、って。
――アイは、私の感情が消えきっていないことを未だに知らない。
私は知っているけど、知らないフリをしている。
感情を持っていて、その感情を心の奥底で殺している事すらも。
生きている意味は無いかも知れない。それでも、今はただ、心がムズムズするから生きるの。
「……アイの巡回時間は、まだ先」
アイ。それは、人々から感情を奪う、人類の生み出した幸福システム。一言で言うなら、もう一つの神様。
私は知っている、アイが求めていたものを。でも、今の人類に、それは出来ない。気づける人はもう、アイの手によって何処にもいないから。
アイの巡回時間に今の呟きがかち合ってしまえば、私はたちまち彼に会えなくなってしまう。
感情が無いから会えなくてもいい、ってわけでは無いの。
彼が、なすが危険を冒してまで病院に来てくれるように、私も期待には応えたいから。だから、彼が危ないと思ったらベッドに隠して、アイからやり過ごさせる。
なすには言っていないから知らないと思う。私以外だと、アイに洗脳されているから、その身を感情ありと認識された瞬間にアイに差し出されることを。
私は、少なくとも感情を持っているの。
人を、大事な人を売るほど、卑劣な人間になった記憶はないから。
この手で守れるのなら守ってあげたい。それでも、私は身体が弱いから動かしにくいし、一人で物事をするのも困難な存在。
なすを引きずり込めたのは、正直以外だと思った。
この小さな弱い手で、あのがっちりとした肉体を持ったなすを、私の元に引き込めたから。
それでも私に罪悪感があるのは、彼を騙してまで演技している自分に、複雑な気持ちが湧き出ているから。
なすの考えは理解しないようにしているけど、少なくとも、信頼はしている。
感情が無い風に演技している私を、彼は見捨てないで、手を差し伸べてくれるから。
彼の事を思うだけで、彼に触れられた胸の奥底にある気持ちは、温かいの。初めてだったの、こんな気持ちになるのは。
心の何処かでは、全てはアイによって支配された感情だ、って知っているのに。
私はあくまで、アイの言う『被検体一号』だから、感情はない筈なの。
気づけば、私はそっとため息をついて、自分の弱弱しい手を見ていた。
この手で、なすを助けたと思うと、どこか温かい。
――私は、なすと話すのが好きなのかもしれない。
人と話すことが好き、というよりも、彼が、なすが特別だから。
なすと話している私は、感情が出てくるよりも先に、なすに質問をしている。
私自身の持つ感情を誤魔化すためって私は知っていても、彼には素で質問している気がしていた。
アイと話していれば、私は迷いなく冷たい反応をするから。
今日だって、なすともっと話したいから、アイに早く寝たいって睡眠欲求を伝えて、早めに帰ってもらった。でも、彼は何を思ったのか、その数分後には帰っちゃったから、よくわからないの。
また明日も来てくれる、って言っていたから、早く明日になって欲しいな、って思う私は彼に感情を隠し通せる気がしない。
オレンジ色の明かりが今も灯る病室で、私は窓の外を見て、気づけばゆっくりと両手を合わせていた。
(……お願い。なすぅだけは、不幸にならないで)
今は居ない彼を、私はどうしても願ってしまう。
布団を被れば、彼を隠したのもあって、彼の匂いが鼻から離れようとしない。
そう言えば、彼はどうしてか分からないけど、布団の中に引き込む度に赤い顔をするの。布団の中、そんなに熱かったのかな?
私自身、感情が残っているとはいえ、多少の感情を抜かれているから、理解出来ない事も多い。
だから顔が赤い理由は、なす本人に聞くしかないの。
感情って何、と聞けば誤魔化す彼は、私の安全を保障しているようなものって知っている。
だから、顔が赤い理由をなすが話すとは思いにくいから、私自身で考えるしかないのかな。
手を胸に当てても、分かるのは、柔らかい肉体を持って生まれてきてしまった、ただそれだけ。
もしかして、なすとの間には、答えなんて不条理はいらないのかな。
私は、感情を隠すように息を呑み込み、小さな白い手をもう一度胸に当てた。なすに触れられた時のような温かさはないのに、どこか、ほど遠い気持ちが湧きあがっているみたい。
「うっ……けほっ、けほっ……」
一瞬苦しくなった胸を抑え、片手で口元を塞いだ。
咳き込む度に、辛いよ。
なすには気づかれないようにしているのに、私は、私を信じ切れていない。
口元を塞いだ手を離して、そっと覗いてみる。
今日は、ちょっとだけ赤い花を広げたみたい。
自分が生きている、その証拠を。
自分で咳き込んでおきながら、胸に小さな針がプツリと刺さるようで、痛いよ。
こんな時に、なすが近くに居てくれたら、何て言葉をかけてくれるの。
私は、開いた窓から入り込む風をそっと吸い込む。
「……病気を患っている身、延命されている意味が理解できない」
わざと声に出して、言葉にした。
延命されているのは事実。でも、死にたい、という気持ちに関して今の私にはない。
