嫉妬を買うのは天鼠堂①
「――それでね、僕の元同期が結婚したっていうんですよ」
とある晴れた日の、昼下がりのことだった。白鳥はその日の仕事を全て終え、のんべんだらりと机に頬杖をついて、欠伸を繰り返していた。
それは正面に座る河津とて同じで、ここ数日というもの、市中は実に平和で穏やかな日が続いていたのである。必然的に同心達の役目は少なく、警邏だって書類作業だって軽々と終わってしまった。要するに暇なのである。
「はあ! これだから若けえのは!」
なんて河津はこの世の終わりみたいな顔をしている。
……つい二日ほど前のことだった。
白鳥の元同期――勝手方の役人――が、お若い娘を連れているから尋ねると、結婚したのだという。
自分には縁遠いことだと思っていた白鳥からすれば、鳩が豆鉄砲を食らったような、冷や水を浴びせかけられたような、衝撃であった。
それほど仲が悪いというわけでもなかったから、もちろんのこと積もる話もあり、笑みを浮かべる奥さんを含めた三人で腰の落ち着ける場所へ向かった。
「それでね、茶屋で話を聞いたんですが……」
「なんだよ、惚気か?」
白鳥は気の毒そうに首を振った。
「最初だけでした。奥さんが所用でいなくなった途端、雪崩みたいに愚痴が出て」
「へっへ――」
人の不幸――特に新婚夫婦の不幸――が好物の河津が下卑た笑い声を上げた。
「――早速尻に敷かれてんのかあ?」
「そうらしいんですよ。奥さんじゃなくて、奥さんの御実家に、だそうですがね。何と貰った給料を全部取り上げられて、お小遣いとしていくらか貰うだけなんだそうです」
「……何だよ、それだけなら幸せそうだな。世の中には小遣いも貰えない夫もいるんだからよ?」
焦ることなかれ、と白鳥はちょいと手を上げた。河津は顔をしかめつつ口を閉ざし、この新米同心の口から洩れる不幸に耳を傾けた。
その茶屋でのこと、元同期は去りゆく妻の背中に微妙そうな視線を向けていた。同情か、あるいは自分自身の運命に対する悲観か、深々とした溜息をついた。
彼の話を聞いた第一印象では、これといって問題はないように思われた。
何かあったのか、と白鳥が問うと、その元同期は懐から一枚の紙を取り出した。
それは妻と、その一族に対する調査の報告書であった。やはりざっと見た限りでは問題なさそうだった。
だが、ある一点、調査を担当した者からの忠告があった。金遣いについてだ。
「それで、取り上げられた給料の行き先を探ったらしいんですがね、それが何と、全部、全部ですよ? 天鼠堂とかいう胡散臭い店に流れていたんですって」
「おう……」
河津は心の中で念仏を唱え上げた。
天鼠堂と言うのは、ここ一、二年の間で市中に広がった詐欺まがいのことをやる商家である。健康を謳ってどこで取れたのかも分からぬ野菜だの魚だのを売り、美容のためだといって正体不明の軟膏などを無理やり買わせる。
しかも、この商品を売るのが顧客自身だというのが驚くべき所なのだ。
最初こそ天鼠堂の実店舗で買うのであるが、その頻度が増えてくると自宅に配送してくれるようになり、サービスだと言って注文したよりも多くの品を送りつけてくる。
……もちろん料金は割増だ。それをどうか他の人にも勧めてやってください、という語り口で、顧客に物を売りさばかせるのだ。
まあ、そんなことばかりをやる連中であるから、畢竟、多くの人には胡散臭いと思われているわけであるし、現に天鼠堂を批判し、身を離そうとする連中だって数多くいるわけである。
店自体だって楽なものじゃないだろうと直感しているのが白鳥で、そのうち捜査の手が及ぶだろうと思っているのが河津である。
「で、何を買っているんだ?」
「開運グッズらしいですよ」
「例えば?」
「打ち出の小槌とか、正体不明の宝石をちりばめた置き物とか……」
「……おう」
もう一度河津は唸り声を上げ、その哀れな新婚の夫に哀悼の意を捧げた。
これだから早とちりはいかんのだ、と二人の冴えない男達が嘆かわしい顔をしていると、番所の中に目明しが飛び込んできた。
半ば破るようにして戸を開け、息をせき切らしながら土間に転がる。またこのパターンか、と白鳥が溜息をつく。河津は素足のまま目明しの傍らに寄った。
「さ、殺人が起きました」
彼は最後の気力で住所を叫ぶと、ぶっつりと意識を途絶えさせ、そのまま白目をむいて気絶した。
動かすのも可哀想なのでそのままにして、二人は番所の外に出た。
まあ、例によって平野は別用で居ないので、呑気にお喋りに興じることが出来たというわけである。