影の主は①
白鳥と河津は、とあるひと気のない竹藪の真ん前にいた。
そこは豆河通りを北に抜け、その上流からやや西進したところにある古臭い寺院が立ち並ぶ地帯である。
この近辺で遊んでいた小僧達が、女の死体を見たと番所へ駆け込んできたのがことの始まりであった。彼らに引きずられるまま現場へとやってきたのだが、人の死体など影も形もない。
「嘘じゃねえのか?」
河津が眉を吊り上げると、小僧達は泣きそうな顔で首を振っていた。
「本当にいたんだって」
その辺りに、と彼らは指をさした。その先は竹藪である。
白鳥が竹藪に近づいた。めぼしい証拠はなさそうだ。葉っぱに血が付いているとか、何かを引きずったあとだとかいうものは何一つとして見当たらない。
それでも小僧達が必死に訴えかけるものだから、二人はそのまま、夕暮れ近くまで辺りを捜索する羽目になった。結局、何も出てこなかった。
何故捜索を止めたのかといえば、別に暗くなったからではない。
地平線の下に太陽が潜ろうかという頃になって、とある一団が竹藪の近くから音を立てて通りへと出てきたのだ。
「何かあったんですか?」
「え? ええ。この辺りで死体が見つかったらしくて」
と白鳥が返すと、男達は顔を見合わせた。その困惑した様子に新人同心が眉をひそめると、彼らは、そっと後ろを振り返った。
そこでは女が二人、連れ立って歩いているのである。一人は大きな葛篭を抱えている。中にはぼろぼろの服が詰め込まれているようだ。
もう一方の女を見て、白鳥は悲鳴を飲みこんだ。小僧達も目をひんむいている。河津は剣に手を掛けていた。
その青ざめた顔の女の口には赤い筋が一本、通っているのである。ちょうど口から血を吐き出したあとみたいに。肌は血の気を失った青白い色をしていて、今まさに乱暴されましたと言わんばかりに髪形も崩れている。
「その女に乱暴したんじゃあるまいな?」
怖い顔をした河津が問うと、男達は今にも泣きそうな顔で否定する。それに気付いた女達も近づいてきて、その格好の説明を始めた。
それをまとめると、以下のようになるらしい。
「我々はとある劇団の構成員で、この衣装は今度行なう劇の物である。小僧達が見たのは、この女が倒れているところであろう」
白鳥は小僧達に半眼を向けた。小僧達は怖々とその女に近づき、白く塗られた肌と、炭を塗られた目の周りとをじろじろと見て、納得したように声を上げた。
「この人だったかも……」
「かも?」
「……この人だった! そこで倒れていたの」
小僧達が目を輝かせて、この死体になりきった女優にまとわりつくに至って、白鳥は頭を抱えた。
何時間もかけた捜索は無駄だった。そんな虚無感が肩にのしかかり、本当に半べそになりながら劇団員の男達を睨んだ。
「全く! 紛らわしいにもほどがありますよ」
「も、申し訳ありません。その、衣装を汚したくなかったもので」
「それにしたって、人目につくところで――」
ひとしきり怒り、そして女の見事な化粧を見ているうちに、この必死に頭を下げる劇団員共にそれ以上言葉を重ねる気を失った。
白鳥は荒っぽく髪の毛を掻き、そして苦々しい顔をして彼らを追い返した。せめてもの償いとして小僧達を家まで送ってくれるという。
「今度、大道芸や演劇の大会があるんですよ。我々も出ます。異国の映像芸とか、催眠術、占星術なんかもあるんですよ。儲けは我々の取り分になるので、ぜひ」
「はあ」
と溜息をついてしまう。河津の方も同様だったらしい。見れば、もう太陽は西の彼方に沈んでしまい、代わりにまん丸の月が頭上には昇っていた。彼らは足早に立ち去った。
今晩は明かりに困らないだろう……。そんなことを思いつつ、二人も帰路についた。これから番所に戻り、ことの顛末を報告書に仕上げねばならない。
平野にこれを報告するのは大変に気が重い作業だ。まあ、理不尽に怒ったりはしないものの、それでもあの鋭い眼光を向けられるのかと思うと、自然と体が震えあがる。
「しっかし、どう言ったもんかねえ」
隣を歩く河津も同じことを思っているらしい。遠くに見える、もう活気を失った豆河通りを見ながら、白鳥は首を振った。
周囲は閑散としている。古びた寺院がいくつか間をおいて立ち並んでいるほか、豆河通りの北の河原近くに雑木林が広がる。
辺りは薄暗い。明かりがなくとも前は見えるが、しかし昼間よりは不明瞭だ。
そんなはっきりとしない視界を抱えて、二人はぼんやりと夜道を歩いていた。最初に異変に気が付いたのは白鳥であった。
「あ、あの、河津さん?」
震えた声を上げながら河津の肩を叩く。この中年同心は怪訝な顔で振り返り、そこで動きを止めた。
彼らの視線の先には、まるで火を焚いたみたいな煌々とした明るい空間が広がっている。本来そこは闇夜に抱かれた雑木林であるはずだが、何故かその時ばかりは昼間のように明度を保っている。
二人は身動き一つしないまま目を凝らしていた。雑木林が白く輝いている。
周囲では同じような人達が何人かいるようだ。彼らも皆、じっと身動きせずに、その場所を睨んでいる。
と、その明るい中でうごめく影があった。
さらに目を凝らす。近づくほどに分かるのは、松明などを使っていないにもかかわらず、光に包まれていることだ。途端に、甘ったるい香りが鼻孔を突き、頭がくらくらとした。
幾筋もの光が薄ぼんやりとした影を浮かばせ、それが徐々に動き出す。
じっと見ていると徐々に影が明瞭になり、雑木林の空間に人の影が浮かびあがった。どうせまたどこかの劇団員が死体の振りでもしているんだろう、と高をくくっていた白鳥の目は、その異様な光景に唖然とした。
その人影に足がなかったのである。何か仕掛けがあるはずだ、と地面を見たが、影はやはり膝から上を描き出すだけであった。
「うう……、うう……」
その人影が呻くような声を上げた。青白い顔を周囲にやり、呪詛のような物をまき散らしている。
何だか体が重たくなった気がした。不快な熱気に包まれ、粘度のある汗が噴き出た。つん、と甘い香りが鼻につく。途端に頭がくらくらとした。
「同じ目に合わせてやる……」
この人影の様子に、二人は顔を見合わせた。
そしてそのまま、もう一度人影を見る。激しく体を動かしている。何故かは分からないが、見ているうちにけだるさが増した。
震える手で、恐る恐る河津の肩を掴んだ。彼は声も上げずに飛びあがり、そのまま一目散にいなくなった。暗闇に残された白鳥も、ひときわ大きな悲鳴を上げて駆け出した。その場に居合わせた何人かの不幸な連中も揃って逃げた。
半ば転がるようにして番所に戻った時、平野の冷厳な視線を浴びせかけられたが、そんなことも気にならないほど、白鳥と河津は怖気に震えていた。
あの影は何だったのか。何故だか頭が、まだうまく回らなかった。