地図に無い街 ─Remake ver.─
一つの目標があった。
それは遡ること十五年、僕のおじいさんの代から続く。目標にしては小規模だが、この小さな地図の外に出ること。広い大きな世界の中で、この小さな地図にはまだ記されてない地図の端の外へと足を運ぶことだ。
未開の地をこの足で歩いて探索すること、それは探検家なら誰もが一度は夢見て憧れるもの。
この命の灯火が続く限り僕らは歩き続ける。
五年前におじいさんが死んで、今度は父が探検をする番になった。病弱の父は、常に馬車を使って様々な街を訪れていたのだが、その身体は病をもらいやすい体質。旅を続けて一年後に体力が枯渇しきった父は、やがて不治の病に侵され、馬車の床に伏せって早くも帰らぬ人となった。時は巡って今は僕の番だ。
「ここが山頂かナ?」
パーカーのフードから顔だけ出した一匹の黒い仔猫が声を震わせながらそう呟いた。僕は少し息を切らせながらそれに小声で返す。
「あと少しだよ、ノイ。酸欠で寝てたんじゃなかったのかい?」
「過呼吸で寝るとか、興奮した変態じゃあるまいし。えっちらおっちら歩いてねぇではよ歩けよナァ、このノロマ」
吐き捨てるようにそう言ったノイに僕は溜め息をついた。
「僕はノロマじゃない、ノーマ」
そう、僕の名前はノーマ。貴族じゃないから、苗字は無い。でも平民でもないのが余談。地図が四角なら、地図に端は四辺にある。仔猫のノイは耳の裏を後ろ足で、かいかい掻きながら気だるそうに答えた。
「ヘイヘイ、ずいぶんとアブノーマルな名前なこっテ」
猫は普通喋らない、仔猫も。その点で言えば、ノイの存在もアブノーマルだ。ノイとは、昔から一緒に居た気がするが、馴れ初めなんてもう覚えていない。
「僕に言わせれば、ウスノロって呼ばれないだけまだマシだな。それよりも、早くこの山を越えたいならノイが自分で先に行って待ってろよ」
ノイはふにふにの肉球で僕の後頭部をたしたし叩きながら言った。
「アホか。このオレサマを、ふにふにの肉球使って早速歩かせる気かよ。それにはちと気が早いゼ」
この意味不明なボケはスルーでいい。それよりもコイツは人間不信であるせいか、使う言葉にかなりの棘がある。
「肉球って敏感なんだっけ」
「ノーマ、さては忘れてやがったな。無駄に長いそのアホ毛今すぐ引っこ抜くゾ」
そう言って再びフードの中に潜り込んで、じゃれつくように後ろ足だけ出して弱いキック。棘しかないな。どう考えてもこの山を登っていた生物は僕だけだったのだが、そこは気にしない。三メートルを一階と考えると、山頂まであと五階ほど。いや、あと六階くらいかな。
「はぁ、はぁ……やっと、着いた」
僕は息を整えながら、改めて今まで歩いてきた道を見ていた。昨日休んだ街が見えた、ここからは霞んで小さい点にしか見えないが、そこには確かに人が住んでいる感じがする。顔を正面に戻すと、そこには一面に広がる銀世界。後ろに対してこの白さには、
人の気配どころか前に進める気さえしない。そこで行き止まりなのではないかとさえ思えてくる。
「ノイ、下見える?」
後ろの街は点で見えたけど、僕にはこの山の下に何があるのかすら見えない。だから敢えてこの黒い猫に尋ねてみる。
「猫の視力なめんなヨ」
「何か見えるのかいっ!?」
僕には足元の山肌すら白に見えて、地面と正面との判別がつかないのだ。滑り落ちればもう帰れないかのよう。
「いや、視力悪過ぎるからあてにするなよって意味だヨ」
僕はずっこける振りをして、本当に斜面でこけかけた。
「おい、いくらノロマでもこっから落ちたらそれなりの速さで死ねるゾ、流石に」
即興のわりに面白い。でも笑えないほど下らないのは確かだ。周りを見回していると、何かを見付けたノイが声を上げた。
「ノーマ、ノーマ! 見ろよあの割れ目、めさめさ光ってるぞ!」
地形的に横長の山頂、地図で言えば最西端なのだが、ノイの見る地面の続く方を目で辿ってみると、光だけが見えた。割れ目? 僕にはここからでは、どんなに目を細めても小さい光にしか見えない。ノイって本当は視力良いんじゃないだろうか。それともただ、夜目が効くだけなのか。周りをよく見ながら近寄ってみる。
どうやらこの光以外に似たものは見当たらない。一歩、また一歩と近付くごとにどんどんその割れ目が大きさを増す。
「階段、だナ」
ノイが呟いた通りそこには、割れ目からおそらく山の底へと続くであろう階段があった。残念ながら、ここから中の様子は伺えない。溶岩の熱気は感じない。むしろ少し冷たい風が立ち昇って来る。この先には遺跡でもあるのだろうか。ここを進んでしまうと、もうここには戻って来られない、不思議とそんな気がした。
