第四十七話 真種子
翡翠館の離れにあった宴会場の中では、わしと紅玉の身請けを祝うために集まった客たちの歓声が沸き起こっていた。
先ほどから余興として行われていた曲芸師たちの剣劇や人形劇が終わると、今度は琴、琵琶、箜篌(ハープ)などの弦楽器に加え、笛や笙の管楽器の音色に合わせて芸妓たちが歌い舞い始めたからだ。
もちろん、踊っているのは翡翠館でも選りすぐりの美女たちである。
しかも女の肝心な部分だけを小さな衣装で隠し、その上から透明な薄い裾物――羅裙だけを羽織っているほとんど裸同然の状態だった。
そのため、酒に酔っている客たちからは野卑な歓声が飛び交っている。
くくくっ……最高だ。
これこそ至福の時というものよ。
しかし、本当に至福なのは曲芸師たちの演劇でも芸妓の歌や舞でもない。
わしは酒杯に注がれていた酒を飲むと、隣に座っていた妓女へ空になった酒杯を突き出す。
「ふふふ……豪気な飲みっぷりですね、笑山さま」
隣に座っていた紅玉は、わしの酒杯に高級酒を注いでいく。
そうである。
本当に至福なのは、隣にいる紅玉を身請けできたことだった。
何せ紅玉はこの王都・東安の花街――彩花1の美女と評判の妓女なのだ。
要するにわしは皇帝陛下を除き、華秦国1の美女を手に入れたに等しい。
これを至福と言わずして何と言うのか。
しかも紅玉は身を売って成り上がった妓女ではなく、芸を磨き上げて成り上がった上位中の上位の芸妓でもあった。
本来、普通の妓楼では芸を売る妓女と身を売る妓女の区別はない。
だが、この翡翠館では明確に区別をつけていた。
なぜなら身を売る妓女は当然の如く夜伽の技で男たちに金を落とさせ、一方の芸を売る芸妓は詩や楽を始めとした、遊戯や話術などの腕前で男たちに客を落とさせていたのである。
そして、そんな芸を売る芸妓たちの大半はあまり身を売っていない。
別の男どもの手が多く触れた肌よりも、ほとんど触れていない肌にこそ価値を求めるのが男という生き物の性を利用することで、芸妓の値段をどんどん吊り上げていけたからだ。
もちろん、わしもその考えは否定しない。
これまで他の妓楼に通っていたときも、必ずわしは気に入った年若い妓女が処子(処女)なのかどうか確認していたぐらいだった。
それぐらい妓楼に通う金持ちの男たちは妓女に浪漫を求める。
そしてここの妓主である大観の話によれば、今まで紅玉と1晩を過ごせた男は片手で数えられる程度にしかいないという。
無理もない。
ただ会うだけでも大量の銀貨が必要な紅玉なのだ。
1晩を過ごすとなると、それこそ銀貨ではなく金貨が必要になってくる。
それも十数枚は要るだろう。
並大抵の客では身請けどころか、1晩を過ごす金を出すだけで下手をすると資産の一部が無くなるほどだ。
身請けともなるとなおさらである。
たとえ東安の豪商や上級役人とはいえ躊躇するはずだ。
けれども、わしはやれた。
他の金持ちどもが出来なかったことをわしはやれたのだ。
そして昨日は周囲への説明や宴の段取りに参加していたので無理だったが、こうして無事に彩花全体へわしが紅玉を身請けした話が広まった今日は違う。
わしはちらりと紅玉を見る。
美の結晶とも言うべき整った顔立ち。
血のように赤い唇。
艶やかな光沢を放つ流麗な黒髪。
吸いつきたくなるほどの色白の肌。
男の欲求を高める豊満な胸。
高価な衣裳の上からでも分かる柔らかな肢体。
どの場所のどれを見ても、わしの性欲を掻き立ててやまない。
今までは高嶺の花だったものの、こうして身請けが正式に決まった以上はもう遠慮はいらなかった。
現在は戌の刻(午後7時~午後9時)の半分を過ぎた辺りだろうか。
そろそろわしと紅玉の2人が抜けても宴に支障はないだろう。
では、2人で宴の席を外してどこで何をするのか?
