早とちりの代償①
その日、白鳥徳次郎は緊急事態に直面していた。
河津の病気休暇である。貝に当たって腹を壊し、その上、熱と嘔吐まで同時に発症するという地獄の憂き目に合っているのだ、ということを朝のうちに聞かされた。
「ありゃ、地獄だろうよ」
様子を見に行った同心の一人が悲しげに眉をひそめた。まあ確かに上からも下からも大洪水で、頭は火事とくれば大惨事だろう。それはよく分かる。しかし白鳥には看過出来ぬ問題であった。
「僕はこれから地獄ですよ」
そう言いつつ、ちらと番所の控室を見やる。なにせ豆河通りは今日も盛況だ。今日も今日とて騒ぎが起こり、同心達はあくせく働かねばならない。
白鳥と同心が溜息をついていると、その控室の引き戸が明け放たれた。
実質、部屋を占有している女が出てくる。面上に険しい表情を張りつけ、ぎょろりとした瞳で辺りを見渡す。長めの髪の毛を後ろで束ねて、腰には業物を大小二振り帯びている。
明らかに生まれてくる性別を間違えている上、生き方までもを間違えたのだろうと直感できるその女は、土間に腰かけている二人の若い男を一瞥し、眉を吊り上げた。
同心が慌てて立ち上がり仕事に戻っていく。それで白鳥も渋々と言ったていで腰を浮かした。
「随分とたるんでいるな」
履物を用意しながら平野が吐き捨てた。
まあ、仕方があるまい。どこからどう見ても今日の白鳥にやる気はない。平野と二人きりというのだから。腹を空かした虎と散歩が出来る人間がいるのだろうか。
しかし、愚痴ばかりも言ってはいられない。
白鳥は腰に帯びた剣の位置を直した。普段とは違って今日は軽めだ。言うのも憚られるが、どうしても大きな金が必要で、愛刀を質屋に入れてしまったのだ。
まあ、愛刀なんていう立派な代物でもないが。子供の小遣いでも買えるようななまくらだ。残念ながら、人はおろか大根だってまともに切れない。手放しても惜しくはないのだが、竹光を腰に帯びているという事実を平野に知られるわけにはいかない。
「さっさと行くぞ」
という平野の声に合わせて、慌てて駆け出す。今日一日を乗り切らねば……。
嫌な緊張感を伴って、二人は番所を出た。
豆河通りは今日も人でごった返していた。
ただ、厳めしい顔をした平野を見ただけで、ざっと道を開けてくれる。白鳥は彼女の後ろをついていくだけである。情けない話だとは思うが、これが定位置なのだから仕方があるまい。
「……おい」
順路通りに警邏を進めていると、とある地点で平野が声を上げた。そっぽを向いていた白鳥は慌てて視線を戻した。思いのほか近くにいて、体が密着する羽目になった。
「え、ええと、何でしょうか?」
平野の顔を見下ろす。評価は下すまい。美醜を語る前に持ち前の冷厳さが前面に浮き出ている。恐ろしい、という感情が先立つ。
「お前、今日は上の空だな。どうした?」
「ど、どうもしませんよ」
「それに、腰に帯びている物もいつもと違うぞ」
「え? いいや、ええと……」
と言い澱む白鳥を制して、平野は口の端を歪めて笑った。
「まあ、気持ちは分かるがな」
その笑みに周囲は騒然となる。
怒っていなければまともな人ではあるが、それは素人の考えだ。普段の平野を知っていれば、まかり間違ってもただの美人とは思わない。
「いや、言わずとも分かる。うん」
平野はそう言って踵を返し、また歩き出した。
まさか竹光がばれたのだろうか? それにしては心地よい笑みだった気もするが……。
得も言われぬ気味の悪さを実感して、白鳥は身を打ち震わせた。一体何を言われるのか。
神に誓って言えることは、きっと平野が考えているようなことは一切あり得ないということだ。
ずんずん歩きだす平野の背中に追いつく。
何を考えているのかを知らねば……、と決意を新たにしていると、近くの商家から怒鳴り声が響いてきた。物が倒れるけたたましい音と共に、人々のざわめきも増した。
とある商家の前で、壮年の男が二人、軒先で掴みあいの喧嘩をしている。
揚々と歩いていた平野が、素早い挙動で騒ぎの方に向かった。白鳥も慌てて人込みを押しのけながら駆けだした。
ぎらつく白光のど真ん中で、男達は人目も顧みずに暴れ回っていた。
お前が悪い、だとか、お前の経営手腕が無いだけだとか何とか言いながら、泥まみれ汗まみれになりつつ殴り合いをしているわけである。道行く人は遠巻きにしている。
雑踏を半ばかき分け、男達の真ん前に立った。
「何をしているんだ?」
腰に手を当てた平野は、男達の声に負けないほど鋭い声を放った。
それでもお構いなしに喧嘩は続いたが、平野に蹴っ飛ばされて初めて男達は手を止め、険悪な表情で彼女を睨み、そして口をつぐんだ。
野次馬までもが息を飲み、張り詰めたような緊張感の中、白鳥は怖々と恐ろしげな女上司の顔を窺った。意識が遠のきかける。平野の顔には青筋が立っていた。放っておけば彼女まで喧嘩に参戦しそうである。白鳥は咳払いをした。
「まずは店に入りましょう」
「ああ……」
「うん……」
二人の男達も先ほどまでの戦意を失っていた。
野次馬達を追い散らそうと息巻く平野を店に押し込み、白鳥は彼らに男達の確執を問うた。返ってきた答えはそれほど多くはない。
それらを類推すると、先日彼らの父親が亡くなり、その跡目争いでこの兄弟は険悪な関係になったとのことである。
またろくでもない話だ……。
白鳥は肩をすくめて店の中に入った。豆河通りは再び日常を取り戻した。




