悪い先輩。
1.あの子は先輩と付き合ってる
悪い先輩というものは往々にしているものなのだ。
少年少女たちの学び舎、麝香学園中等部の廊下は今日も往来が多く騒がしい。一人の女子生徒、駒木美悠が理科2と書かれた教科書を持って教室から出てきた。美悠の三つ編みおさげが風に揺れる。教室の前、窓際に立っていた女子生徒の小林智花は美悠を見るとはつらつとした声で話しかけた。窓に寄りかかっていた体勢を変えたことで、高すぎない位置で一つに結ばれた智花の髪もまたゆらゆらと揺れる。
「美悠ちゃん!」
「智ちゃん」
美悠は智花の隣に歩を進め窓によりかかると、片手で教科書を差し出した。
「はい」
「ありがとー! 助かる」
受け取りながら智花はニコニコと笑う。感謝への返事はそこそこに慣れた様子で美悠は言葉を継いだ。
「書き込まないでね」
「分かってるよー」
廊下にあふれる雑音の中に引き戸を引く音が混じる。美悠が出てきた2―Aの教室とは別の、隣の2―Bの教室から女子生徒がもう一人出てきた。佐倉紘という名前のショートボブの少女は二人を見とめるとパタパタと近づいてくる。智花を覗き込むように紘は小首を傾げた。
「次移動だよ」
「うん。すぐいく」
よどみなく智花が返答する。聞きながら紘は智花の手へと視線を落とした。『駒木美悠』と名前の書かれた教科書を見て、いたずらっぽく笑みを向ける。
「わすれんぼ」
「うるさい!」
頬を膨らませる智花とけらけらと笑いながら去っていく紘。ふざけあう愉快な学友たちの姿に美悠の顔にも思わず笑みがこぼれた。一拍置いて、智花が美悠に向き直る。
「ねえねえ」
「なに? ほんとに遅れるよ」
智花の言葉の先を促しつつ、美悠はちらりと自分の腕にはめられた時計を見た。そんな美悠の鼓膜を智花のひそめられた声が揺らす。
「紘恋人いるんだって」
「えっ!」
美悠は目を見開いて顔を上げ、次いで反射的に紘の後姿を見る。
「そ、そうなんだ」
美悠の耳元に顔を寄せ、智花は更に下げられた声量で続けた。
「しかもね」
智花の唇の方に美悠は限界まで体を近づける。智花は囁くように、しかしはっきりと発語した。
「ここの高等部の人なんだって」
美悠の息をのむ音がこだまする。廊下の人通りはいつの間にか減っていた。
「そ、そうなんだあ……」
呆けたような美悠の言葉に智花の興奮した声が重なる。
「やばいよね! 男女交際禁止なのに!」
「う、うん」
美悠はおずおずと頷く。
「でも変だよね」
美悠から天井へと目線を移し、智花は非難めいた声を出した。美悠はキョトンとする。
「なにが?」
「だって友好は深めろっていうじゃん。わざわざ合同のレクとかするし」
智花はまた美悠の顔面に思い切り顔を寄せた。目をパチパチさせつつ、美悠も言葉を紡ぐ。
「委員会は一緒だし?」
「そう!」
教師のように美悠を指さす智花の表情は真剣そのもので、それが何故か美悠にはとてもおかしかった。
「ねえ」
柔らかく微笑んだまま美悠は問いかける。
「なに?」
こちらを見て首を傾げる智花に美悠は自分の腕時計を向けた。
「時間いいの?」
「あ、やば。じゃあ昼ね、返しに来る」
「はーい」
バタバタと走り去る智花に手を振り、美悠はぼんやりと自分の上履きを見る。きちんと管理された上履きには丁寧な文字で苗字が書かれていた。
「……変だよねえ」
人が消え、静まり返った廊下に美悠の呟きが消えていく。予鈴はいつの間にか鳴り終わっていた。
2.先輩は風紀副委員長
昼休み、学園の食堂は生徒たちであふれている。美悠と智花は場所取りに成功し、隅に置かれた二人掛けのテーブルで昼食をとっていた。
「一口ちょうだい」
「いいよ」
大きく開けられた智花の口に、美悠は持ちあげていた一口春巻きを放り込む。にこにこと咀嚼する智花の表情につられ、美悠の頬もゆるんだ。
「駒木」