決まっている。
本館の3階にあるという紅玉の部屋へと行き、悲願だった1晩を明かすのだ。
「なあ、紅玉……そろそろ部屋へ行かんか?」
「あら? もうお酒はよろしいのですか?」
「うむ、酒よりも今は別のモノが欲しくてな」
そう言うと紅玉は、わしに身体をすり寄せてきた。
香の良い匂いが鼻腔の奥を刺激してくる。
「旦那さまは私が欲しいのですね?」
くらりと眩暈がしそうだった。
旦那さま。
何という心地よく甘美な響きなのだろう。
もう我慢できなかった。
ぴくりとわしの股間の一物が反応してきたこともある。
わしと紅玉は宴を取り仕切っていた人間――酒令に一声掛けてから宴会場をあとにした。
もちろん、わしたちがいなくてもいいように数枚の金貨を皆の前で手渡すことも忘れない。
この金で引き続きお前たちは豪勢に飲み食いしろ、という意味で渡したのだ。
やがてわしと紅玉は大広間へとやってきた。
ブルッ。
と、わしは小さく身を震わせた。
念願だった相手と1晩を過ごせることに緊張したのか、どうも小用がしたくなってしまったのだ。
「紅玉、すまんが先に部屋へ行っていてくれ」
「分かりました」
基本的に妓女は普通の女と比べて物分かりが良い。
なので紅玉もすぐにピンときたのだろう。
紅玉はわしに一礼すると、優雅な歩きで2階へ続く階段を上がっていく。
一方のわしは紅玉を2階まで見送るなり、急いで裏方へ回って洗手間へと駆け出した。
さっさとすることを終えて紅玉の部屋へ行かねば。
はあはあ、と息を切らせながら洗手間へと向かい、わしは普段よりも素早い動きで小用を終わらせた。
そして元の大広間へと戻ろうとしたときだ。
ドンッ!
わしの身体に何かがぶつかってきた。
「わっ、すんまへん」
ぶつかってきたのは13、14歳ぐらいの少女だった。
どうやら男衆の詰め所から出てきた少女と、わしが通路を駆けていた時機が偶然にも重なってぶつかってしまったらしい。
年齢的に客を取る前の禿だろう。
「おい、禿ならば気をつけろ。そんなことだと客など取れんぞ」
「へ? いやいや、うちは禿やおまへん。流れ者の薬士ですねん」
「薬士だと?」
わしが訝しんでいると、あとから出てきた男衆の1人が「これは笑山さま」と頭を下げてくる。
「どうしてこんなところにおられるのですか?」
「うむ、紅玉の部屋に行く前に少し用を足したくなってな……そんなことよりも、この娘が薬士というのは本当か?」
「ええ、しかも見た目とは想像もできないほど凄腕ですよ。打撲の熱と体調な悪さで苦しんでいたうちの男どもを、あっという間に治してみせたんです」
そんなことはどうでも良かったが、こんなときに薬士と会ったのは幸いだった。
「おい、薬士の娘。お前、床を長続きさせるような薬は持っていないか? あるのなら高額で買ってやるぞ」
せっかく紅玉と1晩を過ごすのだから、たった1回の睦事(性行為)で気力と体力を萎えさせたくはない。
「あいにくとそっち系の薬の持ち合わせはありまへんが、似たような効果を発揮する薬ならありまっせ」
変な訛りのあった薬士の娘は、懐から小さな包み紙を取り出した。
その包み紙をめくって中に入った3つの丸薬を見せてくる。
「これは真種子言う、うちが最近作った薬ですねん。滋養強壮の効果が高くて、他にも怪我自体や怪我による体調不良なんかによく効きましたわ。おそらくですけど、お客はんが求めている効果も期待できると思いますよ」
「ほう……ちなみにいくらだ?」
薬士の娘は1粒だけをつまみ上げ、わしに見せつけてくる。
「1粒で銀一両(約10000円)でどないでっか?」
わしは薬士の娘の持っていた包み紙ごと奪い取った。
同時に薬士の娘の手に銀貨を1枚放り投げる。
「ちょっと、何するんでっか! これじゃあ、1粒の代金でっせ!」
怒り狂った薬士の娘とは違い、わしは冷静な口調で答えた。
「わしの名前は孫笑山だ。もしも、この薬がわしが思っているよりも効いたら銀貨と言わず金貨をくれてやる」
わしはそれだけ言うと、身体ごと振り向いて紅玉の部屋へと向かう。
後ろで薬士の娘が何やら騒いでいた中、わしは何もしないよりマシだと自分に言い聞かせて丸薬の1つを口に入れた。
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