荒んだ荒野①
世の中、善意ほど恐ろしいものはないと常々白鳥は考えている。
自分は親切心からやっているものの、相手からすれば傍迷惑というのは多々あることで、この日も彼はとんでもない失敗をしでかした。
道端で鼻緒の切れた下駄を履いている女がいたものだから修理してやったのだが、どうにも微妙な顔をしている。それで何とはなしに事情を聞くと、壊れたから買い換えようと思っていたところだ、というのである。
そして、ちらと見やると下駄屋は目の前である。もう捨てようかというものを修理されたら、それはそれは迷惑なことだろう。
何度も謝罪して、結局手拭い一つを無駄にしただけで終わってしまった。話くらいは聞いておくべきだった、と後悔していると、通りの反対側で大騒ぎをしている親子がいる。
「やだ、行きたくない!」
「あんたの将来のためなのよ」
なんて喚いている。こうなっては仕方がない。辺りは馴染みの通りだから、皆が皆、白鳥が同心であることを知っているわけだ。そして懇願するように見つめている。彼は深々と溜息をつきながら、通りを横切った。
「こんにちは」
と声を掛けると、子供が母親の手を振り切って白鳥の後ろに隠れた。母親は怒りに打ち震えていて、突然声を掛けてきた、この馬鹿げた青年のお節介をなじった。
「何の用です? 私と、この子の問題です」
と鋭い声を叩きつけられたものだから、白鳥は思わず眉をひそめた。
「いや、それはそうなんですがね、往来で騒がなくても……」
「この子が! 急に! 行きたくないと! 駄々をこねたんです!」
まるで何が疳癪の根っこなのか分かりっこない。どんな言葉がかりの引き金になるのか見当もつかず、白鳥は困惑した。背後では七、八歳の男の子が怯えた様子で母親を見上げていた。それがさらに怒りの業火に油を注いだようで、母親は険しい顔をした。
「ほら! 行きますよ!」
「まあまあ」
伸ばした母親の手を白鳥が制した。彼女はますます憤怒に身を灼かれたようだった。
「邪魔しないでください。ほら、僕ちゃん、行きますよ!」
「やだ!」
「なんで聞きわけが無いの! この男の人を見なさい! 大人になって、こんなことになるのよ? 僕ちゃん、分かるでしょう? お母さん別に意地悪いってないよね? 僕ちゃんがやりたいって言ったんでしょう?」
何と言うか、心の底から馬鹿にされて、白鳥は腹立たしい気分に駆られた。この女を不敬罪とかで逮捕出来ないだろうか、と半瞬ほど考え、私情でそんなことをしたら平野に殺されそうだ、と思いを改めた。
とはいえ、彼を中心として親子が追いかけっこをしているのは変わらず、母親のがなり声はどんどん大きくなっていく。
「僕ちゃん! あなたの人生の為なのよ!」
と振り上げた母親の手のひらが白鳥に直撃した。
僕ちゃんとやらを狙ったのだろうが、その彼が巧みにかわして、白鳥の腕を叩いたというわけである。
「ちょっと、邪魔よ!」
と体を押しのけられたところで、白鳥の怒りがついに頂点に達した。彼は僕ちゃんの首根っこを掴み、そして素早い動作で母親の手を取った。
「何するのよ!」
「……番所まで来てもらいますよ」
とまあ、そんなこんなで非番の日だというのに、白鳥は二人の親子を引きつれて番所にやってきた。今日は第二八番隊自体がお休みであるから平野も河津もいない。見慣れた同僚同心が目をひんむいていて、喚き立てる母親を怖々と窺っていた。
「ちょっと部屋を使いますよ」
なんて軽々しい声を上げた頃になって、母親は冷静な顔をした。藪を叩き過ぎて、どうやらとんでもない蛇を引き当てたと察したらしい。
途端に態度を軟化させるも、それがますます白鳥の怒りを助長する。
彼の両親だって決して褒められた人ではなかったが、社会的通念だけはしっかりとしていた。道端で喚き立てたりしなかったし、少なくとも人目のあるところで子供をなじったりもしなかった。
そんなことを掻い摘んで話すうちに、母親は顔を真っ赤にして俯いた。
僕ちゃんの方はどす黒い顔をしたまま、むっつりと黙りこんでいる。どうやら彼が通いたいと言ったそろばん教室であったようだが、今日は気が乗らずに駄々をこねたのが原因らしい。
「で、何で気が乗らないの?」
白鳥が尋ねると、僕ちゃんは堰を切ったように言葉を放った。
「だって、僕は行きたくないって言っているのに、書道教室にも、寺子屋にも、剣術道場にも、水泳道場にも通わせようとするんだ。僕はそろばんだけって言ったのに」
「そんなことないでしょう! 楽しいって言っていたじゃない」
母親が眉を吊り上げて喚き立てるのを、白鳥は押しとどめた。
二人別々にすべきだった、とは思うのだが、今となっては仕方がない。同心としての権威を使って黙らせると、僕ちゃんの目をしっかと見据えた。
「君は、将来どんな仕事に就きたい?」
「国の御役人よね?」
なんて母親が言うものだから、白鳥はあまりの苛立ちに彼女を睨んだ。それで蒼白の顔で俯いたのを見たあとに、もう一度僕ちゃんに問うた。
「僕はそんなものになりたくない」
「僕ちゃん……!」
母親がとんでもない剣幕で睨みつける。思わず手が出かかったのを、白鳥は机を叩いて止めさせた。
「一応、子供相手でも暴力は罪ですからね。虐待は問答無用で牢屋送りです。……で、やります?」
「やってよ」
と僕ちゃんが鋭い顔で言うものだから、白鳥ははっとした。この子供、どうやら随分と母親に怒りを抱いているらしい。
それは人格を否定する相手にか、それともままならぬ人生の化身として母親を見ているのかは分からない。しかし、彼なりの人生を駄目にしようとしている彼女が嫌いであることは確かなようだ。
「なんて馬鹿なことを……。お母さんは僕ちゃんのためを思って言っているんですよ?」
「僕のためを思うなら放っておいてくれ。僕には僕の人生があって、それはこの習いごとじゃ解決しないんだ」
母親が、どす黒い顔で僕ちゃんを睨んだ。
「親不孝者! お父さんにあんなに苦労させて! 何ですか、その言い草は!」
怒りに燃える母親とは裏腹に、僕ちゃんの方は冷めきった顔をしていた。
「……まあ、親のやらせたいことと子供のやりたいことは一致しないものです」
白鳥はそう締めくくって、この親子を返した。一日でも母親を番所に置いておいたら、物事はまた別の方向へ向いたのかな、とあとになって後悔するのである。