その声は喧騒に紛れてしまいそうな低く落ち着いたものだったが、美悠の鼓膜は確かに震える。美悠は勢いよく声の方を振り返った。
「鷹村先輩」
高等部の男子制服を着崩した姿を確認すると、美悠はハッとした。大慌てで自分の口の周りを拭う。のろのろと鷹村は美悠のそばまで歩いてきた。
「今日の委員会、場所変わるって聞いてるか?」
「いえ」
鷹村は話しながら美悠の座っている椅子に片手を置いた。美悠はほんの少しだけ体をずらす。鷹村の手に触れないように。
「第二会議室に変更になった」
「わかりました」
「……じゃあ」
美悠が頷いたのを確認すると、鷹村は緩慢に片手を上げた。
「あ……はい」
去っていく鷹村の背中を美悠はぼんやりと見つめる。口の中のものを飲み込んだ智花が、好奇心をはらんだ声をかける。
「せんぱい?」
智花の方に体の向きを直しつつも、美悠の視線はテーブルの上の弁当へ向いていた。
「うん。風紀副委員長」
風紀、と言う単語に智花はかすかに目を見開く。
「美悠ちゃん風紀だっけ」
「そう。じゃんけん負けたの」
困ったように笑った美悠を見て智花の頭は自然と大きく頷いていた。
「やること多いもんね!」
笑う智花に美悠は何も言わず、曖昧な微笑みを返した。
放課後。学園特別棟の一画、第二会議室。
委員会が始まる時間にはまだ早かったが、美悠はすでにそこにいた。一人もくもくと棚に置かれたファイルや書類の整理をする。引き戸を引く音が教室に響き、美悠は顔を上げた。音の方に振り向いた美悠とドアに手をかけた鷹村の視線が交じり合う。
「あ、こんにちは」
ファイルを持ったまま美悠は鷹村に会釈した。
「ああ……何してんの?」
鞄を机の横に置きつつ鷹村は口を開く。美悠はキョトンとした。美悠の返答がないことに気づき、鷹村は言葉を重ねる。
「また押し付けられたんだろ」
尚も呆けている美悠に歩み寄り、鷹村は美悠の持っていたファイルを取り上げた。そこでやっと美悠は論意に気づく。ハッとして思い切り両手を横に振った。
「いえ、私が気になって……だってごちゃごちゃしてたから……」
「はあ。へえ……」
鷹村は一瞬首をかしげたが、特に言及せずファイルを棚にしまった。沈黙が場を満たす。空気に耐え切れず、美悠は小さく俯いた。
「なんか、すいません」
「いや別に。駒木がいいならいいよ」
それまでと同じ鷹村の低い声が美悠の罪悪感を溶かしていく。鷹村が意識的にか無意識にか混ぜ込んだ優しさも、美悠にはしっかり届いていた。
「ありがとうございます」
美悠は柔らかく微笑む。それを鷹村は無言で見つめていたが、しばらくして美悠の三つ編みを片方すくい上げるように手に取った。思わず美悠は顔を伏せる。一瞬で耳まで赤くなっていた。鷹村のその行動が何を示すか美悠はよく知っていたからである。
「駒木。顔上げて」
鷹村の甘さと熱を内包した声に美悠の頬は更に赤みを増した。
「ま、待って。音が……」
美悠は逃げるように扉の方へ向かい耳をすます。足音が近づいてくると間もなく引き戸が開き、よれたスーツを着た男性教師が入室してきた。
「駒木いる?」
引き戸の影にいた美悠の姿が目に入らなかったらしい男性教師は、鷹村に向かって問いかけた。鷹村がそれに答える前に、美悠が声を上げる。
「は、はい」
男性教師は美悠を見とめると、両手で長方形の形を宙に描きつつ本題を問いかけた。
「作文、コピーさせてほしいって言ってたでしょ。今持ってる?」
記憶を探る間もなく美悠は原稿用紙の在り処に思い至る。
「あ、教室です」
美悠の回答に、男性教師はあからさまに困った雰囲気をまとわせた。
「悪いけど取りに行って貰っていい?今刷らないとなんだわ。一緒に行くから」
「わかりました」
お願いというよりも、言外の命令だった。元々美悠は人の機微に敏く、それが分からないような人間ではなかった。頷いて歩き出そうとする美悠の背中に、鷹村の声がぶつかる。
