終の棲家③
次いで白鳥が向かったのは、件の老婆が伏せっている中央の屋敷だった。
その頃にはもう黄昏を迎えている。大きな門を叩くと、すぐに下男が迎え入れてくれた。どうやらよほど格の高い武家であるようだ。
小心者の白鳥とは違い、河津の方は堂々とした立ち振る舞いで招き入れられた。
通されたのは中庭に面した小さな一室だった。
ざっと見た限り、庭は荒れている。松の木も伸び放題、枯れた紫陽花は片付けられておらず、でこぼこの地面には水たまりの跡がある。塀越しに見える部分だけが手入れされている。
案内してくれた下男が細々とした声を上げ、部屋の中から女がそれに応じた。
すぐに引き戸が開けられる。そこにいたのは下女と床に伏した老婆だ。これがあの若い夫の祖母なのだろう。今にも息絶えそうな様子で虚空を見つめていた。
「こっちへ……」
か弱い声で言われたものだから、白鳥は膝をついてにじり寄った。河津は布団を挟んで反対側に座る。
老婆の手を取る。思いのほか滑らかで、使いこまれた皮製品のようである。骨がごつごつとしていた。
「お婆さん、その、頼まれていた件ですが……」
耳元に口を寄せる。老婆はもうここ数カ月、この有様なのだそうだ。握る手にも力がなく、言葉を発するのにさえ労力を必要とするようだった。
であるから、微かに頷かれたのを合図に言葉を続けた。
「屋敷は掃除していますから、すぐに戻れるようにしますね」
力ない頷きが返ってきた。もう眠っているのか、起きているのかすら定かではない。瞼が半分開けられていて、意識は混濁している。
「じゃあ、また来ますね」
老婆からの反応はなかった。薄闇に閉ざされた縁側を戻る。
ちょうど屋敷の主である現当主と、次期当主たる若い夫とが連れ立って戻ってくるところだった。
若い夫が慇懃に頭を下げてきた。現当主は胡乱な目を向けている。若い夫に耳打ちされて、眉間にしわを寄せた。何とも嫌な顔つきだ。威厳の鎧で外面を固めているような、胡散臭さを感じた。
立場上、白鳥達の方が下だ。二人の同心は慌てて廊下の端に寄り、深々と頭を下げた。
「ご苦労」
そう声を掛け、さっさと廊下の奥に消えた。白鳥はその背中を睨んだ。商人の息子という引け目か、はたまた妄信への反感か、あの男のことが気に食わなかった。
「ああ、祖母の様子は?」
取り繕うように若い夫が尋ねた。どうにも言いにくいと思っていると、河津が一歩分だけ前に出て、首を振った。
「仕事を急がにゃ、いかんでしょうな」
「そうですか……」
と若い夫が肩を落とす。
元を正せば、あの現当主が屋敷を出たことに原因がある。けれども、責め立てるような暇はない。二人は若い夫に見送られて屋敷の外に出た。
「しかし――」
夜道を辿りつつ、白鳥が振り返る。先を行っていた河津も足を止め、うすぼんやりと浮かぶ屋敷を見上げた。朝方若い夫婦から聞いた話とは随分違う。
「――お金のかかっていそうな生活ですね」
帰り際、確認した限りでも、門の内側はほとんどぼろぼろだ。表側は絢爛で、それなりの格を保っているように見えるのに。
「まあな。ここは見栄の世界だ。我慢比べだよ」
同じく屋敷住みの河津が声を上げて笑う。
しかし白鳥は笑えなかった。周囲にはそれこそ領地を持っているようなちょっとした高給取り共が住んでいる界隈だ。
その中でただ一つ、ただの役人が住まう屋敷地である。確かに、金がいくらあっても足りないだろう。
白鳥は帰途の半ばで河津と別れ、勝手方の元同僚と会うことにした。
どうせ仕事場に行けば、いくらでも会える。ああいう連中は家にいるよりも仕事場にいる方が長いのだから。
勝手方の仕事場が見えてきた時、何故だか違和感があった。何カ月か前までは、朝から晩まで通い詰めたというのに。
勝手方、という煤けた看板ですら、懐かしいというよりは他人行儀な、言葉には言い表せない疎外感のようなものを感じた。
無遠慮にも中に入ると、やはりどの作業場にも明かりが付いていて、そろばんを弾く音がけたたましく響いている。
同心にならなければこういう生活をしていたんだろう。だが、あまりぞっとはしない。たぶん、それなりに上手くやれたはずだ、という直感だけがある。
ある一室を覗きこみ、見知った顔がいたので声を掛けた。彼は青白い顔を白鳥に向け、途端に破顔した。元同僚である。部屋割を見る限り出世したらしい。
「よお、何? 賄賂?」
「違いますよ」
白鳥は口を尖らせた。この元同僚は気の良い笑みを浮かべ、そのまま疲れ切った様子で溜息をついた。
「今日で二徹だ。……どこかの馬鹿野郎が帳簿の記入を間違えたんだ」
「それはお気の毒様です。僕はちょっと、役人の給金を見に来たんです」
「何? 結婚でもするの?」
「何でです?」
「俺の経験上、金を気にする時は結婚する時だからさ」
白鳥は肩をすくめた。それで相手の方も察したらしい。良くあることさ、と白鳥の肩を叩き、そのまま別の一室へと案内してくれる。
役人の給金は中津国が出来た頃から定額で、物価の変動によって賞与という形で調整される。まあ、最近は米の物価も安定してきているから、額面通りにしかもらえない。
分厚い帳簿を渡される。役人の数は随分と多い。白鳥は目当ての項目を見つけると、持参した横帳に書き込んでいった。ここへは、あの家の現当主と、若い夫の給金を調べに来たのだ。
その様子を元同僚がじっと見つめている。何かと問うと、彼は苦笑した。
「いや、お前こっちの方が適任じゃねえのかなって思うんだよ。剣術なんかからっきしだろうしな。よく同心を続けられるな」
「……まあね。良い上司に恵まれたんですよ」
「お前が上司になる頃に、もう一度身の振り方を考えるんだな」
それもそうだ。今は平野も河津もいるが、自分が彼らの立場になった時、本当に同心を続けていけるのだろうか、とは思う。しかし、雑念はあっても手は止まらなかった。
目的を果たし、白鳥は苦々しく顔を歪めた。外に出て、元同僚は月を見上げた。
「何が目的か、くらいは教えてくれるんだろうな?」
「……身の程にあった生活をしないと、いずれ破滅するってことが知りたかっただけです」
「だろうな。ちなみに、金のない役人は近くの金貸しで借りまくるのが普通だぞ」
白鳥はねんごろに礼を言い、近くの金貸しを尋ねた。彼の言ったことは事実だった。