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第二八番隊  作者: 鱗田陽
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未確認生物を見たのは①

 人は思わぬところでその未知と遭遇するものである。

 妖怪だ何だと騒がれることもあるが、その男河津正則にとっては取るに足らないことであった。どうせ見間違いか柳の影が、さもなければそれっぽい人間だろう、なんて冷めた目で見ているわけだ。

 この髭面の中年同心は、もう子供の頃のように素直に未知の生物に興奮しなくなっている。そんなものよりも嫁が欲しい、なんて騒ぎたい気分なのである。

 その日も仕事を終え、帰路についていた。彼は武家の出で、本来ならばそれなりの地位にいるはずなのだが、お嬢と慕う平野静が同心に身をやつしているから、仕方なしに彼も職務に就いているのである。

 まあ、そんなこんなで分不相応な家を持っている。家というか屋敷だ。辺りには中級の武士が住んでおり、そういう連中は大抵中津国の中枢で働いている。河津のように泥にまみれた生活をしている者は誰一人としていない。

 こいつが女を寄せ付けないのか? と首をかしげつつ、河津は自宅の塀に沿って歩いていた。もうすぐ正門が見えてくる。下男が待っているはずだ。

 ふと空を見上げると、極限まで細くなった月が浮かんでいた。新月を過ぎたばかりだ。辺りは薄暗く、目を凝らしても遠くを見渡すことは出来なかった。

「明かりを持ってくるべきだったな」

 河津が呟いた。もちろんのこと剣の腕には自信がある。暗闇の中で襲われても、逃げるだけの技量は持っているつもりだ。であるから心配はないのだが、しかし視界が閉ざされているという煩わしさはある。

 彼は夜霧を切り裂くようにして進んだ。近くには生活用水として、小さな小川が流れている。洗濯をしたり、汚れ物を洗ったり、そういう用途で使う水場だ。あまり綺麗な物ではない。

 その川を見ていると、ふと蠢く影があった。

 ははあ、どこかの小僧が服を汚したな、と思ったのだが、どうもそういう雰囲気ではない。何かを洗うというよりは川そのものに浸かっているような気がするのだ。じゃぶじゃぶという音が遅れて聞こえてきて、小さな影が蠢いている。

「おい、風邪ひくぞ」

 この辺りの子供には見覚えがあるものだから、河津は思わずそう叫んだ。夜の静けさを破って響いたその声に小さな影は驚いたようだった。

 その小さな影は川から出ることなく、そのまま逃げていってしまった。

 悪戯小僧だったのか? と首をかしげつつ、河津は自宅の門をくぐった。下男が首を長くして待っていて、屋敷の中から夕食の匂いが微かに漂う。

「今日は何だ?」

「はい。良い鹿肉が入りましたから味噌漬けに致しました。それから山菜と自然薯などを」

「そりゃいいな」

 河津は喉を鳴らして、外で蓄積した汚れと疲れを落としていった。

 夜が明けた。

 そろそろ市中も動き出そうか、という頃に、布団にもぐる河津の元に下男が飛びこんできた。

 大口を開けて寝ている主を叩き起こし、問答無用で外に引きずっていく。河津が文句を言うと、下女がすでに水を用意していて、彼はそれで顔を洗った。

「何だよ、遅刻か?」

 まだ眠気の残る顔を手拭いで拭いながら言うと、下男は取り乱した様子でじたばたともがいた。

「人が、人が死んでいるんですよお」

 瞬刻、河津は手を止めた。ゆっくりと手拭いを下ろし、下女に渡す。この下女は河津が拾ってきた若い娘で、そろそろ恋人と結婚しようか、という話が出ている。みんな俺を置いて行っちまうんだなあ、と情けないことを考えているうちに、彼の意識が現実に追いついた。

 カッと目を見開いて、下男を睨み下ろした。

「どこでだ?」

「すぐそこです。しわしわの女が死んでいるんです」

 泣きそうな下男を置いて、河津は寝間着姿のまま飛びだして言った。現場はすぐに分かる。昨日、あの悪戯小僧を見た辺りだ。すでに人だかりが出来ていて、皆が皆、青ざめた顔で河津を迎えてくれた。

「死体はどこだ?」

 河津が近付くと、すぐに人だかりが二手に別れる。彼の為に空間が作られ、集まった人達が遠巻きにした。

「同心は呼んだか?」

 皆がうんうんと頷く。それで河津は膝まで水に浸かり、この哀れな女を引き上げてやった。川沿いで待機していたどこかの中間も手伝ってくれる。

 びしょ濡れの河津は横たえた女の死体を見つめた。見たことのない奴だ。歳は三十そこそこで、どう見ても武家の女じゃない。かといって遊女というわけでもなく、何がどうなったら、この界隈で死ぬことになったのだろう、と首をかしげざるを得ない。

「見覚えは?」

 皆が首を横に振る。

 だろうな、と無言で納得し、河津は女の懐をまさぐった。持ち物もない。財布一つたりとて、だ。頭もざっくばらんに結んでいるだけだ。

 血の気を失った手を握りしめるに至って、河津はやっと何がしかの感触に当たった。女の手が黒く染まっていたのだ。これは別に汚れているというわけではなく、長年染料等をいじくった結果、体に染み付いてしまったものだった。

 その汚れた手を置いてやる。胸の前で合わせてやり、力なく虚空を見つめる目を閉じてやる。

 と、そこで河津はもう一つの異変に気が付いた。この女の右の首筋に、小さな穴が三つ開けられている。それは明らかに首周りの太い血管にまで到達し、そこから大量の血が流れたのだろうと推測することが出来た。

「昨日の晩、ここに人影を見た者は?」

 河津が問うと、野次馬の一人が怖々と窺った。

「晩、でございますか?」

「宵の頃だ。この辺りで小さい人影を見た。もしかしたら、そいつかもしれない」

 とは言うものの、こんなものはただの当てずっぽうだ。もしかしたら二、三日前に殺されたのかもしれないし、あれはただの見間違いだったのかもしれない。

 だが、野次馬がざわついた。

「やっぱりあれの仕業か……」

 なんて言うものだから疑念の根源を尋ね、河津は眉をひそめる羽目になった。

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