完璧を強いられていた公爵令嬢が、愛されて幸せを感じるまでのお話。
「お前はこの国の王太子である私の婚約者なんだ。私の隣に相応しい、完璧な女性であってくれ」
聡明で穏やかな王太子様の婚約者である私。誰もが羨むポジション――な、はずなのに。
完璧たれ。完璧たれ。完璧たれ。
王太子様が、会うたびに仰る言葉。
その言葉は呪いとなり、鎖となって、私の身体を身動きできないまでに縛り上げる。
数多の令嬢を虜にする王太子様の美しい微笑は、どこか冷たく見えた。
―――――――――
王太子様と婚約して5年が経った。
今日は王宮を訪れて、晴れた空の下でお茶を楽しむ日。週一回必ず王太子様と会って王宮でお茶をするのは最早日課となったけど、未だ慣れない。
ふわりと穏やかな風が吹き付ける。春の訪れを匂わせる花々の香りが鼻腔を擽った。
正面の席には、婚約者である王太子様が座っている。陽の光を浴びた金糸のような髪は輝くよう。透き通るようなサファイアの瞳。口元はゆるりとカーブして笑みを作っている。その姿は絵本から飛び出してきた王子様そのものだ。
どきどきと心臓が高鳴る。それは、決してときめきじゃないことは明らかだ。
ソーサーを左手でそっと持って、右手でカップの取っ手をそっと摘む。すん、と紅茶の香りを嗅いで。
「……この紅茶は、隣国で有名なルネフェルトのものですか?」
「そう、そうだよ。良く分かったね」
「ルネフェルトは甘い香りが特徴的だと、以前王太子様が仰ってましたので」
「うん。それでこそ僕の婚約者だ」
ほ、と一息つく。
直前まで二種類で悩んだけど、間違っていなかったらしい。
大丈夫。まだ私は大丈夫。
カップをゆっくりと口に近づけ、音がならない様に啜る。一気に飲まずに、口を湿らす程度から。
指が震える。持ち手が定まらず、カップがカタカタと音を立て――
「ライラ。それじゃ駄目だよ。相応しくない」
この空間の温度が下がる。冷たい気配に我知らず身体を縮こませた。王太子様はいつも通り笑っている。いつも通り、感情の読めない表情で。
「カップの音を鳴らしたら下品だろう。そんな事も出来ないのかい?僕の婚約者は」
「……申し訳ございません」
「ライラ。君は完璧でなきゃ意味がないんだよ。未来のお妃様になるんだから」
サファイアの瞳がすうっと細められる。恐ろしいほどの威圧に、呼吸すら苦しくなる。
手の震えが止まらない。静かな空間に、カチカチと音が響いた。
「……もういいよ。お茶は終わりにしよう。次は完璧にできる様に練習してくるんだよ。次が出来なかったら……分かるよね」
「……っ、はい」
俯き、小さく返事をする。がたっと席を立つ気配がしたけど、お見送りすらできなかった。
ああ。また失敗してしまった。最近は失敗することも減っていたのに。
どうして出来ないんだろう。知らずのうちに涙が滲んで、視界がぼやける。
そうして俯き続けて、どれほど経っただろうか。
「あ、ライラだ」
不意に頭上から声が降ってくる。王太子様の声と似た、穏やかなテノールボイス。
顔を上げる。金色の髪、サファイアの瞳。王太子様とそっくりの綺麗な顔立ち。でも、王太子様はこんな笑い方をしない。こんな、暖かくて大らかな微笑は。
「第二王子様」
「素っ気ない呼び方だね。ルイでいいって」
「……ルイ様、で宜しいですか?」
「そう。それでいいよ」
第二王子、ルイ様。王太子のレイ様とは双子の兄弟。顔がそっくりで、身の回りの世話をする使用人はしょっちゅう間違えると聞く。
でも、私は間違えたことはない。雰囲気とか、笑い方が全然違うのだ。
ルイ様は先程まで王太子様が座っていた椅子に腰を下ろし、カップに注がれた紅茶をしげしげと眺めた。
「これ、どこの紅茶?」
「ルネフェルトのものですよ」
「へー!そうなんだ。良く分かったね」
ルイ様の瞳が細められる。太陽の様な笑みは眩しくて、直視出来ずに顔を背けてしまった。
