嫉妬を買うのは天鼠堂⑤
翌日、白鳥は再び長屋に戻ってきていた。
井戸の近くで女達が会話に興じている。彼は柔和な笑みを浮かべたまま近付いた。人畜無害な若い同心が一人で来ても、彼女達は快く迎え入れてくれるだけだ。
「聞きたいことがあるんです」
「ああ、スエさんのこと?」
「いえ、彼女達の旦那さんのことです」
今現在、利久も徳郎もいない。だからこの暇を持て余した女達は.顔を見合わせ、少々軽い口を動かした。
「……利久さんは、ねえ? 見た物を見たまま解釈する人だから」
「例えば?」
「奥さんへの理解なんて、まんまそれじゃない」
「……じゃあ、徳郎さんは?」
「徳郎さんの方は真面目って感じねえ。あの人の方が、よっぽど役人が似合うと思わない?」
「奥さん思いだし、本当に、何で世の中ってうまく回らないんでしょうね」
女達は揃って気の毒そうな顔をした。白鳥も同じような表情を浮かべておいた。
「まあ。でも、彼は魚を売り歩いている」
「上手くいってはいないわね。奥さんとのことも」
「そう言えば、マスさんには殺す動機がないって……」
女達は顔を見合わせ、白鳥にも近づくよう手招きをした。
「ここだけの話だけれど、娼婦まがいのことをしていたらしいのよ」
白鳥の方は真剣な顔になった。それがあまりに凄烈だったからか、女達は顔を赤らめて俯いてしまった。白鳥は取り繕い、質問を重ねた。
「スエさんの方は?」
「さあ? お金稼ぎに躍起になっていたもの。天鼠堂とかいうんでしょ? 結構買わされたわよ。まあ、こっちも得はしたんだけどね」
「浮気とかは?」
「ないない、あの人は旦那さん一筋よ。旦那さんの地元に家を買いたくて、必死にお金稼ぎしていたんだもの」
女達が口を押さえて笑う。そのうちの一人が、おずおずといった感じで呟いた。
「でも、利久さん、たぶん理解していなかったわよね……」
何かと思って白鳥が話を促すと、女達はしきりにもじもじしたあと、私達が話したって言わないでくださいね、と散々念押しして、とある事実を教えてくれた。
「奥さんの悪口ばかり言っていたもの。俺を金のなる木だと思うな、とか。そりゃもう三日に一度は大喧嘩よ。特に、天鼠堂で物を買ったあとはね」
「スエさんは、目的を話していなかったんでしょうかね?」
「たぶん。……利久さん、お金遣いも荒い方なのよ。見目にばかりこだわって、前の家は売る羽目になったんですって」
「それでも、スエさんは別れなかった?」
「夫だからって言っていたわ。……妻の心、夫知らずって、ああいうことを言うのよ」
「何かあったんですか?」
「マスさんと外で会っているのを、見た人がいるのよ」
白鳥は静かに頷いた。
それから無遠慮にもマスの家に入り、その整理整頓された部屋を見渡した。部屋の片隅に天鼠堂の箱がある。中を見るとやっぱり野菜が詰まっている。
箱の中身を漁ると、すぐに野菜以外の物が入っていることに気が付いた。
日付と時間が記された小さな紙きれである。日付は三日前だ。紙の端っこには店の名前が書かれている。白鳥は頭の中で地図を思い浮かべる。そう離れていない。
辿りついたのは小さな茶屋だった。茶屋といっても、本当に茶を嗜む場所ではなく、女と逢引をするような破廉恥な店だ。
そこの店主に印籠を見せ、マスについて尋ねると、彼は白鳥を店の奥に連れて行った。
「あのう……」
「分かっていますよ、見逃しますから。三日前、マスさんと来た人は?」
「立派な身なりの人です」
「名前は?」
徳郎、と店主は言った。
「顔を見たら、その男のことは分かりますか?」
店主は小さく頷いた。それで、彼を連れて利久の仕事場まで向かった。
事情を話し、役所の内部まで入れさせてもらう。ちょっとした物陰から、この小役人の顔を見させると、店主がかっと目を見開いた。
「あの人です」
その場ではどうこうせずに、白鳥は店主を送ったあとに番所へと戻ってきた。
そこではマスが取り調べを受けている。白鳥は取り調べを担当していた同心と位置を変わり、この女の前に座った。紙きれを見せると、彼女の表情が変わった。
「利久さんと、三日前に会いましたね?」
怖々と俯いたマスは、そのまま唇を震わせるばかりであった。白鳥は机の上に両手を乗せ、とつとつと話し始めた。
「あなたの家は金銭的に苦しかった。夫の仕事はそれほど上手くいっていないし、あなたの金策も大した成果を上げたわけじゃない」
白鳥は、そこで天鼠堂から受け取ったスエの帳簿を目の前に広げた。
「対して相手は、あなたが失敗したにもかかわらず、上手くやっている。金だって溜めているし、何なら旦那さんに愛情すらも感じている」
マスは蒼白の顔を上げ、強く口元を引き結んだ。涙を堪えているようだった。
白鳥は冷徹な表情のまま、その様子をじっと見ている。沈黙に耐えきれなくなったのか、マスが口を開いた。
「美人でもないくせに、お役人と結婚して、愛想しかないのに天鼠堂で儲けて。そういうものを全部隠して、利久さんには何も与えなかった」
だから誘ったのだ、とマスは言った。
利久は簡単についてきた。その床の中で、彼は妻への恨みを呟き続けた。いつしかそれが、マス自身の嫉妬心とも結びつき、殺意に変わった。
「最後に会った日、一緒になろう、と。妻を殺してくれないか、と言われた」
話すうちに情けない気分にでもなったのか、マスの頬が涙で濡れた。
「泣くのはよした方がいい。スエさんや、徳郎さんの方が、よっぽど泣きたい気分ですよ」
白鳥は冷淡にもそう呟いた。
結局、利久も逮捕されることとなった。罪状は殺人の教唆である。
彼は、スエの貯金のことを全て知っていた。過去の過ちは全て忘れ、自分から搾取したものだと、いつの頃からか考えるようになったのだ。
ある日、マスのことを知り、その嫉妬心を使って、妻を殺してしまうことにした。
「あなたは何をしたのか、理解していますか?」
「……? 馬鹿な女同士の殺し合いでしょう? 仕事があるんです。いつ帰れますか?」
白鳥は目をぐるりと回した。調書には、更生の余地なし、と記して奉行所に上げた。
利久は、その日のうちに町奉行所へと引っ張られていった。
「ほんと、結婚は怖いねえ」
河津は本心から恐怖心に怯えつつ、彼の後ろ姿を見送っていた。
マスの方には情状の余地があるということで、死罪だけは免れることが決まっていたものの、それでもろくな目に合わないことだけは確かである。
「結婚が怖いんじゃなくて、怖い人達が罪を犯したってだけでしょう?」
白鳥は恬淡な様子でそう呟いて、そのまま欠伸交じりに大きく伸びをした。