地獄の業火①
「……やっぱりねえ、僕は思うんですよ――」
番所の厨房にいた白鳥と河津は、割れた湯のみを間に挟み、顔を見合わせた。
ちょっと良いお茶っ葉が厨房の棚にあり、それを淹れるか淹れないかで喧々諤々の議論をした末、年甲斐もなく掴みあいの喧嘩になり、思わぬ拍子に肘が当たって湯のみが床に落ちたのである。
その茶葉はといえば、別の番隊が解決した窃盗事件のお礼として、現場となった商家から頂いたものであるらしい。
「――いくら厨房にあるからって、僕達の物じゃないって」
「……取られるのが嫌なら、自分達で持ち帰ればいいだろうよ」
そんな悪態を河津がつく。視線は湯飲みに釘付けだ。これが自分達のであったり、また別の同心の物であったならば、謝っただけで済むかも知れない。
では、これが上司の物だったらどうなるだろうか。しかも、鬼よりも恐ろしい上司の。
「割ったのは僕じゃありませんよ」
「お前が押したのが原因だろうが!」
「でも、直接的な要因は河津さんです」
「お嬢の前で同じ主張が出来るか?」
「卑怯ですよ。それじゃあ両成敗だ」
「うるせえ。どうせ怒られるなら、お前も道連れにしてやる」
「とんでもない男ですよ、あんたは。良いから、さっさと地獄に落ちてください」
二人は再び睨み合った。
割れた湯のみを避けるように移動し、がっしりと両手を掴みあう。力比べでは河津にあっさりと負けてしまう。だから卑怯でも脛蹴りや頭突きなどを多用しながら、相手に組み伏せられないように暴れる。
二人が大きな物音を立てながら争っていると、その厨房に、おずおずと下男が入ってきた。ぎゃあぎゃあ暴れ倒している二人を、呆気に取られた様子で見つめていた。
「あのう……」
いかに同じ職場にいるといえども、同心と下男とでは立場が違う。本来であれば、彼らと目を合わせられない程度には身分の差がある。
だから、彼は前掛けを強く握りしめ、何度も弱々しい声を掛け続けた。馬鹿な男二人は全く気付く様子もない。
そのうち、下男は泣きそうな顔になりながら厨房の外へ顔を出した。この喧嘩している二人を呼んでこい、と命じた相手が腕組みをして仁王立ちしていた。
申し訳なさそうな下男に怪訝な顔を向け、二人の上司である平野静が近付いてくる。
騒ぎに気が付いたようだ。見る間に面上に怒気が滲み、その体には力がみなぎる。厨房を覗きこんだ時などは、下男が卒倒しそうなほどの殺気を孕んでいた。
「おい」
決して大きな声ではなかった。この騒ぎ声の方が、よっぽど騒々しい。
だが、下男も、喧嘩をしていた二人も顔を引きつらせて、その声の主に視線を向けた。どんな状況であってもよく通る声だ。
騒ぎはすぐに止んだ。
二人は揃って足元に視線を落とした。そこには無残に散った湯のみが破片となって転がっている。平野も同時に視線を下向け、再び二人の部下を睨んだ。
「何の騒ぎだ?」
「いえ、互いの認識の齟齬を正しているだけです」
「そうなんですよ、お嬢。ちょっとした諍いで」
「……その諍いに、私の湯飲みは関係があるのか?」
二人はちらと見合い、視線だけで全てを了解し合った。掴んでいた手を離すと、揃って咳払いをして、怯えた顔をしている下男の肩を叩いてから外に出た。
「申し訳ありませんが、片付けを……」
「ああ、戸棚に入っている茶葉は、ちょっとくらい貰ってもいいからな」
青ざめた顔で言い繕う二人に、廊下の半ばほどから平野の罵声が飛んだ。
「さっさと来い! この役立たず共」
番所の土間の方へと戻ってくる。そこには一人の男がいて、白鳥達と同じくらい血の気を失った顔をしているのであった。
「あ、ええと、こんにちは」
こういう時、大抵白鳥が応対させられる。
たぶん、平野では手に負えなかったのだろう。その理由はすぐに分かった。
下男に言って茶と菓子を出してもらう間も、それを一啜りする間も、男は俯いて両手を握りしめたままだった。
「お茶、冷めますよ?」
そう促しても、男は全く口を開こうとはしなかった。平野が面倒がるのも分かる。彼女が応対していたら、今頃土蔵に引きずり込んで、一つか二つ拳骨を与えていただろう。
番所を託児所だとか、老人の保養所だとか思っている奴は数多いるが、俯いて黙って座っている奴は初めて見た。
だが、この男にかかりきりになるわけにもいかない。同心としての仕事はいくらでもある。あの喧嘩は、ちょっとした休憩時間みたいなものだ。
第二八番隊の三人は顔を突き合わせた。最初に口を開いたのは白鳥だ。
「で、どうします? 追い出します?」
「構わんが、あの男の目的は何だ?」
「お嬢、どう見ても気の病んだ人じゃないですか。医者かなんかを呼んだ方がいいんじゃないですか? ああいう奴が思い余ったことをするんですよ」
三人はそのまま男の背中を見つめた。土間に腰かけて、じっと地面を見つめている。
土間の反対側で働く他の同心達も、気味悪がっているようだった。番所の外では、毎日来ては無駄なお喋りだけしていく老婆とかが、遠巻きに様子を窺っている。
「ともかく、三人揃っていても仕方がありません。誰が貧乏くじを引くか――」
「白鳥だな」
「そうですね、お嬢。白鳥は根気があるから」
二人はさっさとその場を離れてしまった。置き去りにされた白鳥は、この薄情な上司達を見送り、深々と溜息をついた。
「話す気になったら教えてください。暴れる気になっても言ってください。帰る気になったら、どうぞ出口へ」
そう告げて書類作業に戻った。