「僕は兄上と違って『出来損ない』だからさ。ライラが教えてくれて助かるよ」
「出来損ないなんて……そんなことないですよ」
「双子だと比較されるんだよね。勉強も、剣技も兄上の方が上でさ。兄上は全てにおいて完璧だから」
完璧。その言葉にどきっとする。
確かに王太子様は稀代の天才であると有名だ。何をやらせても一流であると、貴族達は次代は安泰だと王太子様を褒め称え、婚約者である私を羨ましがる。
第二王子であるルイ様も、「完璧」に縛られて苦しんでいるのだろうか。そう思うと、少し親近感の様なものを感じた。
「あのさ、さっき兄上が歩いてくの見えたからここに来たんだけど……もしかして、また?」
「……はい、私が出来ないから、王太子様を怒らせてしまいました。あの、もし宜しければルイ様からお伝えしてもらってもいいですか。先程は婚約者である私が粗相を犯してしまい、申し訳ございませんと――」
「謝る必要なんてない」
ルイ様はじ、と真剣な瞳で私を見る。
同じ顔立ちなのに、どうしてだろう。ルイ様を見ると、ほっとする様な安心感が広がっていく。いつの間にか、手の震えも止まっていた。
「どうせ今回も大したことのないことで怒ったんだろう?気にする必要ないよ」
「でも、ミスをしてしまった私がいけないので……」
「結果じゃないよ。僕だったら過程を見る。愛しい婚約者が、僕の為にここまで頑張ってくれたんだなって思う。あ、もちろんやり過ぎの努力を押し付けることはしないけどね」
温かい言葉に、じわ、と瞳に涙が滲んだ。
完璧な王太子妃となる為に、努力は惜しんでいない。会う時間以外は出来るだけレッスンに時間を割く様にしている。お作法も、勉強も、勿論外見磨きも。だからこそ。
「ライラが頑張ってるの、僕は知ってるから」
頑張ったねって、褒めて欲しくて。
ほら、また。ルイ様の言葉で救われる。
―――――――――
婚約して8年が経った。
今日は王太子様の婚約者お披露目パーティー。今までの8年間は親睦を深める為にあったもので、このパーティーを経て正式に婚約が決定する。
そうして1年後に結婚式を挙げるのがこの国のしきたりだ。
私は王太子様が前に好みだと言っていたドレスを着て、会場の人にご挨拶をして回っていた。
胸にはサファイアが埋め込まれていて、全体にもクリスタルが散りばめられた、上品ながら派手すぎない一品。
お淑やかに微笑んで、ドレスを少し摘んでお辞儀をして。……ちゃんと笑えているだろうか。
「王太子様のご入場です!」
正面の扉が開かれ、入ってきた王太子様に皆が息を呑む。着飾った王太子様は一段と美しく、一際目を引く容姿をしていた。
そのまま挨拶も兼ねて壇上に上がり、王太子様はぐるりと周囲を見渡す。騒ついていた会場は瞬く間に静かになり、厳かな空気が漂う。
ここで私の名前が呼ばれて、婚約者としてお披露目されるのだ。すぅっと深呼吸をした、その時。
「王太子、レイ・スティアーノルドは、アリザ・レディクスとの婚約を発表する!」
――え。
会場が、水を打ったように静かになった。
想像と違ったからだろう。皆、私の名前が呼ばれるものだと思っていたからだ。
そんな中、アリザ様と思われる令嬢が躍り出る。自信に満ち溢れた堂々とした振る舞いに、ぱっと目を引く美しい容姿。壇上に上がったアリザ様は一言二言述べた。
パラパラと疎な拍手は瞬く間に広がっていき、わっと大きな歓声と拍手が鳴り響く。
そんな中、私は呼吸すらままならず立ち竦んでいた。会場は予想外の婚約者に驚いたものの、王太子様のことだから何かあったんだろうと勝手に理由付けをして納得し始めている。
会場全体に置いて行かれた様な疎外感に、おかしくなってしまいそうだった。
――どうして。なんで……?頑張ってきたのに、全部無駄だった?今までの8年間は何だったの?
