暗闇の中で④
番所の畳敷きの小部屋に浪が連れてこられる。
「棗さんが随分と酷い女だったことは分かりました」
白鳥は恬淡な様子でそう呟いた。目の前に座った浪は、口を真一文字に引き結んだまま俯いていた。
彼はこれまで調べ上げた捜査の結果を机の上に丁寧に並べていく。
それは浪と同じ目にあった女達の現状だ。
いや、浪の未来の姿だと言ってもいいだろう。よほど恐ろしいことがあの遊郭では行なわれていて、そして浪もまた、棗の毒牙にかかっていたのだ。
「棗さんは他人の才能に嫉妬していたそうですね」
――無言だ。
「それで相手の弱みを見つけて、脅しを掛ける。あなたの場合はお母さんだ」
――またしても無言である。
白鳥の指が机を叩く、律動的な音だけが響いていた。
浪は一切視線を上げようとはせず、ただじっと俯いているだけである。
それで、白鳥は絡め手を攻めることにした。気は進まないが、話を聞かないことには捜査が進まないのである。
彼は懐からいくつかの包みを出した。それは浪が毎月のように買っている、母親のための薬だ。聞けば、もうそろそろ予備がなくなるのだという。こうして捕まっている浪には金が払えないから、必然的に母親は苦しむことになる。
「ここに薬があります。僕のお願いを聞いてくれたら、これをあなたのお母さんに届けます」
浪が初めて顔を上げた。
どこか儚げで、月見草のように美しい少女だった。とてもじゃないが客を取っていいような年齢の娘には見えない。
これは男受けするだろうな、と白鳥は冷静に分析し、指を鳴らした。
その小部屋に入ってきたのは三人の楽師である。弦楽器、太鼓、笛を持っている。浪は怪訝な顔をしていた。だが、白鳥は構うことなく目の前にある机を片付けて、彼女のために空間を作った。
「歌ってください。僕のために」
その意味がさっぱり分からなかったのだろう。浪は首をかしげていたが、楽師達が音を奏で始めたために、彼女は素早く立ち上がった。
すかさず河津が扇子を渡すと、浪の方も覚悟を決めたようで、白鳥の目をじっと見ながら、優雅に口を動かした。そこから漏れる旋律は、山紫水明を思わせる、実に穏やかな低音であった。
五曲かそこら歌ってもらったところで、白鳥は大きく頷いた。
それで楽師達を下げ、机を元の位置に戻す。浪は静々と畳の上に膝をつき、扇子を返してくれた。
「棗さんに、歌唱の才能で嫉妬されたんですね?」
そう問いかけると、浪は観念したように頷いた。
棗の狙いは簡単だった。自分より才能のある人間を次々に破壊していくだけだ。そうすれば彼女の地位は安泰で、下から誰かに追い上げられることもない。彼女は常に頂点に立ち続けられるということだ。
「それで、お母さんの薬代と引き換えに、夜の相手を務めるようになった?」
また頷く。白鳥は溜息をついた。その回りくどい言動に河津がやきもきしていたが、やがて白鳥はとんでもないことを口走り始めた。
「あなたのお母さんが、棗さんを殺したと言っています」
浪の目がかっと見開かれた。半ば掴みかかるようにして白鳥に手を伸ばし、その動作を河津になだめられる。
彼女は恐ろしげな顔をして、目の前にいる新米同心をじっと睨んだ。
「母が、そんなことを?」
「ええ。殺したのは自分だ、と」
浪は指を組み、そこに額を乗せた。深々と溜息をつくと、もうあふれる感情を抑えきることは出来なかった。
机の上に雨が降り、それが水溜りを作っていく。
布切れでも貸してやろうかと思ったが、くぐもったように響く嗚咽を前にして、動くことは出来なかった。
しばらくして浪が泣きやんだ。真っ赤に腫らした顔を上げ、大きく胸を膨らませた。
しかし、その口の動きを白鳥が手で制した。彼はちらと後ろを見やり、河津を視界に収めた。
「ちょっと、水を持ってきて差し上げてください」
「……あとでいいんじゃねえか?」
「今です、今」
そう言って急いで河津を追いだし、二人きりになったところで白鳥が咳払いをした。
「あなたには二つの道があります」
浪はきょとんとした顔をした。体を丸めて、下から窺うように白鳥を見ている。それでも構わず口を動かした。河津が戻ってくるまで、僅かな時間しかない。
「一つは、このまま自白するというもの。そして今一つは、お母さんに罪を着せるというもの」
「そんなこと……!」
「しかしこの事件には理由があります。あなたはお母さんの治療費を稼ぐために、あの棗に体を売っていたんでしょう? 牢獄に入って、肝心要の棗も死んで、あなたのお母さんはどうなるんです? このまま苦しんで死なせるんですか?」
「でも、だからと言って母を売るなんて」
白鳥の耳は、はっきりと河津の足音を聞いていた。彼はもうここに戻ってくる。それまでに最も重要なことを聞きださねばならない。
「凶器はどこに隠したんです?」
「母に罪を――」
「早く!」
と言ったところで河津が戻ってきた。ご丁寧にも息を切らし、汗を拭っている。蒼白の顔を歪めた浪と、不機嫌そうな顔の白鳥を見て、この気のよい中年の男は眉をハの字に寄せた。
「なんだよ、そんな目で見なくてもいいじゃねえか」