番人④
ともかく三人は、寺の本堂を脇に見ながら徐々に敷地の裏手へと進んでいた。 日差しが差し込むと思わぬほどの熱気が訪れ、あっという間に汗ばんでしまう。白鳥と河津はそれぞれ顔を見合わせて、この住職の話に集中した。
「……あのお人は、どうでしょうか。内心ではほっとされていたかもしれませんね」
「まあ、犯人も捕まりましたしね」
「いえ、いえ、そうではなく。みつさんが生まれてすぐに、奥さんを亡くしているんですよ。それで泰造さんは、片親でも恥じないように、と厳しい教育を課しておりました」
「それから解放されて、ほっとしていた、と?」
住職は頷いた。時には神経質になり過ぎて、暴力を振るうことさえあったそうだ。父は傍から見ても分かるほど娘の人生に干渉していて、娘はもう父から逃れることを諦めていたのだと住職は言った。
「我々も随分と止めたんですがね。結局は、ああいう結末になってしまいました」
「……熊吉さんが殺した」
「検視した医師によれば、随分と体が弱っていたようですがね」
三人は、それからしばらく黙って歩いたが、寺の裏手に広がる墓地が見えてくると、途端に河津が先導する住職の脇に寄った。
住職は怪訝な顔をしていたが、真剣な表情の河津を見て、何かを察したらしい。これまた彼も真面目な顔をして、つるりと剃りあげた頭を撫でた。
「我々も泰造さんの変貌ぶりには驚いていたのです」
「……熊吉の両親を追いこむようには見えなかった、って?」
「ええ、まあ。泣いて、喚いて、それから熊吉の家に通うようになりました。不毛なことだとは言いましたが、決して止めようとはせず……」
そしていつからか標的が熊吉に変わった。自分の娘は死んだというのに、熊吉はのうのうと生きていて、そしてあまつさえ仕事を持ち、結婚し、普通の暮らしを手に入れようとしている。内心はどうあれ、外面は過去を振り切ったように見えたかもしれない。その憎しみが、泰造を変えさせたのだろうか?
白鳥が首をかしげているうちに、墓地の群れの中に入った。
煤けた墓石が等間隔に並び、無数の卒塔婆が立てられている。達筆過ぎる文字で何やらありがたい文字が羅列されており、それがより一層、この人が眠る場所に荘厳な空気を与えているような気がする。
周囲よりも幾分か冷え込んだような空気を肌に感じながら三人は歩き、そしてとある墓石を見て住職が素っ頓狂な声を上げた。
「あれ! 見てください」
というものだから二人も視線を転じた。と、その瞬間に河津が駆けだし、白鳥は恐怖で身をすくませた。
みつが眠っているという墓に、半ばもたれかかるようにして一人の男が横たわっていたからだ。
見るからに異常だと分かるのは、その男を中心として、おびただしい量の血が地面に滴っていることである。そして飛び散った血が周囲の墓や卒塔婆に、赤褐色の染みをつくっていた。
河津はその凄惨な現場に一つの躊躇いも見せずに飛び込んだ。
遅れて、住職を盾にした白鳥が近付くと、彼は髭面を険しくして喉を枯らすようにして叫んだ。
「おい、医者を呼んで来い」
「ま、まだ生きているんですか?」
「虫けらみたいに言うんじゃねえ。さっさと行け!」
慌てて駆け出した白鳥の背中に住職が言葉を付け加えた。
「厨房に薬師がいるはずです。並大抵の医者よりは腕が良い」
というわけで、白鳥は息をせき切らして、この若い薬師を引きずってきて、自害を図ろうとした泰造の手当てを任せた。彼は見るも無残なほど痩せこけ、そして衰えていたが、しかし脈は確かであるようで、手当をしたらすぐに意識を取り戻した。
まるで眠っていましたとばかりに瞼を上げると、周囲の状況を顧みて、深々と溜息をついた。
「……ああ、住職さん」
「ええ、ここで何をなさったのです? 泰造さん」
白鳥と河津は、それぞれ顔を見合わせた。泰造はまたしても腹の底から息を吐き、そして力なく咳き込んだ。その背中を住職が撫でてやると、彼は心底心地よさそうに微笑んだ。
