堕天使達の呼び声②
「全く、あと十五分遅く来ていれば、僕の仕事は終わっていたのに」
と、ぼやく白鳥を横目に、平野と河津は急ぎ足で殺人現場に向かっていた。
目明しの話によれば、殺されたのは夜鷹であるらしい。容疑者もすでに確保されていて、仕事はほとんどないだろうと、帰る間際の第二八番隊が遣わされたのである。
不幸といえば不幸であり、余暇を大事にしている白鳥からすれば、これほど腹立たしいことはないのであった。
二十分ばかり歩いたところで殺人現場に辿りついた。そこは豆河通りから通りを三本は隔てた場所で、一軒家が立ち並ぶ地帯であった。長屋よりはずっと羽振りの良い人間が暮らす地域で、層としては商家の手代や、武家の上級な奉公人などが家族で暮らしている。
そんな家々が立ち並んだ通りの一角に、おびただしい量の提灯が集まっている場所があった。すでに何人かの同心が集まり、捜査をしているという。
「首尾は?」
入口に立つ目明しに平野が声をかけると、その彼は困惑した面持ちで家の中を見やった。どうやら何か面倒なことが起こっているらしい、と直感して、白鳥は月を見上げた。残業手当は出るのだろうか、愚問だったがそう思わずにはいられないのである。
「それが……容疑者の母親というのが来まして、ちょっと……」
「ちょっと何だ?」
平野が険しい顔をすると、目明しの男が顔面を蒼白に染めた。いや、仕方のないことだろう。平野に睨まれるのは、それほど恐ろしいのだ。
「ええと、先ほどまで騒いでおりまして……。政治的にも少々厄介な部類の事件でございますから、寺社奉行の御役人様に御足労いただいている最中なのでございます」
この不穏な言葉に、今度は白鳥が顔を青ざめさせた。そして彼の方にも逃げ場はない。ずんずんと歩き出す平野と河津のあとに、まるで死刑を宣告された咎人のように重たい足取りでついて行かねばならなかった。
家の中は実に小ざっぱりと片付いていた。縁側から足を踏み入れた白鳥は、さっと見渡せる範囲を見渡して、そう感じた。過不足なく物が整っていて無駄がない。女の一人暮らしということだったが、その割には質素な印象だ。
家の中は、今ではしんと静まり返っているが、その中を平野は足音高く踏み入って、ぼそぼそとした話し声がする部屋の襖を勢いよく開けた。
その様子に、白鳥はますます血の気を失った。
「あの人に、遠慮って言葉はないんですか?」
「あったらああいう性格はしていないだろうな」
白鳥と河津は揃って肩をすくめ、部屋の中に遅れて入った。そこには見るからに豪奢な着物を着た役人が二人と、贅沢の極みのような顔をした歯抜けの老婆と、力なくうな垂れた中年の男とが膝を突き合わせていて、彼らの視線を一挙に浴びる羽目になった。
「町奉行所の第二八番隊だ」
平野が冷厳な声を上げると、中年の男が飛びあがった。体は人一倍大きな癖に気の弱い人間らしい。これに対して二人の役人が平野に鋭い視線を向けた。
「町奉行が何の用だ?」
「この男は殺しの容疑者だ。黙ってこちらに渡してもらおう」
そう言い放った平野の背中では、白鳥と河津が顔を寄せ合っていた。
「こんな道理が通りますかね?」
「通るか通らんかはあとだ。一応ぶつけてみないとな」
河津の言う通り、平野の方も本気ではないようだった。寺社奉行所の役人達が目をひんむいたのを見て、ふっと一つ息を吐いた。
「駄目なら事情聴取でも良いぞ」
「……どうでしょう?」
この平野の迫力に負けて役人が視線を転じると、老婆が目をかっと見開いて怒鳴り声を上げた。彼女は素早く移動して、中年の男を背中に隠してしまう。
「何を言うか、この痴れ者が! ここにいるは天心教の指導者ぞ」
この老婆の剣幕は、平野の体を間に挟んでも恐ろしい。女傑というのは、どうしてこう気が強いのだろうか、と白鳥は眉をひそめた。
「天心教?」
但し、平野の方は全く意に介さず、役人達に視線を転じた。彼らはそれぞれの顔を見て、やがて一方が口を開いた。
「うむ、近頃成立した宗教でしてな、天界とやらから――」
「とやらではないわ!」
「はっ、失礼いたしました。こちらにいる進太郎殿は、天使の降臨に成功した御方だそうでしてな。我が国としても宗教として認めている以上、彼の裁きは寺社奉行所にて行うことになっているのです」
「その通り!」
老婆が頷いた。彼女は自分の後ろにいる進太郎――どうやら親子であるらしい――に向き直ると、彼をしっかと抱き締めた。
その不気味な親子の偏愛ぶりを見ているうちに、白鳥の心にむくむくと疑問が沸き上がった。
「ところで、被害者の死因は?」
「毒殺だ」
と役人の一人が言った。どうやら、この事件の面倒くささはここにあるらしい。この進太郎が手土産に持ってきたブドウを被害者が食べて、喉を掻き毟りながら絶命したらしい。
そして彼は容疑者としてこの場に確保されているのであるが、老婆曰く、そのブドウを入手し、進太郎に持たせたのは下女であるという。要するに、進太郎はその女に嵌められたのだ、と主張した。
これに対して新太郎は、その女とは親しく、彼女がそういう悪辣な行動を取るはずがない、と弱々しく主張したのである。というのも現実に人が一人死んでいるわけで、進太郎の意見は信じるに値しない、と誰しもが判断づけたのである。
それをいいことに老婆が喚き立てた。
「あの女だ! 奴隷の身分から引き揚げてやったというに、私も、進太郎も敬おうとはせん!」
「敬われそうな人間じゃありませんしね」
と白鳥は呟き、そっけなく視線を逸らした。老婆が目を吊り上げてはいたが、 その拍子に平野の鋭い眼光を浴びることになり、この哀れな老いた女は、体を小刻みに痙攣させながら気を失ってしまった。
結果、優秀な弁護士を失った進太郎は寺社奉行所に身柄を預けられることとなった。