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第二八番隊  作者: 鱗田陽
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番人②

 怪しい人影は熊吉の家から真っ直ぐ豆河通りを目指したらしい。

 四つか五つの区画を隔ててしまえば、人の波に紛れられると思ったのだろう。確かにこれは正解で、人が多くなるに従って、この怪しい人影を見たという情報は少なくなっていった。

「随分周到だな」

 河津が苛立たしげに呟いた。今や人出の多い豆河通りを一本隔てたところにいる。けたたましい売り子の声を聞きながら、二人は当てもなく怪しい人間を見なかったか、と聞いて回った。

 その逃げた男は青一色の麻の着物で、右足を引きずっていたのだという。熊吉と争ったわけではないようで、行きも帰りも足を引きずっていたのだそうだ。顔を見た者はないから、仕方なしに曖昧に尋ねてみるが、けれども現場から離れれば目撃者は減るものだ。

「確実に殺そうとしていたのかもしれませんね」

「……だろうな。熊吉夫妻の生活を把握していたとしか思えん。でなければ、こんな真っ昼間に殺したりするものか」

 河津が忌々しげに吐き捨てる。今や西に傾いているとはいえ、犯行時刻は南中に程近いくらいだったそうだ。白昼堂々と襲い、逃げるのだから、熊吉だけでなく周囲の人間関係まできちんと把握していないと出来ない芸当だ。

 では、どこへ逃げたというのだろう。それが分からない。ある地点でぷっつりと情報が途絶えてしまい、二人は途方にくれた。

 辺りをさっと見渡す。どうやら熊吉を殺した男は、このままどこかに消えてしまったらしい。

 はたしてそんなことが可能かどうかはさておいて、白鳥はむっつりと黙りこくったまま、視線を転じる。

 もう薄暮の時を迎えていた。次々に店じまいをする音が聞こえてきて、周囲の混雑が解消されていく。畢竟、それは二人にとっては危険信号のようなものだ。人がいなくなってしまえば聞き込みは捗らない。

「……熊吉の仕事場にでも行きますか?」

 ただ、白鳥の方は諦め気味だ。なにしろ多くの同心を駆り立てたにもかかわらず、犯人の足取りは杳として掴めないのだから。

 これから夜になり、ひと気が薄くなってくると、なおさら如何ともしがたい無力感が襲いかかってくる。それならば確実に人がおり、事件に関係のある人物を当たった方がましだというのだ。

「そうすっかあ」

 河津の方も諦めよく頷いて、彼らは豆河通りに出た。巣へ帰る鳥達のあとを追いながら、通りの端に位置する熊吉の奉公先へと足を向けた。

 戸を叩くと、すぐさま中に案内される。日中にも同心が来ていたようで、店主も大体の事情は把握しているらしい。四十半ばくらいの男が悲しげにこうべを垂れていた。

「あれは、随分と良く働いてくれました」

 店主が言う。社会貢献の一環として更生施設に出入りしていた彼は、そこで熊吉と出会ったのだという。

「生活態度も真面目で、心根の優しい少年だと思っておりました。一体どのような罪を課したのかと尋ねたら、なんと殺しだと言うじゃありませんか」

「その時は、どう思われたのです?」

 白鳥が問うと、店主は乱れた髪の毛を撫でつけ、それから深々と溜息をついた。

「冗談だろうと思いました。実際に話を聞くまでは。しかし、人生をやり直す気もあり、かつそのために努力をしている。何とか機会を与えてやりたいと思ったものです」

「それで、店で雇った?」

「ええ。一緒になりたいと言ってくれた女性もいたそうですから。……いずれは店を任せても良いかと思っておりました」

「それほど信頼していたんですか」

 遠くから家に帰る子供達の声が聞こえてきた。それよりも遠く響くように花街の盛大な音楽の音が聞こえ始めて、三人の間の沈黙がより一層鮮明な物になった。

 ちらと窺うと、河津の方はまなじりを涙で濡らしている。過ちを犯したとはいえ、それを乗り越えようとしている青年を殺すなど……。やりきれないのだろう。

 そうして視線を戻してみると、店主の方も涙にくれていた。聞けば子供が無く、熊吉を我が子同然に可愛がってきたのだという。初めて出会ったその日から約五年、彼らは本物の信頼関係を築いてきたようだ。

 そんな人間に聞くのも憚られたが、しかし仕事だ。白鳥は気合を入れて店主に水を向けた。

「殺した人間に心当たりはありませんか?」

「……昼間に来た方々にも言いましたが、被害者遺族の方ではないでしょうか。特に娘の父親などは、大層怒り狂っていたそうです」

「この店に来たことも?」

「直接はありませんが、投げ文や張り紙がなされていたことはございます。しかし、我々も隠しだてする気はなく、事前に近所一帯にお伝えしておりましたから、それと言った混乱は……」

 店主が口をつぐんだ。何かあるのは明白だが、どこまで突っ込んだらよいものか……。白鳥は考えあぐねていた。河津を窺うと、彼は髭にまみれた強面を涙で濡らしている。宵闇の頃と相まって、彼の中年なりの同情心が感情を激しく揺さぶっているらしい。

 店主が溜息交じりに首を振った。

「……こう、言いたくはありませんが――」

「ええ。心当たりでも良いんですよ」

「――殺された娘の父親は、大変激しく熊吉の厳罰を求めておりました。更生施設に何度も足を運び、彼を罵ることもあったそうです。噂ではありますが、熊吉の両親の家にも同様のことをしたとか何とか」

 聞けば、殺された娘――みつというらしい――の父親である泰造は、熊吉の両親を何度も脅迫し、そして暴力を振るったのだという。

 それに耐えかねて彼の両親がいなくなった頃には、熊吉本人が娑婆に出てきてまっとうな道を歩んでいる。標的を変えたのではないかという。

「娘を殺されて辛いのは分かりますよ。私だって、熊吉が死んで辛い思いをしていますからね。でも、それにしたって執拗だ」

「熊吉が、何故みつを殺したのか、ってことはお聞きになりましたか?」

「いいえ。ただ、不可抗力だったとは言っておりました。凶器を持って殺したというわけではなく、言い合いになって押し倒したところ、頭を打って亡くなったのだとか……」

「本人が?」

「ええ。……ねえ、お願いします。どうか、あの泰造を捕まえてはもらえませんか? 熊吉が人殺しをしたのは事実ですが、その報復にしたって、あんまりですよ」

 それで限界が来たのか、店主がわっと泣き出してしまった。彼からしてみれば、息子と跡継ぎを同時に失ったようなものだ。

 事情はあれども、これ以上何かをする訳にもいかず、二人は店を辞した。その頃にはもう夜も更けていて、その日の仕事は終わりにしようと道中で話し合った。

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