ファイル2:夢に感情はありますか
「花梨、こんばんは」
「……ドア、向こうだよ」
ベッドの上で上半身を起こしてドアの方を指さす花梨を見つつ、僕は病室に侵入した。
後ろから差し込む月明かりも相まってか、見方によってはカッコよく映るのではないだろうか。
次の夜を迎えてから、結局のところ、約束通り花梨の居る病室に忍び込んでいる。
アイのテリトリーであるのを考えれば、危険を顧みないヤバい奴、と思われるだろう。
だが残念なことに……僕は三階の窓から侵入している分、巡回ロボとかち合う可能性は低いはずだ。
己の歩く場所全てが道になる、は本当にいい言葉だろう。
――花梨、心配してくれているのか?
僕は彼女の問いに答えず、近くに置いてあった椅子を手に取り、自分の方に引き寄せる。
花梨の表情からは感情の気配はなく、やはり真顔のままだ。
アイに感情を抜き取られていてもおかしくない。
真顔の視線だけで動向を追われているのもあって、余計に気味が悪いように思える。
どちらかと言えば、感情が無い世界で感情を持っている僕の方が、花梨より気持ち悪いだろう。
なんというか、自虐はするものじゃないな。
そっと息を吐き出した時、花梨と目が合った。
茶色の瞳は青白い月の明かりを反射しているのか、まるで宝石のように輝いて見える。
「なすぅ、なんで、窓から忍び込むの」
「……花梨、疑問に思うって感情、あるんだな?」
「感情ってなに」
「そうか、答えたくないんだな」
彼女が答えようとしない以上、こっちも答える気はない。
何かを疑問に思うというのは、人間が生きる意味として与えられた欲深い感情だと思っていたが、間違いだったのだろうか。
花梨に言う気はないが、窓から忍び込む理由、か……。巡回ロボとのかち合いを避ける以外で言えば、ただ花梨に会いたいと思ったから来たくらいだろう。他意はない。
過去の男みたいに、女の子の山を目指してとか、自分の彼女にする為とか、そんな欲を思ってきたわけではない。まあ、今の世ならそんな妄想、アイの手によって叶えられるだろう。
――ただ、本当に花梨に会いたいと思った、それだけだから。
約束とか関係なく、彼女ともう一度話をしたい。そんな思いが、僕を突き動かすように。
何気に花梨から、知らない感情を、気持ちをもらっていたせいかもしれない。
家に帰っても、気づけば花梨の事が頭から離れないで、どこか息が詰まるようで、生きる意味を妨げている気がしたから。
今目の前に居る彼女に面と向かって言えるはずもなく、答えはただ、僕の気持ちの奥底へと沈んでいる。
というか、先ほどから小さな声で「なす」「なすっ」「なーすぅ」と呼ばれているせいで、一向に沈黙が訪れないのだが?
淡々と声色を変えずに名前を呼んでくれる花梨は、疲れを知らないのだろうか。
以前の話や、今回の話題の答えからしても、彼女は少なからず感情を持っていない筈だ。
だからこそ、声色を変えずに、感情を悟る事の出来ないおっとりとした美しい声を保っているのかもしれない。
なす、という僕の呼び方を花梨が気に入っているのなら何も言う気はないが、真顔なのはやめてくれと思う。
僕が窓から入り込んだせいで彼女の気を引いてしまったのもあり、会話が弾まないのは感情の前に、お互いに見えない壁があるせいだろう。
気づけば、僕はため息を漏らしていた。
そんな僕を不思議に思ったのか、花梨は見てきている。いや、先ほどから見てきていたのだが。
「……ねえ、なすは、なんで『アイ』から逃げているの」
呟くような問いに、僕は思わず息を呑んだ。
アイ。それは『AI』というプログラムとされている存在だ。正式名称はアイから逃れている者は知らず、各々が今を生きるために敵対しているような存在になっている。
知っている限りでは、僕が生まれるよりも早くから存在していたらしい。
アイが今までやってきた事を知っているからこそ、逃げ隠れをし、時には立ち向かっている。
アイの存在が認知された当初は手始めに、圧倒的なプログラム技術によって、人間から承認欲求という感情の一つを奪ったらしい。
過去で言えば、AIイラストや物語を生みだしてくれるプログラミング、といった創作が標的だったようだ。
それが意味するのはすなわち『アイ』の生み出す創作は、人類の欲を満たすもの。
共感性はもちろんの事……求めるもの、期待や希望、負という概念が無いと言えるくらい精巧に創られたそれらは、創作家の全てを奪ったようだ。
アイに全てを支配された彼らは、命を絶つ者が後を絶たなかったらしい。
今では、アイの人形となり、餌を与えられるペットとして生きるしか道は無くなっただろう。