「おい下りるのかよっ!? こっからじゃ底はなんも見えねぇぞ。あと、一度入ったらもうここに帰って来れる気がしないんだガ」
ノイも僕と同じことを思ったのか。言い放ったノイの前蹴りで我に返って、改めて僕はこの階段を見詰めてみる。
「行くよ。僕もノイも、地図を越える以外にこの一生を費やすことなんて無いだろう?」
「そんな一蓮托生みたく言われたら、オイラは何とも言い返せねえだろう。オラ、行けヨ」
「ははっ。みたい、じゃなくて一蓮托生のつもりで言ってみたんだけどな」
遺跡というワードから連想してしまっただけなのかも知れないが、やたら文明を感じさせる整った石畳の階段を下りる。青々とした冷たい壁の所々には、打ち込まれた蒼白い光。よく見るとそれは輝光石だった。微かにひんやりした風を受けながらも、ゆっくりと階段を下りてゆく。
手の平に触れる壁はデコボコしており冷たくて、石というよりかはまるで氷のよう。とても高い山を登ったつもりはなかったので、山頂は全然寒く感じなかった。もしかすると、あの白は霧か雲だったのかも知れない。今更ながらそう思えた。
ここの温度を季節で表すなら冬と春の間。暑くないし寒くもない、なんだか心地の良い感覚。山は小さかったし、最下層に辿り着くのも時間の問題だろう。しばらく無言で下りると階段が終わって、丸く広いフロアに出てきた。入り口の向かいに下へと続く階段が見える。
「コロッセオかな」
「跡地だナ」
同時にそんな声が出た。なんだ、黙ってたから寝てるのかと思ってた。この円形のフロアは下に深くなっていて、最下部には円形に形どられた大理石のステージが見える。
「回ればあの階段に着けそうだナ」
僕の頬をたしたし叩いてアピールしているが、僕はステージへ降りる階段の方へ進む。
「まあ、折角だから下りて真っすぐ行くよ。それでいいかい?」
「それを訊くのカ。どうせオレサマは歩かないし好きにしろよ、というかもう下りる気満々じゃないかヨ」
心の中でありがとう、と呟いて僕は階段に足を下ろした。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
このフロアへ入る階段は二つ。ステージの方へ下りられる階段はここと向かいと左右の四つ。四つの階段の間には観客席。と言っても、段を太くした階段みたいなものだ。観客席からでも下へと行けるが、それはマナーの悪いやつがすること。下りきってステージに上がり。真ん中に立って辺りをぐるりと見回す。するとふとあることに疑問を感じた。
「明るいな、どうしてだろう」
「壁に刺さってた光る石のおかげじゃないのカ?」
僕のフードから顔を出したノイは辺りをキョロキョロ。
「むむっ、無いな。ああ、上見てみろヨ」
地面に刺し込む光を追って目線を上に移すと、徐々に光が強まって自然に目を細めてしまう。真上にはぽっかりと大穴が開いており、月みたく白く光る太陽が覗いていた。
「僕ら朝には出たのに、もう真上に太陽が見えてるね、しかも白い」
「その理由については流石のオレサマにも判らン」
ノイは再びフードの中に潜ってしまったので、僕は次の階段の方へと歩くことにした。
「もういいのカ?」
「うん、綺麗なものが見えたからね」
ノイはそうか、基準が判らん、とそう言って口を閉ざした。ステージから下りて出口方面の階段を上り、次の階段の壁に手を掛けながらふと後ろを振り返ると、満席から拍手喝采が訊こえたように錯覚した。
ステージの真ん中でお辞儀する、豪奢な深紅のドレスを着た綺麗な黒髪の女の人。ピアノ奏者のタキシード姿の紳士が寄り添っている光景が目に浮かんだ。仮にこの舞台が闘技の場だったなら、拍手喝采の輪の中に、勇敢な戦士が立っていたのだろうか。勝利の歓喜を上げながら盾と剣を放り捨ててガッツポーズ……などとさんざん妄想を膨らませてから、舞台のフロアを後にして階段を
下りていると水音が聞こえてきた。それはだんだん大きくなっている。
「滝だ、ノイも見てみろよ」
「はは、下が見えン」
ノイは下を見ながら白目を剥いて何やら棒読みで呟いていた。何事かと僕も足元を見てみると、急な遠近の相違にピントが合わなくなって意識が飛びかけた。階段を出て真っ直ぐの道が出口まで伸びている。しかし、この道から少しでも逸れれば奈落に落ちる。僕とノイは一蓮托生、つまり僕がここから落ち、おっとっと。
「ノーマぁ、てめえ! わざとやってんのカ!?」