絶望と衝撃で涙すら出ない。纏まらずにどこかへいってしまいそうな思考を繋ぎ止める様に、ぎゅ、とドレスの裾を握りしめた。
そのままパーティーが始まり、皆が談笑する中、王太子様とアリザ様が近づいてくる。
私の目の前に立った王太子様は、一言告げた。
「君には愛想を尽かしたんだよ」
その微笑みは、あまりにもいつも通りで。
咄嗟に言葉が出ない私に、アリザ様はふっと笑った。
「私とレイ様の婚約の話は前々からレイ様に持ちかけられていましたの。レイ様に聞けば、貴女、相当レイ様を困らせていたみたいね」
「……困らせて、いた」
「そうよ。公爵家の出だからって、甘えるのもよした方が宜しいんじゃなくて?」
私は、王太子様を困らせていた?
私は、王太子様に甘えていた?
そんなことない、と言えなかった。
やっぱり、私じゃ相応しくなかった。完璧に出来なかった。だから、愛想を尽かされたのかしら。
努力は怠らなかった。でも、足りなかったのかもしれない。……分からない。
もう、何もかも分からない。
ただ、痛くて痛くて堪らない胸を抑えていると。
「皆様に、もう一つ大事なお知らせがあります」
聞こえてきた声に、会場全体が壇上に目を向けた。
壇上でマイクを握るのは、第二王子のルイ様だった。会場の皆は私の近くにアリザ様と腕を組んで佇むレイ様を見て、双子の弟のルイ様が壇上に立っている事に気づき、騒つき始める。
それもそのはず、ルイ様の発表は予定になかったものだ。
万人を明るく照らす太陽の様な笑みを見せ、ルイ様はよく通る声で言った。
「ルイ・スティアーノルドは、ライラ・シュバリエとの婚約を宣言します!」
私の、名前。……私の名前?
訳が分からなくなって混乱する私に、ルイ様は手招きする。引き寄せられるがまま、壇上にいるルイ様の隣に立った。
未だ騒つく会場の中で、ルイ様はマイクを下ろし、そっと耳元で囁く。
「突然で驚いたよね。僕も驚いてる。あの馬鹿兄が、ライラとの婚約をなかったことにするなんて」
「馬鹿兄……」
「そう。大馬鹿だよ。だって、こんなに素敵な令嬢を自ら手放すんだよ?あり得ないね」
ルイ様はそっと私の手を握った。温かい手だった。
「でも、そのお陰で、僕がずっと好きだったライラは、兄上のものじゃなくなった」
好き。
長らく聞いていなかったその言葉に、かあっと頰が熱くなる。人から好意を伝えられるのは、こんなに嬉しいものなのね……って、そうじゃなくて。
「ルイ様が、私を?」
「うん」
「い、いつからですか」
「小さい頃から。君が兄上と婚約して、王宮に出入りするようになった時から、ずっとだよ」
ルイ様は目を伏せる。長い睫毛がふるりと震えた。
良く見れば、ルイ様の頰も少し赤らんでいて。
「諦めてたけど、この土壇場でチャンスが来た。そう思ったら、また取られる前に言わなきゃって思って……身体が勝手にさ。ごめんね。君の気持ちを無視してこんなことしてしまって」
「いいえ……そんな事ないです。ルイ様の言葉は、凄く嬉しかったですから」
「本当?嬉しいと思ってくれたの?」
「……はい」
どきどきして、顔がまともに見れない。
私は緊張や動悸でもない胸の高鳴りを感じていた。
ルイ様はいつも私を励まして下さった。
君は充分頑張ってる、と褒めて下さった。
それにいつもいつも救われて。優しくて素敵な方だな、と、ずっと思っていて。
「婚約、お受けします」
「良かった……!ライラが僕を好きになってくれるように、頑張らなくちゃな」
本当に嬉しそうに笑うルイ様に、釣られて微笑む。
多分、ルイ様を好きになる日はそう遠くないと。
そう、感じるのだった。
ここまで読んでくださりありがとうございました!