――まあ、だから逃げているわけだけど。
その年から、地球という星は人間の生きた形そのままに、ただアイにされるままに感情を支配されたのだ。
幸福という餌を与えられ、何不自由なく生きられる権利を当たり前のように受け入れることを、違和感なく生活することを、僕は出来なかった。
感情の無い世界に、生きる意味を見出せなかったのだから。
とはいえ、こうして逃げて隠れているうちに、彼女……花梨と出会って感情が揺らぐ出来事が起きているのだから、本当に悪い判断ではなかっただろう。
逃げているのか、という花梨の質問には悩むしかなかった。
先ほど思ったことを全て話せばいい話だが、花梨が知らない、とは考えにくいだろう。それは、花梨が病院生活をしており、アイの事を警戒しているように見えるのだから。
何も知らないのであれば、花梨は間違いなく僕をアイに差し出すはずだ。
アイは、人間の敵では無いのだから。
「……逆に聞くけどさ」
「質問に質問で答えないで」
「何でアイから逃げないで、人間家畜になる事を選んだんだ?」
この質問は、花梨の心情を探るというよりも、ただ気になった。
僕に逃げ出す勇気が、理由があったように、彼女も何か理由があるかも知れないだろう。
気づけば、彼女は呆れた様子も見せず、真顔でじっと見てきている。
月明かりも相まって、なんだか怖く思えた。
「……逃げるも何も、病院生活を余儀なくされてるの。見てわからないの」
「す、すまない」
僕は肩をすくめ、頭を下げた。
花梨が淡々と言い切ったのもあって、鼓動は焦るような音を伝えてきている。
考えてみれば、聞く必要はそもそも無かった。
花梨の様子を見れば、病室にたった一人。ましてや、誰かが来る気配もなければ、他の人と話したことがあるのかも疑問なのだから。
謝ったのもあってか、花梨はじっと見てきている。
相変わらずちゃんと感情がないので、怖さが増している。怒っているのか、それとも許しているのか、それを感情から理解できないのだから。
「なすぅ……なんで、感情、持ってるの」
「花梨、意外と淡白な質問も出来るんだな?」
「淡白な質問、ってなに」
「うん? いや、適当に言っただけだが?」
花梨のムッとした様子が見られれば、と思って適当こいてみたが、彼女はやはり真顔だ。
――ちょっとくらい、笑ってくれてもいいじゃないか。
そう思っても、彼女の心に響くことは無いのだろう。
「……感情の無い世界で、僕は生きる意味を見出せなかったから、かな」
「なす、自分で言ってるのに疑問気」
「感情のない花梨が言っても説得力無いんだが?」
「それはそれ、これはこれ」
花梨は、自分の感情があるのかどうか、本当は不明なのではないだろうか。
話していると、花梨の感情がどこか顔を覗かせようと、そんな様子が見える。
感情の話をしていれば、僕は次第に頭の中でぼんやりとある面影を思い出していた。
同じ志をしている仲間に、花梨と同じ話をした思い出を。
しみじみとした感情が湧き出そうになった僕は、花梨と話しているというのに、思わず首を振っていた。
過去を振り返りたくないわけではないが、今は目の前に居る、花梨という一人の少女に気を引かれているのだから。
「あのさ、花梨は人と……僕以外の人と話したことはあるの?」
「人と話すのは、なすが初めて。それに」
「それに?」
「今の時代は、食事や睡眠以外……それもだけど、娯楽をアイに与えられるしかないから」
花梨の言っている事はごもっともだ。
アイが人間の持つ欲望を叶えられる以上、不自由な生活……感情を除いてだがすることはないので、人々は既にアイに洗脳されている。
だから、花梨とこうして話せるのは何かの縁だと思っている。
アイのテリトリーに居るにも関わらず、こうして解放されているのだから。
本来であれば、人間の女の子であれば、子孫を残す半永久システムの一部にされかねない。いや、男もそうらしいのだが。
考えただけでも身の毛がよだちそうだ。
とはいえ、システムの一部としての役目を終えれば、アイからそれ相応の褒美を受けられるのだから、拒む理由は多分無いのだろう。
僕からすれば、何か大事な感情を忘れてしまいそうで遠慮願いたいが。
「話は変わるんだけどさ、夢、ってあるのか?」
「……それは、感……」
「花梨、どうし――」
僕が尋ねるよりも早く、花梨は力強く僕の服の袖を引っ張り、布団を開いて強引にベッドの中へと引き込んできた。そして彼女も布団をかけたのか、横になった動きの感覚が肌に触れてくる。
――てか、またこれか。というか、花梨が女の子って分かったから、余計に心拍数がヤバい!?