「ごめん、最後の方はちょっとわざとかな」
「意外と黒いところあったんだナ、こいつ……」
ノイがぶつぶつ独り言を呟いているのを放置して、だいたい真ん中に着いた。そう思えた理由は、そもそも滝と道と奈落以外に何もないこのフロアの真ん中に大きな滝があるからだ。水音の正体はこれに違いないだろう。
「セーブポイントかな」
「そんな機能あるかよ、そこの水撒きに使うやつで一杯やってくださいってことじゃないカ?」
なんだ、体力全快にはならないのか。
「飲んどけよ、水筒の水飲んでないだろウ」
ここに来るまで水筒の存在を忘れていた。バックパックの中には満タンの水筒と干し肉や果物の乾物とカギづめロープくらいしか無い。探検家っぽいから、ゴーグルは常に頭上に装着済み。
「意外と優しいところあったんだな、こいつ……」
ノイは僕の独り言に気付いていないみたく、フードに潜ってしまった。もう少し揺れとけば良かったかな。いや、奈落に落ちたくないし、飲んだらこのまま進もう。
地面にぽつんと置いてあった水撒きに使うやつを手に取り、滝の方に杓を持っていく。すると、水流に押し負けそうになり危うく落としかけた。『杓』の『柄』の部分をしっかりと持って口に水を含んだ。ここで会えたのも何かの縁。
これは貰っていくことにしよう。
「なんに使うんだヨ」
「水撒きに使うんだよ」
「頭揺らし過ぎて、頭蓋骨に脳打ったカ?」
「そんなアホな」
他愛ない話をしている間に、もう下層のフロアに着いた。
目前の巨大な竜を見て旋律する。慌てて腰の水撒きに使うやつを引き抜き、臨戦態勢の構えを取る。刹那、ノイがフードから顔だけ出して強烈なツッコミを耳元に見舞う。
「無謀、無鉄砲! 戦闘初心者マーク、青い暴走機関車! アホか、柄杓なんぞであんなデカいのに勝てるカァ!!」
「ああ!!? 名前言ったな?!」
「フシャアアアア!」
水撒きに使うやつ改め、柄杓で戦おうとする僕と、それに爪と威嚇で応戦するノイの隣には、フロアに収まっているのが奇跡なほどデカい古竜の彫刻が四本足でそびえ立っていた。猫になら柄杓で強打すれば勝てるが、竜に枝みたいな木が勝るわけがない。などと考えながら彫刻を呆然と眺める。
「寝てるとこを見ながら彫ったのかな」
竜は寝たら百年は起きないと訊く。
「いや、殺した後のを羊皮紙に模写だけして、後から巨大な岩に彫ったんだろウ」
「どうしてそう思うの?」
僕の問いにノイは少しだけ考えた。
「寝てる隣で毎日、岩をカンカンされたら流石に竜も起きると思うゾ。それに脚の爪や細部までしっかり見て彫られてる。寝入っている竜の足を動かせる程の、怖いもの知らずはそう居ないだろウ?」
なるほど、彫るためだけに殺されたわけだ。とんだはた迷惑。しばらくそれを眺めたり触れたりした後、僕は下り階段を目指した。
「ノーマ、多分これが最後だろうナ」
「そうみたいだね」
下へ続く階段の前に立って気付く。長い階段の先に光が射している。外か。光を目指してゆっくりと下りてゆく。するとおもむろにノイが口を開いた。
「墓や建造物に大掛かりな装飾が施されていたり、墓自体が有り得ないくらいのスケールだと、その国の王様の権力が表されるしいナ」
「大きさで?」
「うん、きっと大国の王が造らせたんだろうな。あの竜やコロッセオ、下が見えないくらい長い橋とかナ。その分、裏の歴史的背景では反乱や一揆が絶えなかっただろうけどナ」
「じゃあ、ノイはこの先に大国の滅んだ遺跡があると思うのかい?」
「ああ、違いないと思うヨ。ノーマは別の物だと思うのカ?」
僕の足音だけが階段に響き渡る中、少し悩んでから静かにこう答えた。
「もう地図から離れてるんだし、ぶっ飛んだ発想で文明都市、かな」
足を踏み出すごとに光へと近付いてゆく。徐々に光に目が慣れてゆく。
「地図に無い街だナ、人気の多イ」
ノイの声には喜びに似た、ワクワクが含まれていた。同じく僕も嬉しくなって返す。柄杓を脇に挟んで、フードから出てきたノイを抱いた。
「地図から離れた世界! おじいさんの目標、父さんの無念、僕は遂に晴らしたよ!」
「恥ずかしい台詞言ってないで、住民登録お願いしまース」
ノイに現実へ引き戻された。僕らは単に人の多い街に出ただけなのだ、だが確かに生活風景が今まで見てきたものと明らかに違うものが目に写る。道行く女の人はヒラヒラした格好が多い。
男の人の中には髪や目の色が違う人がいる、異人さんかな。馬車のボディが洗練されたフォルムになっており......なんと馬が引いていない!
