嫉妬を買うのは天鼠堂④
白鳥は肩をすくめ、河津を伴ってもう一度現場に戻ることにした。
長屋の方は、もういつも通り生活を営んでいる。そこここから旨そうな夕食の匂いが漂ってきていた。
スエの自宅にも火が灯っていた。まあ、現場は井戸の近くだから、住むには問題ないわけであるが無神経な気はする。
戸を叩くと男が出てきた。宵闇のせいで面上には濃い影がかかっている。どこをどう見ても平凡そうだ。年相応に覇気がなく、のっぺりとした能面のような顔に影がかかって見える。
「どうも、町奉行所の者です」
そう言うと、スエの夫――利久は微妙そうな顔をした。
「はあ、昼間は妻のことで……どうも」
「仕事ですから。昼間はどちらに?」
「仕事です。どうしても抜けられませんで」
妻が死んでも抜けられない仕事とは……。随分と高尚なことをやっているらしい、と内心で蔑みつつ、白鳥は家の中の状況に気が付いた。
「中、片付けたんですね?」
白鳥が顎をしゃくった先では、確かに散乱していた衣服やゴミが綺麗に片付けられている。
「ええ、人が住む環境ではありませんでしたから」
「全部、天鼠堂の商品ですか?」
「あいつは、すぐに騙されるんですよ。あんなに買って、私の給金を使いこんでいた。おかげで今はこのみじめな生活です」
「今は?」
「昔は良い生活だったということです」
「……奥さんは、天鼠堂の商品をどこかに売ると言っていませんでした?」
「知りませんよ。近所の人に聞いてください」
「奥さんには不満を持っていた?」
白鳥が片眉を吊り上げると、利久が不機嫌そうに鼻を鳴らした。全員に聞いていることですよ、と笑い掛けると、そこで初めて表情を戻し、腹の底から溜息をついた。
「ええ、こう言ったら疑われるかもしれませんがね、逆だったんじゃないかと思いますよ。あの怠惰な妻の方が、ご立派なマスさんを刺すんじゃないかと考えていました。部屋だって何時まで経っても汚いままだ。庭も物干し以外に使ったことさえない」
口を出そうとした河津を止め、白鳥は、じっと夫を見つめた。彼の方は何の疑いもなくそう思っているようだ。
「ご立派なマスさん、ねえ」
途端に利久は眉間にしわを寄せ、不機嫌そうな顔になった。白鳥は、じっと目を見つめて、最適な間でにっこりと笑った。商人の次男坊としての、嘘にまみれた表情だ。役人には一番利く。利久も緊張を緩めた。
「マスさんのことをよくご存じなんですね」
「は?」
「だって、彼女が家庭菜園をやっていたり、部屋が綺麗なことを知っていたりするんですから」
利久は、はっとした顔になった。しかし、すぐに表情を引き締め、力なく首を振った。
「ご近所の噂を聞いただけです。妻はよく愚痴っていましたから」
「どんな風に?」
「それが事件と関係あるんですか?」
「あるかもしれません。ですからお尋ねしているんです。奥さんはどんな風に愚痴っていたんですか?」
利久は苛立たしげに舌打ちをした。それから、よく覚えていません、と唸るように言い放ち、そのまま部屋に戻ってしまった。
閉められた引き戸を凝視する。中からは大きな物音が聞こえてきた。それに大きく頷き、白鳥はマスの家に向かった。
悄然とした面持ちの徳郎が出てきて、同心二人を見るなり深々と頭を下げた。
「この度は妻が申し訳ないことを……」
「いえいえ」
白鳥は首を振り、早速本題に入った。
「奥さんのことですがね、最近変わったことはありませんでしたか?」
「……特に思い当たりません」
「スエさんのご夫妻と交友は?」
「親しくはありません。時たま会う程度です」
徳郎は憔悴した面持ちであった。彼は何度も、何度も頭を下げてくる。その揺れる頭頂部に、白鳥はそっと問いかけた。
「天鼠堂ってご存知ですか?」
「ええ、昔、妻が利用していました」
「上手くいかなかった?」
「ええ、そうです。借金ばかりがかさんで、止めさせました。お前には才能がないのだと言っておきました。私に甲斐性があれば、もう少し良い生活をさせてやれましたのに」
「……ちなみに、ですが。スエさんが天鼠堂を利用していることは?」
「知っています。彼女は上手くやっていた」
「……随分とお詳しいんですね」
「スエさんが時々おすそわけをしてくれるんです。その度に、妻は顔を真っ赤にして怒りましてね」
「怒って、どうしたんです?」
「私へのあてつけだ、と喚くばかりでした。大抵は腐るまで置きっぱなしです」
徳郎が顎をしゃくった先には天鼠堂の箱があった。中身には野菜が詰まっている。
白鳥はちょっと考えたが、礼を言ってその場を離れることにした。
彼が口を開いたのは番所への帰り道だった。
「変ですねえ」
夜空を見上げていた河津は、ちょっと眉を動かしただけで何も言わない。
「変だと思いませんか?」
「マスがスエを殺したことか?」
「違いますよ。利久がマスについて詳しいってことです」
河津は目をぐるりと回した。
「そうか?」
「そうですよ。普通、交流もない家の事情なんか知りもしないはずです」
そう言って、白鳥は悪い顔で笑った。どうやら良くも悪くも同心に染まってきたようだ、と河津は溜息をついた。