最後に笑うのは③
殺されてしまうかもしれません、と言われて、はいそうですかと受け流したら同心としてはお終いだ。
白鳥は大きく一つ咳払いをして、河津以外の面々を追い出した。何人もいたって仕方がない。平野に指示を仰いで各々の仕事に戻れ、というのである。
さて、そうして人払いを済ませた白鳥は声をひそめた。
「どういう意味か、聞いてもよろしいんですよね?」
「ええ、まあ」
神経質そうに頷いて、与一が一歩分だけにじり寄ってくる。それで三人は額を寄せ合った。
「これは内々の話なのですが、旦那様には表向き子供がいないことになっているのです」
そこで白鳥と河津は顔を見合わせ、もう一度与一に戻した。
「生涯独身を貫いた要因は、この店の創業者である御自身の兄にあるようなのですが、私には分かりません。しかし、その死後、想い人を作る暇もなく働いたことは事実であります」
「でも、裏では女がいたってことですか?」
「ええ、たった一人ではありますが。相応の年齢になれば関係を公表して、この店に迎え入れることになっておりました」
そこで怪訝な声を上げたのは河津だった。
「何故、隠す必要があった?」
「……吉蔵、とね夫妻です。見たらわかるでしょう? 野心がぎらついているし、もしも別の人間に継がせる予定だ、なんて言ったら、皆殺しにしかねませんよ」
そこまで考えなしじゃないだろう、と思いつつも、白鳥もそんな気は薄々感じていた。
確かに、吉蔵はともかく、とねの方は面倒そうだ。あれは商人の女としては不適格で、自分が前に前に行き過ぎている。妻はあくまで裏方、他者との関係を円滑に進めるのが目的であって、店のことは番頭に任せればよいのだ。
「ともかく、その子供が独り立ちできる年齢になるまで、黙っていようということになったんです。……ねえ、わたくしもこれを守る気です。けれども、あの二人はこのまま一気呵成に私を貶めるでしょう」
与一の必死さに河津が眉をひそめた。
「……その口ぶりじゃあ、お前さんは何もしてないってんだな?」
「そりゃ、そうです。確かに旦那様のことは嫌いです。重労働ばかりだし、給金も低い。でもね、わたくしをここまで引き立ててくれたのもまた、あの人なんですよ。何でもない子供を店に引きずってきて、飯を食うための術を教えてくれたのも」
「ちなみに、子供の性別は?」
「男です。女だったら婿にしても良かった、と言われたこともあります」
与一の顔があまりにも真剣だったから、白鳥は真摯に頷いた。何も出来ない子供というのは確かに無力だ。若さだけを武器にして、何をしたらいいのかも分からずに突っ走るしかない。その子供の手綱を掴んで思う通りに進ませるのは至難の業なのである。
「……まあ、僕達だって、あなたが犯人だとは思っていませんよ。それほど強い恨みがあるとは思ってもいませんし、殺して得があるわけでもありません」
「じゃあ――」
「ええ、ですから、少し捜査に協力してほしいんです」
「と、言いますと?」
「このまま逮捕されてください。番所に連れて行きます。そこで何日か過ごしてください。その間に全部解決して見せますから。休暇だと思えばいいんですよ」
白鳥はにっこりと笑った。もちろんのこと河津も頷いたのを見るに至って、与一は胸をなでおろした。彼はその場で捕縛され、吉蔵、とね夫妻に見せつけるように、わざわざ屋敷の中を通って番所へと連れて行かれた。
その後ろ姿を見送って、夫妻は安堵したような表情を浮かべていた。それが何だか白々しく、白鳥はそっと近づいて、とねの方だけを呼び出した。
「良かったですね、逮捕されて」
「ええ、ええ、全く恐ろしいことですよ。叔父様に救われた恩も忘れて……」
とねが泣くようなふりをする。泣いていないと分かるのは、別に肩が震えているわけでもなければ、言葉の端々に悲しみが滲み出ているわけでもないからだ。
淡々と、その場で求められていることをただやっているにすぎない。今は泣く振りをしておけば同情心が掻き立てられる、と考えているにすぎないのだろう。
それに比べれば夫の方はもっと愚鈍だ。ぼんやりと去りゆく与一を見やって、溜息を付いている。
職務はどうあれ、この夫婦はお似合いだな、と白鳥は直感した。妻の方に才覚も行動力も備わっている。そして夫は愚鈍だ。嫉妬する隙間もない。
その証拠に、今度も声を発したのは、とねの方だった。
「それで、あの、お店はいつから再開できますか?」
おやおや、と白鳥は溜息をついた。随分と功を焦っているらしい。まあ、そうだろう。障害物をすべて取り除き、今までは全て思い通りに進んでいる。ここで功を焦るのも、全く考えられない話ではない。であるから、白鳥はなるべくそっけなく、そして恬淡に事実を告げた。
「まあ、ちょっと時間はかかりますよ」
「そうですか……」
「ええ、ともかく犯人が分からないことには……。僕達はこの屋敷の関係者なんじゃないかと思った次第です」
この白鳥の言に、とねが頷いた。
「ですから与一を連れて行ったんでしょう?」
「ええ、ですが捜査次第では、明日は吉蔵さんかもしれません」
見る見るうちにとねの顔が青ざめていく。素早く夫の方を見るが、そちらも髭面の同心と話しこんでいて、今やとねは一人きりだ。彼女は、順調な道のりで蹴躓くような感覚に恐れおののいた。
一方で夫の方には河津が付いていた。
「――じゃあ、犯人はもっと近い人かもしれないと言うんですか?」
「可能性だよ。与一が吐いたわけじゃないからな。だが、あいつに得はないだろう? ああして簡単に捕まっちまうんだ」
「でも、単純な動機かもしれないじゃないですか」
「……そうだな。ただ、犯人が二人いたことは分かっているんだ」
河津もそっけなく告げ、その日の捜査を切りあげた。