幕間 白兵戦
「立て。もう一度だ」
アントノフ曹長がドスの効いた声で命令する。
私は顔にこびりついた泥を落とすこともせずに、悲鳴を上げる身体に鞭打って立ち上がる。
もう無理ですなどと弱音を吐こうものなら何をされるか分かったものじゃない。
隣ではエーリャが青息吐息になっている。
何度も地面に叩きつけられ、全身泥まみれだ。
さっさと終わりたいがアントノフ曹長から1本取るまで終われない。
そして私はエーリャと共にまた立ち向かう。
マスクヴァ防衛戦に向けて訓練が激しさを増す中で私とエーリャは白兵戦の稽古をつけられていた。
促成過程で戦車兵になった私たちは白兵戦など教わらなかった。
それを憂慮したアントノフ曹長がありがたくも教えてくれているわけだが──ハッキリ言って拷問に等しい。
何せ格闘の技は直接掛けられて叩き込まれるし、稽古の場所にしたって訓練場みたいな均された地面じゃなく、湿気てそこら中に石が転がっている、倒れたら痛くて不快な場所。要は実際に戦う場所だ。実際の戦闘は屋内や砂場ではなく、未整の荒野か市街地で行われるのだから。
訓練に際しては少女のか弱い身体を労わるなんてことはしてもらえない。そんなのは戦場を知らないお坊っちゃんの偽善だとアントノフ曹長は言っていた。
彼が教える内容は時間的制約もあって種類は多くなかったが、極めて実戦的なものだった。
たとえばナイフの握り方。
「シルカ……お前、肉切ったことないのか?」
私が真っ先にアントノフ曹長に言われた言葉だ。
返す言葉もない。前世じゃ肉は切るものじゃなくて、切ってあるものを買うだけだったし、今世では自分で料理なんてほとんどしていない。
そんな私が人を斬ったり突いたりして殺すための握り方などできるわけはなかったのだが、アントノフ曹長はじめ、ユニオンの人間はそうではないらしい。
アントノフ曹長から見れば私のナイフの扱いは「全然なってない。全てやり直せ」だったわけだ。
私がさっきの質問の意図を測りかねて、訓練所では巻き藁でできた人形で訓練していたと言ったら、彼はため息をついて言った。
「そんな固くて斬りやすいものを切ってなんになるんだ。せめて肉を切れよ。実際、相手が動けば刃が転ぶし、斬っても肉が刃にまとわりついてくるんだぞ。そんな握り方じゃ、素振りは出来ても現実の相手の身体のなかには入っていかない。振り回せたところで握り方がなってなきゃ意味はないんだ」
どうやらアントノフ曹長は本当にナイフで相手を倒したことがあるらしかったが、私はどうにもそのことを聞けなかった。
平和な日本で包丁やカッター以外の刃物をほとんど使わず、戦いはパソコンの画面の中で行うものだった私は生々しいリアルを知るのが怖かったのだ。
だが、そのリアルは意外にすぐに知れた。
エーリャがわざわざ白兵戦の稽古をやる意味をアントノフ曹長に質問したのだ。
戦車兵は戦車で戦う兵科であって、ナイフでの白兵戦を行う状況は考えにくい、それを行うのは歩兵やデサント兵であり、自分たちの役目は彼らの火力支援や盾役ではないのですか、と。
それに対してアントノフ曹長は淡々と、それでいて凄むような感じで答えた。
「戦車兵なら白兵戦にならないとでも?貴様戦場を舐めすぎだ。戦車を失ったら?弾を撃ち尽くしたら?後は素直に殺されるだけか?それとも投降か?生憎と愚にもつかない敗北主義者はチームには要らねえ。それにそんなヤツをユニオン軍は戦力の頭数に入れねえぞ」
「戦争ではあり得ねえと思われてたことが普通に起こる。接近せずに相手を倒せればそれに越したことはねえが、交戦地域のど真ん中で戦車が故障でもすりゃ、嫌でも白兵戦になる。そんな状況で生きて帰るためには必要な知識と技術があるんだよ。お前たちに欠けてるのはまさにそれだ」
「俺は前に戦車をやられて敵が迫ってくる状況に置かれた。戦車から逃げ出して、丸腰のまま追い立てられて、倒した敵から銃とナイフを奪って、たった1人で戦いながら逃げて、それでも諦めずに生き延びてここにいる」
「勝つってのは生き残ることだ」
この時のアントノフ曹長の言葉は私にとっての金科玉条になった。
「やったじゃねえか」
喉元にナイフを突きつけられたアントノフ曹長が笑みを浮かべる。
エーリャと2人がかりでアントノフ曹長を取り押さえて1本取ることに成功したが、身体は泥だらけ傷だらけで疲れ切っている。
アントノフ曹長とて本気じゃなかっただろう。本気だったら私とエーリャは10回くらい死んでいる。
散々殴られて蹴られて投げ飛ばされたが、これで今日のところは終われる。
「エーリャ。いい動きだったぞ。お前はセンスがいい。それに力がもう少し加わればより効果的だ。励め」
「シルカ。今日のお前はなかなか闘志があって良かったと思うぞ。人間同士の戦いは結局のところは気合で決まるからな。その感覚と意気を忘れるな」
アントノフ曹長の憎めないところはなんだかんだで良くなった点を褒めてくれることだ。貶すだけなんてことは絶対にない。
アントノフ曹長が私たちが生き残れるようにと思ってやっていることが理解できるからこそ私は反抗や逃亡を企てたり、死んだ方がマシだと思わずに済んでいる。
「「ありがとうございます」」
背筋を伸ばして礼を言って今日の訓練は終わり。
さて、明日は1本取るのにどれくらいかかるだろうか。