「……私は、ついにやり遂げました」
「熊吉さんを殺したことですか?」
「……何故、知っておられるのです?」
住職はかぶりを振り、白鳥と河津をちらと見やった。それで泰造も、どうやら見知らぬ男が二人いると気がついた。
「……どちらさまでしょう?」
「同心だ。念願かどうかは知らんがね、熊吉殺しであんたを捕まえなけりゃあならん」
河津が恬淡な様子で告げると、泰造は急に飛び起きた。そのまま苦悶の表情を浮かべ、手首を握りしめた。傷口からしとしとと血が流れ出すと、住職は慌てて泰造を座らせた。薬師が急いで止血する様子を見ながら、河津は首を振った。
「事情はどうあれ、人を殺したことには変わりないんだからな」
「それは! 私は娘を殺した人間を――」
「どれほど高尚な理由を立てようとな、事実は曲げらんねえんだ。お前は熊吉を殺した。それが事実だ」
「あの男は娘を殺したんですよ?」
「だから五年も収監されていただろう?」
「たった五年だ! 私の娘の命は、たった五年の価値しかないのですか?」
そういきり立つ泰造の背中を住職がそっと叩いた。血走った顔をした彼が振り返ると、この寺の主は、それこそどんな悪人も改心させてしまうような、そんな憂いの帯びた表情を面上に張り付けた。
「泰造さん、もうやめにしませんか?」
「住職? 何をおっしゃるのです」
「聞けば熊吉さんは罪を償ったそうじゃありませんか。苦役も課され、そして更生計画も全うした。他に何がいるというのです?」
「そんなことをされたって、みつは戻ってきません。あの可愛い私の娘は」
泰造が殊勝な言葉を吐くと、住職は一歩分だけ身を引いて険しい顔をした。
「可愛いなどと……ご自分の胸に手を当てて、娘にした仕打ちを思い出して御覧なさい」
徳の高い坊主ってのは、それだけ得な存在だ。その峻厳な顔に泰造が恐れをなした。であるから住職は言葉を続けた。
「……飯が気に食わないから殴り、金を稼いでこないから蹴り、他に何をしました? あの娘に文句と暴力を見舞う以外にです」
泰造は黙りこんでしまった。ばつが悪そうに住職を見て、それから堪らず地面に唾を吐いた。
「結局、あなたもこの同心達の味方なのですね」
「……道理を説いているのですよ。彼がなしたように、あなたも更生するべきなのです」
泰造は黙りこんだ。座り込んだまま、ぼんやりと遠くを見つめている。
誰が呼んだのかは分からないが、この地区を担当する同心が三人ほど近付いてきていた。それぞれが怪訝な顔をしている。
白鳥は慌てて印籠を取り出した。それで相手も納得したのか、泰造にいくつかの事実を告げて、さっさと立ち上がらせた。
「じゃあ、我々はこいつを移送します」
三人の同心がぺこぺこと頭を下げながら去っていく。その後ろ姿を見送って、白鳥は太息をした。
「……何が正しいのか、分からなくなりますね」
「考えるな。事実だけを簡潔に捉えるんだ。あいつは人を殺した。だから捕まえる。少なくとも俺達は、そうやって動かないとな」
「……この前、犯人を逃がしちゃいましたよ」
「お嬢に殺されなかったか?」
「そのお嬢が良いって言ったんですよ」
河津がぎょっと飛びのいた。それからまるでこの世ならざるものを見るように白鳥を窺い、手品を見せられた子供のように乾いた笑い声を上げた。
「まさか! 天地がひっくりかえってもあるまいよ」
「天地がひっくり返ったんですよ」
白鳥は力なくそう呟いて、雲一つない空を見上げた。
その背中は嫌に落ち込んでいるように見えて、河津でさえも声を掛けるのが躊躇われるほどである。
彼はちらと住職を窺い、助けてくれと視線で懇願した。
「……お若いの、その気持ちを忘れてはいけませんよ」
「……嫌でも忘れられません」
「それで良い。人の心を失くしてはなりませんよ」
「……それじゃ俺が人でなしみたいじゃねえか」
河津の独語が青空に吸い込まれた。