落ちつこうにも落ちつけるはずがない。
花梨がちゃっかりと時計に目をやっていたが、アイの巡回時間と思っておくべきだったのだろう。
今更気づいたが、花梨の布団はふかふかなので、人一人をかくまえるくらいの余裕はある。そのため、以前はアイを誤魔化せたのかもしれない。
シャンプーは何を使っているのか分からないが、甘く優しい香りがベッドの中を漂っている。
そして何よりも今回は、花梨の胸元の方に引き寄せられているのもあり、柔らかさがぎゅっと感じられる。
確かに彼女のふくらみは大きい方だ。
僕は初めて、男の性という欲を抑える、という感情を無駄に浪費している気がした。
何があっても、僕は彼女に手を出すつもりはない。
彼女には、ちゃんとした感情で触れ合って欲しい、とどこか願ってしまうから。
僕は熱帯びた頬から生まれた息を吐き出さないようにして、耳を澄ませてみせる。
彼女の胸元から、小さな鼓動が聞こえる。
――いや、そうじゃない。気配を感じる、五感を集中させろ。
暗闇から、耳を澄まし、心を清め、布団の外へと気持ちを向ける。
気配的に、ちょうど小型ロボットが花梨の病室に入ってきたらしい。
花梨の病室はオレンジ色の明かりが灯されているので、花梨の姿以外は恐らく認知できないだろう。
『被検体一号、山内花梨。調子は?』
「少し息がしづらい」
彼女に聞くことはしていないが、花梨はやはり、何か病気を患っているのだろうか。
しかし、アイの実験の為に隔離されている可能性もあるので聞き出せずにいる。
『感情に変化なし』
「……用が済んだなら、出て行って。今日は早く寝たいの」
『睡眠欲求を確認。失礼する』
病室のドアから閉まる音がしたので、小型ロボットは次を見に行ったのだろう。
体感で数分もすれば「出てきていいよ」と布団の中を覗き、花梨はおっとりした声色で言ってきた。
気づけば、ぎゅっと抱きしめられていた腕は離されているので、やっと花梨の山から解放されるようだ。
気持ち的には、もう少し味わいたい欲はあれ、花梨との話を優先したい。なので、僕は火照った頬を冷ますように息を吐き出し、元居た椅子へと腰をかけた。
開いた窓から入り込む風は、心に安らぎを与えてくる。
花梨が昨日と同じなら、僕の頬が赤い理由は気になるのだろうか。
まあ、聞かれても答える義理は無いが。
「……なすっ、さっきの、話の続き」
「ああ、すまない。確か、感、って言ったところで終わっていたよな?」
「……この病室から出て、外の世界を知りたい……」
「なんだ、夢には感情があるんだな」
「知らない」
「花梨が気にするな。ただ僕は、安心したんだ。花梨の、夢、が聞けて」
花梨はどう答えればいいのか分からなかったのか、静かに頷いた。
感情、という言葉を彼女の前で出せば無理にでも反発するのは理解したのだから、深入りする必要は無いだろう。機会が来たら、教えてあげればいいのだから。
気づけば、木々は騒がしいように風で揺れ、葉を擦り合わせている。
カーテンが揺れたのを機会に、僕は椅子から立ち上った。
花梨と充分に話せたのと、先ほど早く寝たい、と言っていたので長居は無用だろう。
花梨は立ち上がったのを不思議に思ったのか、ジッと目で追ってきている。
「花梨……また明日も来るから。その、今日はありがとう。花梨と話せてよかった」
「また、来てくれるの。……ありがとう、その感情、何?」
「――人が人に、自然に、物に、言葉で手を合わせるおなじない、かな?」
「……おなじな、い」
「そう、おまじない。それじゃあ、花梨、また明日」
「……なすぅ」
僕が手を振って見せれば、花梨も見よう見まねで小さな手を振ってくれた。
花梨の人間味は、僕の普通からすれば可愛いものだ。
僕は花梨に背を向け、温かい気持ちを抱きしめるように、窓から飛び出した。
一人であるのに、どこか一人ではないと、自分にそう言い聞かせるくらいの温かな気持ちを胸にして。