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第二八番隊  作者: 鱗田陽
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荒んだ荒野②

「被害者は政子、三十歳、夫は勝手方の役人だそうです」

 翌日、非番が明けた白鳥は朝一番で現場に来ていた。

 豆河通りの西も西に広がる高級な屋敷通りだ。国の官僚などが住んでおり、庭や離れなどが一通りそろった大きな屋敷地が目につく場所である。

 そんな場所で、夜通し仕事をして帰ってきた夫が、妻の変わり果てた姿を発見したのである。

「凶器は不明。ですが刃物ではあるようですね」

 検視する医師がうんぬんと唸りながら、うつ伏せの死体をひっくり返す。傍らには憔悴しきった様子の夫がいて、どうにも頼りない感じだ。

「最初に腹にズドン、そのまま押し倒して胸や顔をめった刺しってところでしょうか。一番深いのが腹の一撃、それから胸でしょうね」

「……どういう人間がやったのか、分かりますか?」

 白鳥が問うと、医師は首をかしげた。

「そうですな、この女よりも背が低い人間でしょう」

「それは何故です?」

 白鳥が身を乗り出すと、医師は死体の衣服をはいだ。途端に夫が何やら喚き声を上げたが、同心達によって取り押さえられる。

 まあ、傷だらけといっても妻は妻なのだから、あられもない姿を見られるのは嫌なのだろう。白鳥は傷口に集中し、医師は一体何が問題なのか理解せぬまま、死体の傷を一つずつ丹念に指差した。

「それ分かるのは、ここ、この一点だけ傷口の向きが違うからなんです」

 と言いつつ、医師がひときわ大きな腹の傷を指差した。ざっと見る限り最も深く、抉りこまれたような傷跡だ。

 この仕事に就いて、白鳥もいくつか死体を見てきたが、しかし傷口の輪郭が盛り上がるような、深い傷は今でも苦手だ。どす黒く変色した肉が何だか吐き気をもよおすのである。

「ともかくですよ。これ以外の全ての傷が下から上へと突き上げられているのに対して、これだけは上から下に突き込まれているんです」

「上から下?」

 と尋ねると、意思がお手本を見せてくれる。この腹以外の傷は刃を順手に持ち、下方向から振り子のような弧を描いて行なわれたのに対して、この傷だけは刃を逆手に持って、上から振り下ろしたのだという。

「腹の一撃で膝をついて、あとはめった刺しと言ったところでしょう」

「確証はありますか?」

「ええ、私もそれは考えました。しかし、です」

 と言いつつ、今度は亡骸の手を指差した。

「この死体、防御したあとが無いんですよ。普通、殺されそうになったら、手を振り上げるなりなんなりして傷が出来るものなんですがね」

「つまり、初撃でほぼ確実に仕留められたと?」

 医師は頷いた。

「もしくは、よほど親密な人間が……殺されるとは露にも思っていなかったか、です」

「……一応所見には書いておいてください。」

 この熟練の医師はまだ未練たらしい顔をしていたが、しかし事実は事実だ。確証がない以上、断定することは出来ないわけだ。決めつけて捜査をすることほど、恐ろしいものはない。たぶん。

 何故こんな気持ちになるんだろう、と考えて、そう言えば今日は平野も河津もいないな、ということに気がついたわけである。

 朝のうちに平野は遅刻すると通達があったから、来ていない相棒のことを考える。

 また遅刻か、と悪態をつくのもそこそこに、今日は出勤評に細工が出来ないから、恐ろしいことになるに違いない、と直感した。いつもは先に来た白鳥が出欠表の記入を代行してやっているのだ。

「折檻だな……」

 恐ろしげな顔をした平野が頭に浮かび、白鳥は一つ身震いをした。今なお喚く父親の方を見て、あいつに話を聞くかと思っていると、部屋の奥から見た顔がひょっこりと覗いていた。その少年は白鳥の顔を見るなり引っ込んでいってしまった。

 近くにいた同心を捕まえ、家族構成を聞く。どうやら男の子供が一人いるらしい。可哀想に、と思いつつ、彼がいるであろう部屋に足を向けた。

 そこは小さな部屋だった。聞けば八歳の子供に、すでに自室が与えられているのだという。

「勉強に集中できるよう整えたんです」

 と父親は自慢げに語った。八歳の子供に何を望む、とは思ったものの、あえて口には出さず、その部屋に向かう。すると二人の同心と共にいたのは、やはり見知った顔の男だった。

「僕ちゃん!」

 と声を上げると、その少年はきっと眉を吊り上げて、白鳥に体当たりをかました。

 全くもって、この商人の次男坊には身体能力というものが欠けている。その八歳児の攻撃を避けきれず、まともに食らったのだから。みぞおちに頭突きまで食らって、白鳥は地面にへたりこんだ。

「僕ちゃんって言うな!」

「だ、だって、な、名前を知らないから……」

「進太郎だ!」

 というので、ともかく何とか体勢を立て直して、この僕ちゃんこと、進太郎と向き合うことになった。

 この僕ちゃん、どうやら事態を完璧に把握してはいないようで、強気になんやらかんやらと文句を並べている。母親が殺されたと知ったら、彼はどういう反応を示すだろうか。

 そんな知的好奇心は白鳥の脳裏からすっぱりと抜け落ちていた。彼は彼なりの誠意をもって、この不満げで利発な少年と相対した。

「まあ、よく聞いて。これから大変な騒ぎになる。君には、どこか静かな寺にでも入ってもらうことになると思います」

「どうして?」

「それは……」

 と言ったところで、白鳥はふと、あることに気が付いた、進太郎の目がはっきりと、己の眼睛を捉えているということだ。真っ直ぐと見つめ、そして、ほんの半瞬に満たない時間だけ、冷笑を浮かべていた。

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