「もう委員会始まるんで無理っすね」
普段の鷹村の声音とわずかだが異なることが美悠にはすぐに分かった。しかし男性教師が気付くはずもない。振り返った男性教師は、薄く微笑んだ鷹村に元気よく告げた。
「すぐ戻ってくるよ!」
言いながら男性教師は美悠の肩に片手を乗せる。鷹村は一瞬顔を引きつらせたが、そのことに気づくものはいなかった。
「ちょっと行ってきます」
「……了解」
会釈をして出ていく美悠に鷹村は短く言葉を返す。しんとした第二会議室に鷹村の舌打ちがこだました。
3.どうしようもない、悪い先輩。
第二会議室では数名の生徒達とジャージ姿の男性教師が話し合いをしていた。引き戸を開け、美悠が入室する。
「遅れてすみません」
「いいよ。鷹村から聞いたから」
頭を下げる美悠に男性教師が微笑む。美悠は微笑み返しつつ早足で鷹村と同じ長机に座った。
「すみません」
「おつかれ」
小声で謝罪する美悠にねぎらいの言葉をかけ、鷹村は美悠にプリントを手渡す。丁寧な動作でプリントを受け取ると、美悠は姿勢を正して前を見た。
「……」
鷹村は数秒美悠の横顔を眺めていたが、すぐに教師のいる前黒板へと体の向きを戻した。美悠が委員会会議に集中しようとした次の瞬間、鷹村は暴挙に出る。机の下できちんと重ねられた美悠の片手を己の手で握ったのだ。美悠は驚いて鷹村を見たが、当の鷹村は何事もないかのように前黒板を見ていた。様々な思考にからめとられ、うろたえる美悠の耳に男性教師の声が入り込む。
「駒木、どうした」
「え、え? えっと、なんでも、何でもないです……」
男性教師の言葉の意味をやっとのことで飲み込みながら、美悠は懸命に口を回した。
「走ったから疲れてんだろ。顔真っ赤」
「あ、ああはい。そうです」
笑いかける男性教師に微笑み返しながら、美悠は鷹村の手を振りほどこうと悪戦苦闘していた。しかし鷹村の方が圧倒的に力が強く、それは叶わない。
「じゃあ駒木に読み上げてもらおうか。中等部のとこ。はい立って」
「は……はい」
男性教師の言葉につとめて冷静に返答しながら、美悠はなんとか鷹村の手を振りほどこうとした。結果は変わらず、美悠の焦りばかりが募っていく。いつまでも立ち上がらない美悠の様子に、男性教師が首を傾げた。
「駒木?」
「あ、あの」
美悠はぱくぱくと口を開いたり閉じたりするしかない。抵抗をやめた美悠の手を、鷹村はそっと離した。
「大丈夫か?汗すごいぞ」
「あ、結構ほんとに、走ったから……」
キョトンとする男性教師に美悠はへらへらと微笑む。席を立つために美悠は椅子に手をかけた。その際、鷹村の足を思い切り踏みつける。
「いっ……」
不意に漏れた鷹村のうめき声に、男性教師はまた首を傾げる。
「どうした」
「なんでも、ないです」
痛みに顔を歪める鷹村からぷいと顔を背け、美悠はプリントを読み始めた。
同刻。同じく特別棟の一画、第二音楽室の前に佐倉紘は立っていた。引き戸の前で辺りをキョロキョロと見回す。人気がないのを何度も確認し、紘はゆっくりと深呼吸した。引き戸を三回ノックする。鍵の開く音を聞くと、紘はゆっくりと引き戸を開けた。教室に足を踏み入れ、後ろ手に丁寧に閉める。引き戸に鍵をかけてから、紘は目の前の人物の名前を呼んだ。
「如月せんぱ……」
紘の唇に自分の人差し指を当てて言葉を遮ったのは、高等部の制服を身にまとった女子生徒だった。
「名前で、呼んで?」
とろんとした顔で紘は女子生徒を見上げる。
「天音、先輩」
天音と呼ばれた女子生徒は花がほころびるように微笑んだ。
「大好きよ。紘……」
告げながら天音は紘の唇へと口づける。
美悠も、そして紘も、こらえ性のない先輩と付き合っている。悪い先輩というものは往々にしているものなのだ……男女問わず。