最後に笑うのは①
「ねえ、ほら」
白光の差し込むとある大店の一画で、影に紛れるようにして二人の人間が顔を寄せ合っていた。最初に声を掛けたのは妻のとねで、彼女に腕を引かれているのが夫の吉蔵である。
「う、うん。でも、本当にやるのかい?」
吉蔵はおどおどとした様子で妻を見やり、標的に視線を戻した。
そこには一人の年老いた老人がいる。名を為蔵という。大店の店主で、吉蔵とね夫妻の義理の叔父である。というのも、吉蔵が七歳の時に、この為蔵の兄に引き取られたため、そこから縁が続いたというわけだ。
二人の怠惰な仕事ぶりとは裏腹に店は繁盛している。
為蔵が老体に鞭を打って、いまだに毎日店先に立つという状態だ。彼はその生涯において一度も結婚したことが無く、子もいないと言われている。
つまりは、彼が死んだら店は吉蔵とね夫妻の物になるはずなのだが、どうにも雲行きが怪しいというのが、彼らの思うところなのだ。
その一端が、番頭の与一である。歳は三十代半ばと、夫妻とほぼ同年代だが、仕事ぶりは雲泥の差だ。いや、比べるのさえおこがましい。為蔵に怒鳴り散らされながら、必死に仕事をするのが与一の毎日であるのだから。
「馬鹿言ってんじゃないよ。今やらなきゃ、いつやるってんだい」
「……そうだけど、叔父さんを殺すなんて」
吉蔵は今にも泣きそうな顔をした。その情けない夫の顔を見て、とねは口を尖らせる。こいつと結婚したのは失敗だったな、と思うのだ。大店の息子だというから結婚したのに、蓋を開けて見れば店は叔父に取られているし、今だって番頭に持って行かれそうだ。こんな馬鹿みたいなことがあってたまるか、と野心ある、とねは思うのである。
「やるったらやるんだよ。今日、今晩!」
そう夫にはっぱを掛けて、とねは自分の仕事に向かった。彼女は野心家ではあるが、現実主義者でもある。邪魔者の叔父と番頭を片付けたところで、仕事が処理できなければ店は潰れてしまう。あの気の弱い夫を支えるだけではなく、自分自身も仕事が出来るようにならなければ、と覚悟をしている。
忙しく日中を過ごした。相変わらず吉蔵は駄目な夫であるが、しかしそれならば、と妻の言うことだけは従順に聞くのである。彼は昼のうちに与一の私物から煙草入れを盗んでおいた。それとなく彼の動向を注視し、煙草を吸いに行きそうになったらついていくという真似までした。
「やあ、与一さんも?」
青ざめた顔で、しかも汗だくであるから不自然なようにも見られたが、しかし与一は持ち前の気さくさで微笑んで見せた。
「ええ、吉蔵さんも?」
なんて言って懐を漁り、煙草入れが無いことに気が付いたらしい。それですかさず吉蔵が煙草をもう一本取り出して、まあ家に忘れてきたんでしょう、なんてことを言って、ことなきを得たりしたわけだ。
このようにして涙ぐましい努力を重ねることで、煙草入れを失くした状態のまま与一を家に帰すことに成功した。上手くすれば、彼は今晩のうちに店に戻ってくるだろう。
終業してしまうと、店の中にはたったの三人だけ。そのうち二人は共犯で、一人は獲物だ。吉蔵ととねは叔父である為蔵の部屋の前で落ち合った。
「準備は?」
とねが聞くと、吉蔵は気弱そうに眉をハの字に曲げた。
「だ、大丈夫、だと思う」
「思うって何よ!」
そう言いつつ、とねは包丁を一本持ってきていた。それは愛用の品で、あえてそれを選んできたのだ。
部屋の真ん前で怒鳴り声が聞えたからか、中にいた為蔵が不振な声を上げた。
「誰かいるのか!」
「はい、叔父様」
とねがすかさず答え、そっと襖を開けた。もちろん包丁は隠したままだ。
部屋の中はがらんどうだ。為蔵の人生は、この大きな店に全て捧げてきたという。であるから彼は棺桶に片足を突っ込んだ年齢になっても、いまだに働いているのだ。
その蒲団しかない部屋を見渡して吉蔵はぞっとした。自分もこれからこうなるのだろうか、と思うと、むしろこの為蔵を生かす方向に持って行かなければならないのではないか、と思うのだ。しかし、とねは違った。
「叔父様、この間のことですけれど……」
というのは、この店の相続のことだ。結婚してからこっち、とねはずっと店をよこせと言い続けてきた。
なにしろ、この店を創ったのは為蔵の兄、つまりは吉蔵の養い親だ。それが亡くなった時、吉蔵があまりにも小さく、そしてボンクラだったから為蔵へと譲られたのである。
しかし今は状況が違う。吉蔵はもう大人だ。とねや与一だっている。正統な所有者の元へ返すべきだと主張しているのだ。
だが、為蔵は首を振り続けてきた。
とねには、それが店への執着だと映っているようであった。吉蔵には全く見当もつかない。であるから彼は口をつぐんでいるのだ。勝気な妻に人生のあらゆる決断を任せてきた。
今この時だって……。
「答えは変わらん」
為蔵はきっぱりと首を振った。それでとねは、さっと夫を見やり、見られた吉蔵の方は盗んできた与一の煙草入れをその場に落とした。
「何だ、それは?」
「与一の私物ですわ、叔父様」
とねが口の端を歪める。それで為蔵も何かを察したようだったが、二人がかりで襲われては敵わない。
逃げ出そうとした彼の背中に吉蔵が飛び付き、その腹にとねが包丁を突き立てた。
くぐもったような声が聞こえたかと思うと、突然為蔵が小刻みに震えて、そのまま動かなくなった。手にじんわりと生温かい感触が広がり、吉蔵は慌てて叔父の体から離れた。
「あんた、ぼさっとしてないで」
とねに急かされて、吉蔵も一度、叔父の腹に刃を突き立てた。
握り手に血がこびりつき、ぬるぬると滑る。そのまま妻に促されるようにして部屋を飛び出し、裏での井戸で洗い落とした。何度拭っても拭いきれない温かさが手に残った。吉蔵はぶるりと一つ震え、青ざめた顔をした妻を見やった。
「計画通り、だろう?」
震える声でそう囁くと、とねは何度も大きく首を縦に振って、そのまま裏手から二人は出て行った。今日は結婚記念日だ。全部が終わったら祝杯を上げようと約束していた。




