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第二八番隊  作者: 鱗田陽
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最後に笑うのは④

「何ということ!」

 とねは地団太を踏んで怒りを露わにした。傍らでは夫の吉蔵が相変わらず間抜けな顔をしていて、それが妻の怒りをさらに助長するのである。

「ちょっと! あんたも何か言いなさいよ」

 そう水を向けられた夫の方は、困惑した様子で月を見上げた。

「そうは言われても……」

 この夫の胸中は、妻を売ったら、どんな益があるだろうという打算的なことで占められていた。一人で店を切り盛り出来るだろうか? それとも殺人犯の夫という罪を着せられてしまうだろうか?

「まあ、私は大丈夫だと思うよ」

 結局、一を言えば十は返ってくる妻の反論を恐れて、最低限のことだけを告げた。しかし一つ言えることは、この妻を見捨てる気は起きなかったということだ。

 一方でとねの方も恐ろしい打算に満ちていた。例えば夫を売ったとして、自分は権威を保てるだろうか? さもなければ店の看板を売って逃げることも出来る。逃げる先はどうしようか?

 そうは考えつつも、この夫を裏切る気にならないのは何故だろう? 金や名誉だけでないことは事実だ。

「そ、そうかしら?」

 結局、夫の能天気な物言いに騙されて、首をかしげたまま話を終えた。

そう言えばそうだな、と思うのは、あの同心達はただの憶測で話しているということだ。

 いざとなったら逃れようはいくらでもあるから、今この時に不安を増大させても仕方があるまい。

 それで夕食を作ることにした。人が死んだ場所で暮らすのは嫌なことだが、今は仕方があるまい。彼女は急いで台所に入って、愛用の包丁が無いことに悪態をついた。

 さて、この翌日も、そのまた翌日も同心達はやってきた。

 日の出の頃から動き出して、宵闇と共に帰っていく。一体何をそんなに調べることがあるのだろう、と二人して首をかしげていると、馬鹿みたいな顔をした若い同心と、髭面の中年同心とが連れ立ってやってきた。白鳥と河津と言ったな、と思いながら、とねが応対した。

「何か、ございましたか?」

 とねが尋ねると、二人は揃って首を振った。捜査の方は芳しくないらしい。それに内心で安堵しながら腰を低く屈めた。

「同心の皆様方に、何かお作り致しましょうか?」

「いやいや、それには及ばんよ」

 河津がかぶりを振り、それからそっと顔を寄せてきた。この強面に近づくのは嫌だったが、しかし今はそうするより他はない。

「どうやら犯人は土地勘もあったようでね。足取りがさっぱり掴めんのだ」

「まあ、それはそれは……」

 河津がじろりと睨んできて、とねの心臓は恐怖で鷲掴みにされたようだった。一つ大きく跳ねて、体温が少しばかり下がったような気がする。

「で、今の問題は凶器だ。使われていたのはこの台所の包丁」

「ええ」

「この店を知りつくしていたらしい」

「ですから与一なんでしょう?」

 と言いながらも、とねの心臓は激しく脈打っていた。……いや、与一は台所には入れなかったはずだ。どれほど長い付き合いであっても、そういう分別だけはしっかりとした男だった。

 とねは、どうかその事実が知られませんように、と内心で祈りを捧げた。それが通じたのか、河津は頓珍漢なことを言った。

「それで一人、容疑者を割り出したんですがね、この店で働いていた女中なんですが、それを探しているところなんですよ」

「はあ……」

 どっと疲れ切ってしまった。張り詰めていた感情が緩んでいき、急に眩暈がした。河津はにっこりと笑って、どうぞ休んでいてください、と声を掛けてくれた。

 他方、吉蔵の方には白鳥が付いていた。夫の方は妻の狼狽ぶりと反比例するように毅然とした凛々しい態度を取った。

「――それで、犯人の目星は?」

「……まあ、与一の他にもう一人、犯人が必要なんですよ」

「……見つかったんですか?」

「ええ、どうやら為蔵さん、贔屓にしていた女がいるらしくてですね」

「そんな人など、見たことも聞いたこともない」

 吉蔵がきっぱりというと、白鳥は首を振った。

「まあ、表向きは、ねえ? 昔あなたのお父さんと何かあったんでしょう? ですから、大っぴらにお付き合いしなかったと考えられます」

「どこの誰なんです?」

「容疑者ですから」

 白鳥は微妙な笑みを浮かべて、それではこれで、と河津と共に去って行った。

 残された吉蔵は慌てて妻の元へと向かい、畳張りの部屋で座り込んだ彼女の手を取った。それは存外冷たく、いつもの妻とは違うような気がするのだ。

「大丈夫かい?」

 吉蔵が問うと、とねは真っ青な顔を歪めた。

「これから、どうなるのかしら?」

「どうにもならないさ」

 という吉蔵の言葉は何の救いにもならなかった。

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