「この街の人たちは箱に独り言をぼやく風習でもあるのかな」
「そんなきしょい風習無いわイ!あれは電子携帯端末っていってナ。人と離れてても声が届けられる文明の利器だヨ」
「独り言じゃなかったのか……。道走ってるあの不思議な生き物は? そもそもあれは生き物なのかな」
「あれは自動車だヨ。中に……」
「ちっさい馬が!?」
「いないからナ。道が整備されたことによって、あれで走ると馬車よりも早く、短期間でより遠くの場所に行けるんだヨ。あれは休憩しないからネ」
冷静にツッコまれた。いつも一緒にいるはずのに、新天地でこんなに知識をひけらかされたら、まるで僕だけが子どものようで、非常に切なくなってくるじゃないか。そのうちノイは、無知な僕の元から離れていってしまうのではないだろうか、そんな気がしてきた。
「なんでそんなにたくさん知ってるんだよ。僕ら……いつも一緒にいただろう?」
「本で読んだんだヨ、旅に役立つと思ってナ。ノーマにずっと歩かせてばかりで、ずっとオレサマだけが楽してたら いつか……
寝てる間とかにこっそり、置き去りにされるんじゃないかと思ったんだヨ。ほら、悪口言ってもノーマ、全然怒ったりしないだろウ?」
上目遣いで、少しずつ言葉を紡ぐノイの目線は徐々に下がっていった。それに連れて、いつもピンッと立っている耳も下に垂れてきた。心なしか、目が潤んでいるようにさえ見える。僕はこいつの悪口を訊くのがいささか楽しみでいる。どんなに棘で守って理論武装していても、本当は優しくて寂しがり屋なのだと知っているから。
それに、その悪口には嘘偽りがないのだから。
「ノーマは、オレのこと嫌いカ?」
ははっ、かわいいやつめ。僕は笑って、ノイの頭を優しく撫でてやった。手が触れたのと同時に、ノイの耳はピンッと立って、顔を上げてこちらを見据えた。その勢いで、目に溜まっていた大粒の涙が一滴、空中へ散った。
「……そんなことないよ。ありがとう。僕のことをちゃんと考えてくれていたんだね。でも、いつもどうやって本を読んでるの?」
感動のシーンのところ、素朴な疑問をぶつけてみる。
「どうやってって。ページめくって、だヨ」
「その手で?」
「そう、この手で」
ノイはそう言って、大口開けて欠伸した。今度は僕の目の前でこいつに本を読ませよう。そんな、至極どうでもいいことを考えつつ、僕は改めて街並みに目を向けてみた。階段を下りていた時の会話の内容を思い出す。想像通りとはいかなかったにしても、答えとしては僕の予想が正しかった。
ここは僕らが住んでいた街とは異なり、色んな物が進んだ文明都市だと言えよう。
「これは確かに元の場所に帰れそうもないね、見るもの全部が輝いて見える」
「見たことないからだろうナ。でも、戻って来れないって予感はしてたんだろう? だったらここに新たな拠点を作って、今を目一杯楽しもうぜ、相棒」
黒くてまだ小さい相棒の双眸を見て僕は頷いた。ノイも頷いてシメの一言を言い放った。
「あと、柄杓は捨てろよ? 今のオレ達、注目度高いからナ」
「はは、そうだね」
そこにあった古ぼけたバケツの上に柄杓を添えて、僕はノイを抱えたまま市役所に駆け込むのだった。
ノーマとノイが「ノ」被りなことに、後になってから失敗したなと思いました。
そして何より、ノイの猫感を最大限に出させて頂きました。この世に喋る猫がいるなら...
パーカーの後ろに入れて連れ歩きたいです。
最後に、読んで下さって誠にありがとうございます。
また、風景や部屋の描写で、想像しにくく判りにくいなどのご感想を頂ければ 早急に手直しし、今後の執筆に役立たせて頂こうと思っております。