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第二八番隊  作者: 鱗田陽
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番人①

 さて、世の中では善と悪、なんて言葉が言われるけれども、実際のところはどうなんだろう、と白鳥は考えていた。

 彼は今、とある容疑者を前にしていた。身寄りのない老人で家族もなければ友人もない。広い市中のど真ん中で忘れ去られたような人間だ。

 その彼が食い逃げをしたのだという。いや、実際には無銭飲食と言うべきだろうか。彼は逃げる間もなく捕まったのだから。

「――昔は沢山の舟を抱える漁師だったのさ」

 しかし一つ言えることは、この老人、やむにやまれず犯行に及んだわけではないということだ。金には困っていない。

「あのですね、お爺さん」

 白鳥が呆れた顔をすると、彼は存外喜ばしげに目を細めた。なるほど、誰かと会話をするためならば、手段は選ばないということなのだ。

 白鳥は別の同心が作った報告書を一瞥し、そして溜息をついた。懐に食事代くらいは入っていた。にもかかわらず、こんなことをしでかしたのには理由がある。

 これは善と言うべきか、悪と言うべきか。いや、法に基づけば一点の曇りもなく悪なのだが、この老人に感謝している奴もいる。とある商家の息子などは、亡くなった祖父の形見を修復してもらって、謝礼金まで払ったほどだ。そしてその金を、この老人は近所の寺に寄進してしまった。金ではなく、人との交わりが目的なのだ。

 まあ、そんなわけで白鳥には善と悪の区別がつかなくなってきた。邪気のある善と、無邪気な悪とでは、どちらの方が罪深いのだろう。こういう疑問を河津にぶつけてみると、彼は自慢の髭を引っ張りながら、そっけなく首を振った。

「俺達は犯罪を捜査すればいいのさ。それ以外は考えない」

「じゃあ、河津さんは一度も犯罪者に肩入れしたことが無いんですか?」

「……ねえよ」

 これが嘘であることは誰もが分かっている。先日だって、やむにやまれず盗みを働いた親子の減刑を嘆願したほどだ。おかげで彼らを雇おうという職人まで現れて、事態は一気に決着した。彼こそ善と悪に惑わされる象徴なのだが、白鳥はあえて口にはしなかった。

 その日、善と悪のことについて思いを悩ませる羽目になった。

これを区別する線引きは何だろうか。新人の白鳥が直面する難しい課題であった。

 平野がいれば、いくらでも答えをくれたかもしれないが、生憎彼女は急用で、市中の外に出払っている。だからこそ二人はぼんやりと、無体ないことを考えていられるというわけだ。

 そうして無為に時間を過ごしていると、目明しの一人が勢い込んで飛び込んできた。

 いったい何事か、と二人してじろりと睨んだものだから、彼はすっと気を失って、そのままへたり込んでしまった。代わって息を切らしながら一人の同心が飛び込んできた。

「河津さん、白鳥、殺しが起きました」

 というわけで捜査に放り込まれた。

 今この時ばかりは善と悪のことなど考えたりはしない。必要なのは事実だけだ。そこに感情が込められていると事実が歪む可能性がある。途端に第三者となり、その事件の概要を追いかけ始めているのだ。たぶん。

 現場までの道中で、汗みずくの同心から事件について話を聞く。彼はまさしく息も絶え絶えで、ともすれば立ち止まることもあったが、二人は決してそちらには気を向けなかった。すぐにでも現場に行き、さっさと捜査を終わらせてしまいたい、という打算的な心が僅かばかりあったことは否めない。

「被害者は熊吉、二一歳。第一発見者は彼の奥さんです」

「若いのにしっかりしているな」

 河津が呟くと、同心は呆れたように首を振った。

「熊吉は当時の恋人を殺して五年、収監されていました」

「死罪にならなかったのは何故だ?」

「少年だったからだと報告を受けております。更生の余地あり、ということで、相応の苦役を積んだようです。そこで、とある娘と出会い、罪を償ったのを機に結婚したようですね」

「羨ましい限りだな」

「まあ、河津さんは望んでも出来ないですもんね」

 そんなことを言い合いながら、熊吉の家までやってくる。

 どうやら暮らしぶりは悪くなかったようで、豆河通りの外れにある小さな商家で奉公をしていたのだという。妻の方も武家の屋敷で女中働きをしており、贅沢をしなければ暮らしていけるだけの収入はあったようだ。

「で、誰がやったかは分かってんのか?」

 河津が問うと、捜査に当たっていた同心が、つつっと近づいてきた。

 こうしてみると、いつも蔑んでいる彼だって平野と変わらないくらい信頼されている。情に厚いところが親分気質だと評されているらしく、同心や目明しからの評価は高い。

「どうやら逃げていく人影を見たらしく、目撃情報に沿って、捜査範囲を広げているところです」

「第一容疑者は殺しの被害者遺族ですかねえ」

 文字通り惨殺といった感じの熊吉を見下ろして、白鳥は気のない声を上げた。彼の体には五カ所も傷がある。その上、顔には殴られたあとも。一見して相手が恨みを持っていたのだと分かるようだ。

 もしも熊吉に殺された娘の遺族が相手だとしたら、これは厄介な話だ。誰が何を言ってくるか分からない。やはり犯罪者というのは、どこまで行っても罪が拭えないものであるから。例えまっとうな道を歩んでいたとしても常人よりは恨みが多い。

「凶器は?」

「見つかっておりません」

 というわけで二人も目撃情報を集めることにした。数多くの同心が聞き込みに出ているから、それを手伝いに行った。

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