ただ感情が無いことを演技するために、あえて声に出しただけに過ぎないの。
死を恐れる。それは、人間の持つ感情であり、人として生きていることがアイにバレてしまうから。
聞かれていることは無いとしても、独り言のように呟いてでも、私は自分に演技ができると言い聞かせる毎日。
いつまで演技を続ければいいのか分からない。でも、彼の前では、なすの時には感情を見せてみたい。
なすが受け入れてくれるか分からないけど、私は、なすには心を許しているから。
私は、この後も生きようとしてか、手に広がった赤い花を布巾で拭きとった。
そしてゆっくりと起こしていた上半身を横にして、布団をかける。
――寝たいのに、寝付けない。
起きている理由もないから、寝ようと目をつむっても、眠れない。
彼の温かさが、匂いが、私の心を刺してくるようで。
私はふと、備え付けられていた時計に目をやった。
「……巡回の時間」
時計の数字は、気づくとアイの巡回時間を示している。
眠ることを諦めて、オレンジ色の明かりが灯る病室の中から、そっと月明かりの差し込む窓の外を見た。
生きている自然は、人間の支配から逃れて、生い茂り揚々としている。……鳥籠の中の私とは、真逆の様に。
ため息一つこぼしかけた時、小さな音が耳を打つ。
アイが、小さな浮遊物体が見回りに来た。
数分もすれば、アイはいつものように病室へと入ってくる。
『被検体一号……山内花梨。寝ないのか』
「……寝付けない」
『そうでしたか』
アイは、普段なら質問、聞き取りをしたらすぐさま違う場所に行くのに、今日は違った。
居座っている浮遊物体は、私を見てきているようで、何をしたいのか分からない。
なすが見たら、一体この子はどうなっちゃうのかな?
私は、アイに感情を悟られないように、ただ真顔でじっと見ておく。
『山内花梨。長年の病気の結果が出た。前と変わらず、同じ病気。命は、少なく見積もっても一ヶ月』
アイは、恐怖、という感情の鎌をかけてきている。
私は知っているの……何度もその罠にはめて、アイに感情があると察せられた、同じ被検体と呼ばれた子達が居たことを。
今の病室には私一人しかいないけど、前までは三人だったこの病室で起きた、悲劇だから。
アイの見積もりは、他とは類を見ない程の信憑性が高い話だから、私は頷くしかない。感情を悟られないように、真顔で、ただ人形のように頷くだけ。
アイは気付いていないみたいで、話を続けた。
『山内花梨、昨日も話したが、病院内にネズミが一匹侵入しているので、注意してください』
ネズミ……きっと、なすの事。
私は、彼を、なすをネズミ呼ばわりするアイを許したくない。でも、今感情を露わにしてしまえば、アイの思う壺になってしまうの。
気持ちを、感情を殺して、私はアイをただじっと見る。
「……ネズミ、アイなら、駆除できるよね」
『すばしっこいネズミ、突然変異は適応外』
「……そうなんだ」
『感情に変化なし』
やっぱり、アイは話しながらも感情を調査している。
でも私は生憎、何年もこの生活をしているから、アイの思い通りにはならないの。
感情以外でアイに見逃されている理由は、本人である私が一番理解しているけど、口にはしない。
知らないフリをして、感情の無い私を演じきるために。もう一度、なすに会うために。
気づけば私は、なすの事を思うようになっている。
私は私を騙すように、アイに我がまま一つ口にした。
「……アイ、病院の外を見たい」
『……その体でどうやってですか。計算しても、山内花梨、被検体一号が外に出て無事の確率は少ない』
「病院の外を、見たい」
アイを困らせるために、私はわざと同じ言葉を繰り返す。
これは、なすに言った『夢』を近づけさせるために、私なりの行動に過ぎない。
なすが良い人であるのなら、きっと夢を叶えようとしてしまうかもしれない。だから、私も私にできることをしておくの。
今の私は、自分の足で歩くのは不可能に近い。それでも、叶えたい夢までたどり着けるなら、我がままを演技に見せかけて言うの。
『……これだから、被検体一号は』
呆れたような様子を見せるアイは、私が無自覚だと思っているのかもしれない。
感情が無い……つまりは言葉を差し押さえる抑制すら存在していないから。
他者に悪気もなく言った言葉が、相手は悪いように捉えてしまうように、感情の違いで無慈悲なようなもの。
『案には入れておく。期待はしないように』
「……眠るね」
『睡眠欲求を認知しました。部屋を後にします』
アイと話す気はないから、私はいつもの誤魔化し言葉を口にして、布団にもぐった。
アイと話すよりも、私はなすと話していたいから。
アイが部屋を去ったのを確認してから、私は覗き込むように窓の外を見た。
――なすを思うこと、明日にでも聞いてみよ。
なすと話した今日が、なすに触れられた今日の出来事が、今も胸の奥底で光っているようで、温かい。
私は小さく「なすぅ」と呟いてから、温かな気持ちのままに目を閉じた。